徒歩一分の距離に家出する
昔、ウィリアムとアルバート兄様と喧嘩したルイスがモランのところに家出してたことがあったら良いな。
モランはルイスの良き兄貴分であり良きパパ。
「家出してきました。しばらく泊めてください」
「は?」
「お邪魔します」
ノックに応えて扉を開けた先には誰もいなかった。
のではなく、ただモランの身長が高すぎるゆえに、訪問者が視界に入っていなかっただけらしい。
視線を下に向ければ大きな猫目をした子どもが凛とモランを見上げていて、言い澱むことなく言葉を発したかと思えば、扉とモランの隙間からするりと部屋の奥に入っていってしまった。
「…煙草臭いですね」
「当たり前だろ。つーかおまえ何しに来たんだ?ウィリアムはどうしたんだよ」
「………」
大きな肩掛けの鞄を背負い、手には毛布らしき布を持っている小さな訪問者であるルイスを見て、モランは怪訝な顔を隠さず言う。
とあることがきっかけで彼の兄であるウィリアムに忠誠を誓ったモランは、次期当主であるアルバートが所有するこの屋敷に居候している身だ。
体格に見合ったそこそこ大きい部屋を充てがわれており、守っていないけれど基本的にここでしか喫煙を許可されていないのだから煙の匂いが付くのは当然である。
不満そうな言葉とは裏腹に表情を一切変えないルイスのことが、モランはあまり得意ではない。
ウィリアムほど大人びているわけでもないため、そうなると一般的な子どもの扱いがよく分からなかった。
ルイスもルイスで一般的な子どもらしくない子どもであるのに、背伸びして大人の真似事をしているのだから余計に扱いに困る。
大体いつもルイスはウィリアムとセットでいるのだから、ルイス一人でモランの部屋を訪ねること自体にも違和感があった。
あっさり部屋に侵入したルイスの後ろにはウィリアムがいるのだろうかともう一度扉の外へ目をやるが、正面にも左右どちらにも人影すら見当たらなかった。
「ルイス、おまえ一人か?」
「はい」
「何しに来たんだよ、おまえ一人で」
「家出してきたと言ったじゃありませんか」
「は???」
数分前に言われたばかりの言葉をもう一度繰り返したルイスは、聞こえていなかったんですか、と不遜な態度でモランを見上げていた。
そうして大きな鞄と毛布をモランに見せるように掲げたかと思えば、必要なものは持ってきました、と用意周到な自分を誇らしげにアピールしている。
大人になろうと背伸びをしている子どもらしくない子どもは、圧倒的に子どもなのだとこの瞬間にモランは悟った。
「…で、家出ってどういうことだよ」
「兄さんの部屋にも兄様の部屋にも帰りたくありません。でも僕の部屋は兄さんの本でいっぱいなので、寝るスペースがないんです。モランさんの部屋のベッドなら特注で大きいものを用意しているので、僕が寝ても大丈夫かと思いまして」
「いや待て、文章ごとに突っ込みどころがあるんだが」
「?」
そうですか?と大きな瞳が語りかけてくるが、透き通った赤い瞳には、分かりにくい説明だったでしょうか、という根本からズレた考えが見えてくる。
モランは滅多に使わない一人掛けのソファに腰を下ろし、わざわざ特注したらしいキングサイズのベッドにはルイスが座っていた。
荷物の整理をしようとする手を止めてまずは事情を聞こうとしたのだが、理解出来るはずの説明は理解し難い内容でしかない。
面倒ごとに巻き込まれたのだと気付いたモランは大きく息を吐き、忠誠を誓ったウィリアムと瓜二つの顔を持つルイスを見た。
「生憎、俺の部屋は俺一人で手狭いんだよ。おまえが寝るスペースはねぇ」
「僕一人混ざってもきっと大丈夫です。モランさんがいつも言うように、僕はちんまりしてますし」
「…おまえな」
いつもモランがちんまりしていると言えばムッとして反論するくせに、都合が良いときだけちんまりした体を活用しようとは図々しい。
誰に似たんだウィリアムかと、モランは要らないところで兄弟の血の繋がりを実感した。
だが現実として、小柄なルイスならばモランのベッドに紛れても大して困らないだろう。
問題はその実行が難しいことである。
あれほどルイスを溺愛しているウィリアムとアルバートが、いくらモランとはいえルイスを一晩任せきりにするとは思えない。
あの二人はルイスが自覚している以上にルイスに過保護なのだ。
「ベッドを貸してもらえなくても部屋の隅を貸してもらえれば良いですよ。毛布を持ってきたので、床でも寝られます」
