嫌われたのなら手段はひとつ
ルイスがウィリアムに「嫌い」と言ってしまったときの思い出を兄さん兄様が話している。
ウィルイスにおいて依存度が高いのは実はウィリアムだし、他の誰かにルイスをあげるくらいならルイスとと一緒に地獄へ行くと良いな。
「それではアルバート兄様、ウィリアム兄さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい、ルイス」
「気をつけておいで」
「はい」
小さな体に見合わない大きめの外套はルイスの体をますます小柄に見せていて、けれど不恰好というよりもどこか可愛らしい印象が強い。
本人は嫌がるだろうが、庇護されるべき子どもらしさが際立つからなのだろう。
大きくなるから大きめに仕立ててください、と背を伸ばそうと頑張るルイスはそのことに気付いていないし、背が伸びれば大人になれるのだと信じる姿は世間を知らない末っ子そのもので兄達は気に入っている。
ウィリアムはかつてアルバートが使用していた二人共有のハットを手に取り、ふわりと舞うルイスの髪を撫でつけてから被せてあげた。
手入れのされたシルクハットにフロックコートを合わせた姿は、どこからどう見ても名門伯爵家の子息に相応しい出立ちだ。
上質な衣服に着られることなく洗練された弟は、これからジャックとともに買い出しに行く予定である。
いずれはアルバートから屋敷の管理を任されるのだと一人使命感に燃えているルイスのため、尚早だとは知りながらジャックは手広く面倒を見てくれているのだ。
「ではお二人とも、我々は行ってまいります。留守の間、何かありましたらメイドにお申し付けください」
「分かりました。ルイスをお願いします」
「えぇ。行きますぞ、ルイス坊ちゃん」
「はい。よろしくお願いします」
「行ってらっしゃい、ルイス」
ウィリアムに被せてもらったハットに手をやり、ルイスは顔を上げてふわりと笑う。
まるで、ありがとうございます、と礼を言っているようなその表情に頷きを返せば、ルイスはますます満足したように大きな瞳を緩ませている。
そうしてアルバートを見やり、ハットをくれてありがとうございます、と言葉にして礼を伝えてからジャックとともに屋敷を出て行った。
「二人は本当に仲が良いね」
「え?」
ルイスは張り切って出かけていったが、ウィリアムはどこか落ち着かないまま用意された紅茶を前にただ座っている。
アルバートが出会ってからの二人はいつ見てもセットのような存在で、片方がいなければ無意識にもう片方に所在を尋ねてしまう程度には一緒にいる姿が馴染んでいた。
今までの様子から見て、ルイスの方が依存心が強くウィリアムから離れたがらないのだと思っていたけれど、本当のところはそうでもなかったらしい。
割合さっぱりとジャックとともに出かけていったルイスとは対照的に、ウィリアムは珍しくも心許なく落ち着きのない様子を見せていた。
おそらく、ルイスは今日初めてウィリアムから離れて一人で行動するのだろう。
不安以上にいつか兄のためになることを学べるのが嬉しいルイスと、大事な弟が自分の手を離れて行動することが不安で仕方のないウィリアム。
隣にルイスがいないこと、今のルイスに危険が迫っていないかどうか知る術がないこと。
この二つのポイントはいつも冷静なウィリアムから平常心を簡単に奪い取っていた。
「心配なんだろう?ルイスのことが」
「…アルバート兄さんにはお見通しですね」
「君はルイスのことであれば案外分かりやすいから」
アルバートは風味豊かな紅茶を口に含み、穏やかにウィリアムへと笑いかけた。
ウィリアム本人が見定めた人間とともに行動しているのだから今のルイスに危険があるはずもない。
それを理解しているからこそ、ウィリアムはジャックとともにルイスが出かけることを許可したのだから。
