"ただいま"を言うため旅をする
55話56話をベースにした、水に落ちてしばらくした頃のウィリアムとシャーロックのやりとり。
ウィルイスとシャロジョン前提、ウィリアムが選んだ生き方のお話。
ウィリアムとシャーロックが友人として仲が良いのはとてもすき。
随分と陽は高く昇っているけれど、さほど気温は上がっていない。
愛用のスーツを着込んで丁度良い程度の気候は過ごしやすく、目の前に広がる湖から届く冷えた空気が心地良かった。
深い海よりもよほど明るい水の色は、今抱いている晴れやかな気持ちを表しているようだと思う。
陽の光を浴びてキラキラと反射する水面がとても美しかった。
「綺麗な湖ですね」
「だな」
ウィリアムは後ろで煙草を探しているであろうシャーロックを振り返ることなく声を出す。
返ってきた声は同意の言葉を響かせていたけれど、どうせ興味もなく火を探しているのだろう。
生憎とウィリアムは火を貸せるほど荷物を持っているわけではない。
彼がマッチを持っていないのならば、彼が煙草を吸う術はどこにもないことをウィリアムは知っている。
それに構うことなく、紅い瞳で美しいスカイブルーの湖を見た。
空の色を映したようなそれは自分が持つ色とは対照的だ。
「何でここに来ようと思ったんだ?」
「…どうしてだと思います?」
「やめとけ。お前と問答するつもりはねーんだよ」
「ふふ、それは残念」
湖に近づくことなくただ遠くから見つめているウィリアムの後ろで、シャーロックは煙草を諦めしゃがみ込む。
冷えた空気に舞う金髪と振り向いたその横顔に呆れたような反応をすれば、彼は気にした様子もなく静かに微笑んでいた。
「…ただの興味ですよ。あの国しか知らなかった僕には、他の国を知ることが必要だと感じた。ただそれだけのことです」
「ふーん…」
建設中の橋から落ちたウィリアムとシャーロックは死ぬことなく生きている。
何の奇跡が起きたのか、重傷を負ったとはいえ命に別状はなかったのだ。
どちらも神など信じていないが、その神とやらが生きることを許したのだろうか。
いや、おそらくそうではない。
自分の身勝手で他人の命を奪ったその罪、一瞬の死で償うのではなく生き長らえて死ぬまで後悔しろということなのだろう。
つまりは全能であるはずの神に死ぬことすら許されなかった、ということだ。
二人は何とか水の底から這い上がり、闇医者の手を借りて治療を受けた。
そうして回復した頃を見計らい、ウィリアムがとある国に行くと宣言したのだ。
てっきりすぐ家族の元へ帰るのだと考えていたシャーロックは驚き、けれど深く意味を尋ねることなく付いていくことを選択する。
秘密裏に船と列車を乗り継ぎ、やってきたのは周りを四つの国に囲まれているスイスだった。
そこに存在する美しい湖の前、ウィリアムはただ静かに佇んでいる。
「あの国で生まれ、あの国で生きてきた僕にとって、他の国がどんなものなのかを知らない。紙面以外では知ろうとすらしなかった。けれど、それでは駄目だったんだ」
「…ふーん」
「大事な人のために美しい世界を目指していたけれど、悪魔さえいなければ美しい国になるという考え自体が浅はかだった」
誰より愛しい弟のために美しい世界を作ろうとしていたけれど、愚かなことにその方法を間違えてしまった。
ウィリアムの手には数え切れないほどの命が乗っている。
ウィリアムの背には数え切れないほどの恨みと憎しみが乗っている。
それを忘れるつもりはないし、ちゃんと自分なりの方法で必ず罪を償うつもりだ。
あの水の中で絶えるはずだったこの命が今ここに存在している理由は、きっと一つなのだろう。
「どんな世界こそが美しいのか、僕自身の見解を深めるためにはたくさんの国を知る必要があったんです。だからここに来ました」
「四方を別々の国に囲まれてるからか?」
「えぇ。多くの国を知り、その国の人達を通じて、僕が目指すべき理想についてよく考えたかった。そうすれば僕が犯した罪をどう償うべきなのか、見えてくるような気がしたんです」