「おまえにそんな真似させられる訳ねぇだろ」
ルイスを一人床で寝かせようものなら、ルイスがモランと一緒に寝る以上にウィリアムとアルバートの怒りを買うだろう。
モランとて子どもを差し置いてベッドでぬくぬく寝るような神経を持ち合わせていないし、それならばルイスではなく自分が床で寝ることを選ぶ。
至極真っ当な大人の思考をしているモランは、ルイスを床で寝かせるわけにはいかないもう一つの理由を口にした。
「大体おまえ、この前まで風邪引いてたじゃねぇか。体の調子は良いのかよ」
「…もう治ってます。先生に指示された訓練もちゃんとこなしています」
「それなら良いけどよ。まだ心配してるだろ、ウィリアムもアルバートも」
「……兄さんにも兄様にも、僕が体調を崩していたことは教えていません」
「は?」
ムッとした表情で、ルイスは鞄を膝に抱いて縋り付く。
つい先日、ルイスは日頃の無理が祟ったのか気温の変化に対応しきれなかったのか、思いがけず風邪を引いた。
掃除中にいきなり倒れたルイスを抱き上げてその発熱に気付いたモランは、すぐに主治医を呼び寄せて診察を受けさせてくれたのだ。
三十九度近い熱を出して魘される小さな体は、かつての地獄を知っているモランですら今にも死にそうだとゾッとしたものである。
そして、苦痛が強いだろうに弱音一つ吐かずに薬を飲んで静かに眠るルイスを、慣れないなりに看病したのもモランだった。
何故なら、ルイスが倒れたのはアルバートとウィリアムが泊まりで出かけている最中だったのだから。
休暇中だというのに二人にはイートン校からの課題で宿泊研修が予定されていたため、ルイスはモランとともに屋敷に残っていたのだ。
アルバートとウィリアムのいない五日間のうち、初日にルイスは倒れたがその三日後には復活し、二人が帰宅する頃にはすっかりと回復していた。
モランの目から見た限りはすっかり元のルイスだと思っていたが、それでも無理しないに越したことはないだろう。
ただでさえ心臓を患っていた過去があるのだし、だからこそウィリアムも日頃からルイスのことを過剰に心配していた。
ルイスがウィリアムにとっての要であることをモランは知っている。
そのルイスがウィリアムのいない間に風邪を引いたのだからさぞ心配になるだろう。
きっとしばらくはルイスの体調を見張るためにもルイスから離れないだろうと踏んでいたからこそ、一人でモランを訪ねてきたルイスに違和感を覚えていたのだ。
だがモランの予想とは異なり、そもそもルイスは兄達が不在だった間のことを話していないという。
何故話していないのだろうか。
「お二人に心配をかけたくありませんでしたし、帰ってくる頃には治っていたのだから、隠してしまえばいいと思ったんです。だからモランさんにも言わないでほしいとお願いしたんです」
「だっておまえ、あのときは自分から伝えるって言ってたじゃねぇか」
「あれは嘘です」
「おまえな…」
「もう過ぎたことですし、知らないままでいればお二人に迷惑をかけることもないと思ったんです。…ウィリアム兄さんとアルバート兄様の、心配そうなお顔は見たくなかったから」
体の半分以上ある大きさの鞄を抱きしめて、ルイスは拗ねたように言う。
自分を心配する兄の顔は見たくないのだと、そう考えるルイスの思考は子どもらしくない。
だがウィリアムもアルバートも、自分が知らない間にルイスが体調を崩していたのであればきっと知りたかったに違いない。
そのとき何が出来たわけでもないにしろ、大事な弟が苦しんでいたことを知らずに日々を生きるというのはとても悲しいことだろう。
全てが終わった後だろうと労い慈しんで、頑張ったねと声を掛けるくらいは出来る。
だがルイスが事実を伝えなかったせいでそれすらも出来なかったのだと思えば、モランとてウィリアムとアルバートに同情すらしてしまう。
それほどあの二人はルイスのことを大事に想っているのだから。
「それ、あの二人は嫌なんじゃねぇか」
「バレなければ良いと思ったんです」
「はぁ…」
悪びれなく堂々言い放つルイスを見て、良い性格をしているなと思う。
だがルイスもルイスなりに兄を慮っての行動だったのだろう。
褒められたものではないし、モランからしてみれば間違っているだろうとは思うが、ルイスにとっては最善の行動だったのだ。
「でも、今日、主治医が往診に来てくれて」
「そういやさっき誰か来てたな。医者だったのか」