けれど理屈と感情は別物だと、指摘されたことを不快に思うこともなくウィリアムはようやく紅茶のカップへと手を伸ばした。
「すぐに帰ってきてくれることは分かっているのですが、昔からの習慣でどうしても気になってしまって」
「そうか。それは良いことだね、仲睦まじくて何よりだ」
ウィリアムとルイスの間に存在する兄弟愛はとても美しい。
他の何より弟が大切なのだと臆することなく表に出すウィリアムにとって、その感情は在って当たり前のものなのだろう。
今はこうしてアルバートとともに過ごしているが、ウィリアムの頭の中は隣にいないはずのルイスでいっぱいだ。
その姿に不快感を覚えるどころかそれでこそウィリアムだと感心してしまうし、本物の兄弟愛とはこうして美しいものなのだとアルバートは実感している。
「僕は弟があれだったからね、君達を知るまでは仲の良い兄弟というものが実在するとは思っていなかったんだ」
「…兄さん、それは」
「あぁ、責めているわけでも僻んでいるわけでもないんだ。僕はもう君達の兄として生きることを決めている。ただ、喧嘩のひとつもしたことのないウィリアムとルイスが、僕には少し眩しく見えてね」
かつて弟だった子を殺害するよう依頼したアルバートだが、彼の生前はおよそ兄らしくない兄だったと思う。
貴族社会としてはありふれた関係だったのだろう。
けれどウィリアムとルイスの姿こそ在るべき兄弟の姿なのだと知った今、少し前の自分はまるで兄ではなかったとアルバートは自覚している。
顔を合わせれば口論ばかり、そのうちまともに相手をすることにすら疲れてしまった。
喧嘩どころか喧嘩以前の問題だった弟の姿を忘れることはないだろうが、それでももう二度とあの子の兄を名乗ることはない。
今のアルバートは新しく弟になったウィリアムとルイスに相応しい兄になると決めた、二人のためだけの兄なのだ。
そんな彼の小さな決意を感じ取ったウィリアムは、アルバートが持つ誠意に心がほっとするような温もり覚えた。
そうして落ち着かない気分をどうにか鎮めて少しばかり余裕を覚えた気持ちのまま、アルバートの言葉を訂正する。
「ありますよ」
「え?」
「ルイスと喧嘩したこと、あります」
「…本当に?」
「いつも一緒でしたから、喧嘩のひとつもしたことがない方がおかしいでしょう」
「それはそうだが…そう、なのか…意外だね」
「些細なものばかりなのですぐに仲直りしていましたけどね。あぁ、でも…一度だけ、もう立ち直れないと思ったことがありました」
「ウィリアムがかい?」
「はい」
カップを置いてぼんやり記憶を遡るようにウィリアムは瞳を閉じた。
印象的な紅い瞳が隠れたのを良いことに、アルバートは彼に見られないよう瞠目した瞳に訝しげな色を乗せる。
つい先程も、互いに思いやり慈しみ合うウィリアムとルイスを見たばかりだ。
相手を思いやるがゆえに衝突することは多々あれど、互いに譲れず喧嘩に至るとは思えないしその内容も想像が付かない。
これはしっかり話を聞くべきだとアルバートは手にしていたカップを起き、膝の上で指を組んでは続きを促した。
「あれはアルバート兄さんと出会う少し前だったでしょうか」
嫌な記憶ほどすぐに忘れてしまうとは本当のようで、ウィリアムほど優れた頭脳を持ってしてもあの日のことは詳細には思い出せない。
天気は良くなかったはずだとか、夜ではなく昼過ぎだったような気がするだとか、つぎはぎだらけの曖昧な記憶ばかりが断片的に残っている。
けれど敢えて思い出そうとすることは一度たりともなかった。
ただただルイスの口から出た言葉の衝撃が大きくて、己の心が深く深く傷付いたことだけをウィリアムは覚えているのだ。
『兄さんの分からずや!嫌い!』
高い声で興奮したように言い切ったルイスの顔は怒りと混乱で真っ赤になっていて、悪くした心臓に負担がかかっているのか、息も荒く苦しそうだったことを覚えている。