「…なるほどな」
本当ならあの夜に負った怪我の治療も必要なかったのだ。
けれど死んで有耶無耶にすることはやはり間違っているのだと思い直し、それならば治した体でそのまま出頭しようと考えた。
瞬間、頭を過ぎったのは最愛の弟の顔だ。
ウィリアムが生きていると分かり、その姿を見せればルイスはきっと喜ぶだろう。
ウィリアムだって、ルイスと会えるのは心苦しさを差し引いたとしてもとても嬉しい。
だが、数多の命とろくに向き合うこともせず、ただただ苦しさから逃れるために死を望んでいた自分のままでは帰れない。
ルイスの分まで背負うと決めたのに、あの瞬間の自分はただひたすらに逃げてしまいたいだけの愚かな人間だった。
何も背負わず、何も償わず、それなのに会いたいと願う人におめおめと会うことなど出来はしない。
ルイスに会うのならば、中途半端な自分に決着を付けた状態で会いたい。
この手にかけた命と向き合い、ちゃんと償うべき方法を見つけた上でルイスに会いたいと思ったのだ。
本当なら法廷で裁かれることを望んだけれど、結局あの後の身内は誰一人裁かれてはいないらしい。
おそらくは国家のために命を捧げよとばかりに、その優れた能力を遺憾なく発揮しているのだろう。
彼らの代表であった自分が同じように国家のために尽くしたところで、それはただのパフォーマンスに過ぎないのだ。
ならば他の誰かに任せるのではなく自らその償い方を探そうと、ウィリアムは己の生き様を問いかけるためにこの国へとやってきた。
シャーロックが付いてくるのは予想外だったけれど、今際の際でようやく出来た初めての友人だ。
嬉しく思えど、鬱陶しいとは思わなかった。
「シャーロック」
「何だよ」
「あのとき、僕が間違っていると言ってくれてありがとう」
計画を考えついたときから、それが間違っていることには気付いていた。
間違っていることを承知で実行に移した。
ウィリアムにとって、人間の皮を被った悪魔よりもルイスの方がよほど大事だったからだ。
ルイスが生きる世界を正せるのであれば、それに伴い生じる泥は全て自分が啜ると決めていた。
素直で染まりやすいルイスは簡単にウィリアムと同じ考えを抱いたし、必要になる仲間は同じことを考えているだろう人間を選び洗脳した。
だから今まで、ウィリアムの考えに異を唱える人間は誰一人としていなかった。
ウィリアムだけが間違っていることを知っていて、けれど誰もそれを指摘せず、指摘させないよう生きてきたのだ。
一人で抱える大きな間違いは途方もないほどに重たく苦しくて、あの夜シャーロックが初めて否定してくれたことで、ようやく持ち上げられるくらいに軽くなったように思う。
ずっと自分を否定する人が欲しかった。
自分を否定して、それでも自分は生きていて良いのだと言ってくれる人が欲しかった。
それがシャーロックという生涯の友であったことを、ウィリアムは心から嬉しく思う。
「君がいなければ、僕はこうして自分の罪と向き合うことなく自分の勝手で死んでいた。僕に償うチャンスをくれて、本当にありがとう」
「…は、今更だろ、そんなこと」
「それでも言っておきたかったんですよ」
「へぇへぇ。ったく、お貴族様はロマンチックで嫌になるぜ」
照れていることを隠しもせず、シャーロックはその場に倒れ込んでは空を仰ぎ見る。
浮かぶ雲はふわふわと掴みどころがなく、太陽を隠すことなく気ままに揺れ動いていた。
「僕はこれからこの国で過ごしながら僕なりの償い方を見つけます。あなたはどうするんですか?」
「…俺は」
空を仰ぎながら右手をかざす。
引き金を動かした感触は未だに残っていて、人を撃ったというはっきりした記憶もある。
死んで当然の悪だったけれど、それでも人を殺したのは事実だ。
悪びれることなく事実を飲み込もうとしたシャーロックを咎めたのは、この世でたった一人の相棒である。
彼のために引き金を引き、彼がいたからこそ自らが犯した罪の重さを知ることが出来た。