「約束はなかったのですが、治った後の様子を診にきてくださったようです。それで、兄さんと兄様の研修中に僕が風邪を引いたことを、話してしまって」
「あー…なるほどな」
「どうして教えてくれなかったのかと聞かれて…もう治ったから言わなくて良いと思ったんですと伝えたら、お二人が怒ってしまって」
拗ねたような顔をしていたくせに、今にも泣きそうな顔でルイスは言う。
二人が怒った理由はちゃんと理解しているのだろう。
ルイスだって自分が知らない間にウィリアムとアルバートが体調を崩していたら心配するし、けれどそれを隠されていたらとても悲しくなる。
ただでさえウィリアムとアルバートが自分の体のことについては過剰に気にしていることを知っているのだから、きっと二人が受けた衝撃はルイスの想像以上だろう。
モランはまたも大きなため息を吐いて、呆れたように目の前の小さい子どもを見る。
煙草を吸いたい気分だったが、今のルイスの前で吸うわけにもいかなかった。
「心配かけたくなかったのに、結局心配されて、どうして隠していたのかと怒られて…ちゃんと理由、言ったのに」
「その理由が納得いかなかったんだろ、ウィリアムもアルバートも」
「…ちゃんと風邪を治して、屋敷の掃除もちゃんとしていたのに、そんなことしなくて良かったって、まだ休んでいなさいって」
「……」
「僕、ちゃんと二人のために頑張ってたのに」
ウィリアムとアルバートが怒ったというのならば、今のルイスの発言が一番の理由だろう。
体調が悪かったことを隠していただけでなく、病み上がりの体で屋敷の管理に精を出していたことが二人の琴線に触れたのだ。
モランとてさすがにルイスに任せきりにはせず手伝ってはいたが、第三者の目から見ても病み上がりの人間がこなす仕事量ではなかった。
だがモランの言うことをルイスが聞き入れるわけもなく、少なくともまた倒れることのないよう見張ってはいたのだが、無理矢理にでもベッドに押さえ込んでおけば良かったのかもしれない。
「はぁ…」
「……」
「ルイス」
「…何ですか」
「おまえが全面的に悪い。風邪を隠そうとしたことも、自分の体より屋敷を優先したことも、それをあいつらに伝えたことも、全部おまえが悪い」
「…僕、悪くないですもん」
「おまえが悪いんだよ」
「僕はお二人に心配をかけまいと隠していただけです。ちゃんとウィリアム兄さんとアルバート兄様のために家を綺麗にしていました。僕、悪いことなんてしていません」
モランの言葉にルイスは反抗的な目を向けるが、それでも自分の立場の悪さを理解しているようで迫力はない。
本心ではウィリアムとアルバートの言葉が正しいと分かっているし、モランの言葉に間違いがないことも分かっているのだ。
それでも妙な意地を張ってしまって、今更撤回することなど出来ないのだろう。
全くもって、今のルイスは子どもそのものだ。
親のために料理を作ろうと内緒で包丁を持ち出して火を扱った子どもを叱りつけたら、今のルイスと同じ顔をするに違いない。
「それで、家出してきたってか」
「はい。ウィリアム兄さんのお部屋にもアルバート兄様のお部屋にも帰りたくありません」
「そりゃまた大層な家出だな。歩いて一分か」
発想が子ども過ぎて呆れ果てるしかないのだが、当のルイスは真面目な顔をしているのだから無下にも出来ない。
戦場では恐れられたモランとて、今にも泣きそうな子どもを追い出すほど非情ではないのだ。
それでも呆れ果てたため息を消すことは出来なくて、モランはまたも大きな息を吐いてはルイスを見た。
「モラン、いるかい?」
扉をノックする音と在室を確認する声が聞こえてきた。
聞き覚えがあるどころではないその声にルイスは分かりやすく肩を上げ、わたわたと部屋の中を見渡しては隠れるスペースがないことに顔を青くさせている。
もう観念しろとモランが返事をしようとするが、ルイスは首を振って懇願する。
ここにいることは兄さんには言わないでくださいと、そう願っているのがありありと分かる顔だ。
表情を変えない子どもだと認識していたが、この短時間で随分と色々な表情を見た気がする。
モランがそう考えていると、ルイスは持ってきていた毛布を頭からかぶり出した。
隠れているつもりなのだろう、大きな鞄を抱き込んで丸くなった体を毛布で覆って息を潜めている。
だがあまりにもお粗末なそのかくれんぼに、ウィリアムが気付かないはずもないだろう。