声にしてから言ってしまった言葉の意味を理解したのか、ルイスの顔が一瞬だけ泣きそうに歪められたこともよく覚えていた。
鼓膜にこびりついた音と脳裏に焼きついた映像は、今でも思い出すだけですこぶる気分が悪くなる。
「嫌い?ルイスが、君に言ったのかい?」
「えぇ。ルイスが、僕に言いました」
「…疑うようで申し訳ないんだが…本当に?」
「事実です」
嫌いと、そう言われた衝撃であのときのウィリアムは本当に心臓が止まるかと思った。
どんなに願っても叶わなかったのに、あの瞬間だけはルイスの病が自分に移ったのかと思うほどに心臓が軋み、このまま脈が狂って停止してしまうのではないかと予感するほどだった。
他の誰より愛おしい、たった一人の弟に嫌われる。
想像すらしたことがない初めての体験はウィリアムにかつてないほどの絶望を与えてしまったのだ。
言葉の意味が理解出来なければどれほど良かっただろうかと悔やみ、そう言わせてしまったことも言われてしまったこともまるで信じられなかった。
ウィリアムは自分が今陥っている状況が信じられず、真っ青な顔で目の前のルイスを見てはこれが現実なのだと、襲いかかる絶望に一人静かに耐えていた。
分かりやすく絶望に満ちた表情を浮かべる兄の姿を、ルイスは短い人生の中で初めて目にする。
兄はいつだって穏やかに微笑んでいて、一つしか違わないのに大人びた余裕の笑みがとても綺麗で格好良かったのに、つい口を出て言ってしまった「嫌い」の一言でこの世の終わりかと思うほど表情を変えてしまう。
なんとなく怖くなりその場を走っていってしまったルイスの背中を、ウィリアムは何も言わずにただひたすらに見つめていた。
「…まさかルイスに嫌われるとは思っていなくて、それはもうショックでした」
「それは…そうだろうね」
二人と本当に親しくなってから数ヶ月しか経っていないアルバートでさえ、ウィリアムがどれほどルイスを愛しく思っているのかよくよく承知だ。
歪んだ階級社会で支配されたこの国をルイスのために美しく浄化させようと考え、実際に行動を起こそうとするほどルイスを溺愛している人間がウィリアムなのだ。
ルイスもそれを知ってか知らずか、ウィリアムを兄以上としてとても慕っている。
まさに相思相愛、ウィリアムとルイスはしかと繋がりあった関係なのだ。
そうだというのに、愛しい本人から直接嫌いなどと言われてしまったのだからウィリアムが受けた衝撃は計り知れない。
現に今、ウィリアムは過去の出来事だと思えないほど青白い顔をして不幸な記憶を語っている。
傷は癒えていないんだなと、アルバートが思わず哀れみの眼差しをウィリアムへと向けたその瞬間。
「あのときはルイスを連れて死のうと思いましたね」
「……」
「今生きていて良かったです。アルバート兄さんにも会えましたし、悲願を達成する目処もつきましたから」
あっけらかんと言うウィリアムの顔に嘘は見えなくて、今生きていることをしみじみ喜んでいるようだった。
ルイスに嫌われたのなら生きる意味も英国を正す意味も何もない。
ウィリアムはルイスに嫌いと言われた後しばらく一人その場に佇んでいたけれど、すぐに現状を把握してルイスを追いかけるべく走り出したのだ。
なるべく互いに苦しまない方法で一緒に死のうと決めて、ウィリアムはいくつかの方法を思い浮かべながら傷付いた心のままルイスを探す。
愛しいルイスをこの手にかける罪を悔やむ暇すらないほど衝動的に行動を起こそうとしたのは、後にも先にもあのときが最初で最後だった。
「…今こうして生きているからこそ聞くが、どうやって仲直り出来たんだい?」
「一緒に死のうとルイスを探していたら、ルイスの方からさっきのは嘘だったと言ってくれたんです。本当はだいすきだと言ってくれたので事なきを得ました」