シャーロックの居場所など、もう彼の隣以外に存在しない。
「帰るんでしょう?彼の元に」
「…まぁな。お前が何をしたいのか分かったし、もうそばにいる必要はないからな」
「きっと喜ぶでしょうね。こうして生きていることを隠していたのだと知ったら、張り手の一つや二つ貰いそうですけれど」
「張り手で済むなら楽だけどよ」
「おや、そんなに過激なんですか?」
「二、三発はぶん殴られるの覚悟してる」
「そうですか」
くすくすと笑うウィリアムを見上げ、シャーロックは言葉とは裏腹に表情を緩ませ微笑んだ。
ジョンはきっと、シャーロックの姿を見ては驚いたように目を見開くのだろう。
そうして優しい目元に似つかわしくないキツい表情を浮かべ、握りしめた拳で頬や腹を殴られるのだ。
シャーロックが甘んじてそれを受け入れた後、涙もろい彼はきっと大粒の涙をこぼして喜んでくれる。
今までどこにいたんだ、怪我はしていないのか、どうしてもっと早く連絡をくれなかったのか。
泣きながらそう詰め寄られる姿が容易に想像できて、それを心地良く思う自分が未来という世界線には必ずいるのだと、シャーロックは確信している。
彼と出会ったときから、シャーロックが帰る場所はジョンの隣にしか存在しない。
「すぐには帰れねぇけどな。俺も俺なりの償い方を見つけてからじゃねぇと、あいつに会わせる顔がねぇよ」
「そうですか」
「お前も、帰るんだろ?」
ウィリアムの方を見ることなくシャーロックは問いかけ、それを承知でウィリアムは声を出さずに頷くことで返事をする。
シャーロックの帰る場所がジョンの隣であるならば、ウィリアムの帰る場所はいつだってルイスの隣だ。
彼が生まれたときからずっと、ルイスだけがウィリアムの帰る場所だった。
ルイスというホームがあるからこそ、ウィリアムは己が納得いくまで犯した罪と向き合える。
「すぐは無理でも、ちゃんと帰らないとね」
「ルイスの奴、リアムが生きてるの見たら腰抜かすんじゃねぇの」
「ふふ、どうでしょう。泣かせてしまうかもしれませんね」
「あー、想像つくわ」
ルイスはきっと、ウィリアムの姿を見た瞬間に涙とともに崩れ落ちるのだろう。
言葉にならない声を出してはウィリアムのことを呼び、懸命にその姿を目に収めようと大きな瞳を見開くのだ。
その度に大粒の涙が溢れてしまうから、結局ウィリアムの姿は歪んでしまうのだろう。
気付いたときには声を押し殺して泣くようになったルイスだけれど、箍が外れてしまえば幼い頃のように大声をあげて泣くかもしれない。
きっとそうなるだろうなと、ウィリアムは愛おしげに瞼の裏にルイスの姿を思い浮かべた。
「ずっと泣かせたくないと思って生きてきたけど、僕のために泣くルイスは可愛いんだろうなぁ」
「ブラコンもここまで極めるといっそ引くぜ」
「ねぇシャーロック。君は帰るべきところに帰ったとき、一番最初に何を言う?」
「は?」
呆れたようなシャーロックの皮肉はウィリアムの耳を素通りし、なんてことはない日常会話が続けられる。
今は会えない大切な人との再会は夢に見るほど焦がれるだろう。
会って何を口にするかなどそのときになってみなければ分からないが、想像することは自由だ。
たくさん伝えたいことがある。
たくさんのごめんねを言いたいし、たくさんの愛を紡ぎたいし、たくさんのありがとうを教えたい。
一人で頑張ってきたルイスを存分に労いたいし、届く言葉には全て返事をしてあげたい。
溢れそうなほど大きな想いは会えない時間の分だけ増えていくし、溢れても溢れても尽きることなくウィリアムの心を覆っていく。
だからこそウィリアムはルイスに会ったとき、まずは何を一番に伝えれば良いのか今から悩んでしまうのだ。
シャーロックはジョンと再会したとき、真っ先に何を伝えるのだろう。
「何言ってんだよ、リアム」
「え?」
「お前、帰るときに何言うか悩んだことあんのかよ」
「…?」
「お前なぁ、家に帰ったらまず"ただいま"だろうがよ!」
それ以外にあんのか!