モランはせめてもの情けとして、自分の口からはルイスの居場所を伝えないくらいはしてやるかと心に決めた。
「おう、ウィリアム。アルバートもいたのか。二人揃って何か用か?」
「…ルイスを見ていないかと思って来たんだ」
「ルイスがどこにいるかご存知ありませんか?」
「いや、知らねぇな」
扉を開けて二人を見たモランの目には、背後にあるベッドの上に存在する不自然な山を見つめるウィリアムとアルバートがいた。
言うまでもなくルイスの居場所はすぐに知れてしまったけれど、モランに罪はないだろう。
お粗末な隠れ方をしたルイスが悪いのだ。
「モラン、もしルイスが来たら、もう怒ってないよって伝えてもらって良いかな?」
「それと、大きな声を出してすまなかったと伝えておいていただきたい」
「あー、もしここに来たらな。そんときは伝えてやるよ」
「それと、もう隠し事はしないようにモランからも伝えておいてもらえるかい?」
「あいつが俺の言うこと聞くわけないだろ」
「もしもということがありますから」
「言っておくけどよ…期待すんじゃねぇぞ」
「ありがとう、助かるよ。それと、この前はルイスの看病をしてくれてありがとう」
「これからもルイスが迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「気にしなくて良いぜ。まだあいつは子どもだからな」
「ふふ、そう言ってもらえると助かるよ」
ふわりと笑うウィリアムと優しく微笑むアルバートは、モランの先にいるルイスを思って言葉を掛けているのだろう。
得体の知れない迫力を持つ二人だが、今はただ弟を心配する兄でしかない。
仲の良い兄弟だなと、改めてモランが考えていると二人はあっさり帰っていった。
「おいルイス、もう出て来て良いぞ」
「…モランさん、兄さんと兄様は…まだ怒っていましたか?」
大方、毛布を被って耳を塞いでいたのだろう。
ルイスは怯えたような顔で二人の様子を聞こうとしている。
そんな顔をするくらいならとっとと謝ってしまえばいいものの、張ってしまった意地をどこかへやる方法が分からないのだろう。
ウィリアムとアルバートに嫌われたら生きていけないくせに、それでも今のルイスは素直になれないのだ。
家出と称して一晩二人から離れて頭を冷やせば冷静になれるに違いない。
モランは小さな頭を軽く小突いて、極力明るい声で宥めるように言い聞かせた。
「怒ってなかったよ。安心しろ」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ。ウィリアムもアルバートも、おまえに怒ったことを謝ってた。あいつらが謝ったんだからおまえも謝れるだろ?」
「…でも」
「今すぐじゃなくて良い。今夜はちょっと出てくるから、この部屋でゆっくり頭冷やして明日にでも謝ってこい。だいすきな兄さんと兄様に嫌われても、俺は知らねぇからな」
「……はい」
意地っ張りな子どもは赤い瞳を潤ませて、今はここにいないふたりの兄を思い浮かべている。
ウィリアムとアルバートがルイスを嫌うことなどありえないだろうが、そのありえないことを恐れているルイスなのだから良い脅しになっただろう。
モランは煙草を片手に持ち、自分の行いを反省しているルイスの頭を軽く撫でてから夜の街へと繰り出すべく歩き始める。
そうして部屋の外に出る前にルイスを振り返り、もう一つの伝言を大きい声で伝えてやった。
(ルイス、僕と兄さんがいない間に風邪を引いていたというのは本当なのかい?)
(…でも、お二人が帰って来た頃にはもう治っていました)
(そういう問題じゃないことくらい分かっているだろう!)
(ちゃ、ちゃんと屋敷の掃除はしていました!お二人のベッドのシーツも交換してあります!)
(病み上がりの体で屋敷のことをしていたのかい?無理をしてはいけないと、あれほど言っていたのに…!)
(ルイス、どうして自分の体を大事に出来ないんだ!)
(だ、だって僕、ちゃんと自分の仕事をしていました!お二人に迷惑はかけていません!話したらきっと心配すると思って、だから言わなくても良いと思って…)
(掃除なんてしなくて良かったのに…まだ休んでいないと駄目じゃないか!)
(体調が悪かったことを隠すだけじゃなく、治ってすぐの体で動いていたことが良いわけないだろう!)
(…〜〜!)
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