「そうか。それは良かったね、本当に」
瞳孔が開いたまま弟を探す兄の姿は狂気に満ちていただろうに、当の弟からすれば気にするほどのことでもなかったらしい。
ウィリアムの前に現れたルイスが彼の顔に驚く様子はなく、むしろルイス本人が今にも泣きそうなほど表情を歪めている。
そんな弟の顔を見たウィリアムは、最期に見るルイスの姿は泣き顔ではなく笑顔が良いと間際に願ってしまった。
愛しい弟の可愛らしい笑顔を見ることが出来たのなら、きっと少しの後悔もなく死ぬことが出来る。
だがルイスに嫌われてしまった今となっては、どうすればルイスの笑顔が見られるのか分からない。
いつもならば抱きしめて笑いかければすぐに笑い返してくれたけれど、抱きしめることも笑いかけることも許されないのではと思うと足が進まず、強張った表情が和らぐこともなかった。
ウィリアムが足を止めて青褪めたままルイスを見やり、もう考えるのも面倒だからこのまま一緒に死んでしまおうかと全てを諦めたとき。
ルイスが躊躇いながらもウィリアムに駆け寄って抱きしめてくれたのだ。
兄さんごめんなさい、本当はだいすきです、嫌いなんて嘘ですと、半分泣きながら懸命に謝る姿はとても可愛らしかった。
嫌いと言われたすぐ後にこの謝罪があったからこそ、ウィリアムは今もルイスとともに生きている。
「これから先、僕があれほどショックを受けることはもうないでしょう」
「ふ、そうであってほしいものだね」
「まぁルイス次第ということでしょうね。嫌われないよう頑張らないと」
「あぁ、存分に頑張ってくれたまえ。僕の平穏のためにも、二人にはこれからも仲良くいてもらわないと困ってしまうから」
話を終えたウィリアムの顔にようやく血色が戻ってきて、よほど嫌な記憶だったことが窺い知れる。
目的のため、己のため、何よりウィリアムのためにも、ルイスからは勢い任せの嘘であろうと嫌いなどという単語を引き出すわけにはいかない。
もしそんなことがあっては今度こそウィリアムは間髪入れずにルイスとともに死を選ぶのだろうなと、アルバートは冷めかかった紅茶のカップを手に取った。
美しい世界で美しいままのルイスが生きていくことをウィリアムは望んでいる。
けれどそれはルイスがウィリアムを想っていることが前提で、万一にでもルイスの中にウィリアムがいないのであれば、きっとウィリアムはルイスを連れて行くのだろう。
矛盾してしまうけれどルイスはそちらの方が喜ぶだろうなと、今はまだ他人事のようにアルバートは考えた。
そしてしばらく二人が雑談をしていると控えめな靴音が聞こえてきて、可愛い末弟が予定通りに帰宅したことを知らせてくれる。
小さなノックに応えてあげると、コートを手に持ったルイスが満足げに入ってきてはウィリアムへと抱きついた。
(そういえばルイスに嫌いと言わせてしまった原因は何だったんだい?)
(それがよく覚えていなくて…分からずやと言われたので、おそらく僕がルイスの気に障るようなことをしたとは思うのですが、心当たりがなくて)
(…心当たりがないというより、思い出したくないんだろうね)
(僕もそう思います。あの日のことはなるべく触れたくない記憶になっているので)
(それは…蒸し返してしまってすまない。気を悪くしたかな?)
(いえ、思い出したくない記憶ですが、ルイスに関することは出来る限り忘れたくはないので。兄さんのおかげでまたしばらくは鮮明に思い出せると思います)
(いや、さすがにそんな記憶まで大事にする必要はないと思うけど)
(でもルイスの嫌いという言葉は滅多に聞くことがないので珍しいですし)
(そんなものまで大事にしなくて良いんだよ、ウィリアム。君への好意だけを覚えておけば良いんだ)
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