シャーロックがウィリアムを見上げながら口にした言葉は、何とも彼らしくない、けれどその育ちの良さが窺えるありきたりなものだった。
極々当たり前のように言われたその言葉は、ウィリアムにしてみれば想像すらしていなかった単語である。
確かに、今まで生きてきた中でもう何度も何度もルイスに対し「ただいま」を言ってきた。
返ってくる「お帰りなさい」は特別甘くて、離れて過ごしていた時間を忘れさせてくれるほどに愛おしかった。
もう何日も何ヶ月も聞いていないことを急に思い出しては寂しくなる。
ウィリアムの帰る場所はいつだってルイスの隣で、今は彼というホームを出て旅をしている最中だ。
いつか会うとき、彼の隣に帰るとき、伝える言葉は確かに一つしか存在しない。
「…ありがとう、シャーロック。聞いておいて良かった」
「はぁ?」
シャーロックはジョンの元へ帰るとき、迷いなく「ただいま」と口にするのだろう。
何故ならジョンはシャーロックが帰るべきホームなのだから。
彼の中では謝罪も愛も感謝の気持ちも、全てがただいまよりも優先度が低いのだ。
そしてそれは間違いなく正しい。
帰るべき場所に帰ることが出来たのなら、人はそれを相手に伝える必要がある。
「あなたがいなければ、僕はルイスに会った途端に謝ってしまうところでした。まず伝えるべきはそんなことではないはずなのに」
「…リアム、お前案外バカだよな」
「放っておいてください」
ここしばらくともに生活する中で気付いたけれど、ウィリアムは優れた頭脳に見合わないほど何かが足りない。
具体的に何が足りないのかを言語化するのは難しいけれど、敢えて言語化する理由もないためもどかしいような感情を持て余しながらシャーロックは息を吐いた。
そんなシャーロックを気にせず、ウィリアムは湖へと視線を戻して伸びやかな声を出しては歌うように言葉を紡ぐ。
「ルイスに伝えたいことがたくさんあります。早く会って、たくさん抱きしめてあげたい。そのためにも僕はちゃんと罪と向き合い、僕なりの償い方を見つけて行動していきます。そうしてやっと、胸を張ってルイスの元へ帰ることが出来ると思うんです」
「は…同感だな。今のままじゃ会うに会えねぇからな」
さほど視線は合わないのに、それでも互いの気配と声で会話が成り立つ。
ウィリアムとシャーロックの関係はそんなもので、けれど二人の間でしか成立しない唯一だった。
「今までありがとう、シャーロック。君と過ごした時間はとても充実していて楽しかった」
「こっちこそ楽しかったぜ、ウィリアム」
「これからはどちらが早く帰ることが出来るか競争ですね」
「は、俺がお前に負けるかよ」
「おや、僕も負けるつもりはありませんよ」
「せいぜい負けを知ったときの台詞を考えてな、教授」
「もう教授ではありませんよ、探偵さん」
「今は探偵じゃねぇよ」
くだらない言い合いはまるで友人同士のふざけ合いだ。
いや、二人は確かに友人だ。
友人らしいやりとりは、途端にウィリアムとシャーロックの二人らしいやりとりになる。
馬鹿馬鹿しい言葉の応酬にむず痒くなるような感覚を覚え、ウィリアムはようやくシャーロックの顔を見た。
ここに来るまでの時間が穏やかで有意義なものになったのは彼のおかげだ。
自分を助け導いてくれたシャーロックに限りないほどの幸福が訪れてほしいと思う。
そう願いを込めて、ウィリアムは晴れやかな笑みを浮かべて口を動かす。
「それじゃあ、また」
「あぁ、またな」
置いていた小さな鞄を手に取り、ウィリアムは湖とシャーロックに背を向けて歩き出す。
二人が犯した罪はその重さと大きさ含めてまるで違う。
傷を舐め合うようにそばにいたところで、結局自分に甘くなるだけだろう。
それでは何の意味もない。
ウィリアムは殺めた命とその命を惜しむ人達に恥じない方法で己の罪と向き合い償うべきだと考えている。
おそらくシャーロックも同じように考えているはずだ。
そしてそれはやっぱり、それぞれが一人で見つけなければならないのだ。
次にウィリアムがシャーロックと会うのは生まれ育った祖国、大英帝国である。
果たしてどちらが先にそれぞれのホームへと帰ることが出来るのか。
ゲームに例えるなど不謹慎かもしれないが、それを理由に贖罪を疎かにすることなど絶対にない。
ウィリアムは後ろを振り返ることなく前に足を進め、多くの人で賑わう広場へと向かっていった。
("ただいま"と言ったらルイスはどんな顔をするだろう)
(お帰りなさいを言ってくれるかな、それとも言えないほどに泣かせてしまうかな)
(早く君に会いたい、ルイス)
(手にかけてしまった命は決して忘れないし、死ぬまで背負い償うと決めているけれど)
(ルイスと会うことを唯一の支えにすることは、どうか許されてほしい)
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