眩しく拗れた兄弟愛


それぞれの愛が重たいモリアーティ三兄弟のお話withモラフレボン。
アルバート兄様の見合いを潰そうとするウィリアムとルイスが周りを巻き込んでわちゃわちゃしてるコメディです。

モリアーティ伯爵家の当主たるアルバートは若くして伯爵という爵位を継承した人間である。
先代である父を早くに亡くしたため一時は爵位と領地を預けていたが、その有能さを持ってして学生の身分のままそのどちらをも継承したのだ。
貴族制度は生前譲渡は許されない終身制なのだから、公爵から男爵に至るまで全て中老相当の年代が当たり前である。
ゆえにいくら周囲を見渡しても、アルバートほど若くして爵位を持つ貴族はいなかった。
不慮の事故で両親を亡くし、けれども弟達と手を取り合ってモリアーティ家を盛り上げているうら若き伯爵様。
そんな美談だけでも興味を抱くには十分だろうが、過去や性質を抜いたとしてもアルバート自身が持つ秀麗な美貌は数多の貴婦人を虜にしていた。

「ふむ。今日もたくさん届いていますね」

数多の貴婦人を虜にするアルバートの弟たるルイスは屋敷に届いた郵便物を仕分けする。
目の前の机には両手に余るほど大きな封書が五通。
そのいずれもアルバート宛に届いた見合いの申し出であった。

「さすがアルバート兄様。幾人もの女性を惑わす魅力的なお人ですね」

ふふふ、と長兄の人気を誇らしげに思いつつ鼻を鳴らしたルイスはその封書全てを持って歩き出す。
敬愛する兄は中身だけでなくその容姿も当然のことながら優れているのだ。
上っ面ばかりを見て騒ぐ人間など鬱陶しいことこの上ないが、それでもアルバートの魅力が正しく評価されるのは気分が良い。
彼に言いよる人間など全て消えてしまえば良いとすら思っているけれど、どうせアルバートの心を射抜く貴婦人などいるはずもないのだ。
彼はウィリアムとルイスだけの人、三兄弟の長男なのだから。
ルイスはアルバートの弟である優越感を胸に秘めたまま、その封書を届けるべく彼の私室へと足を運んだ。

「アルバート兄様、今よろしいですか?」
「あぁ。お入り、ルイス」
「失礼します」

ノックを三回繰り返してから声を掛ければ穏やかな声で入室を許可される。
静かに扉を開けて中に入れば清潔に保たれた部屋の中央、彼が愛用している一人掛けのソファに座るアルバートがいた。
持ち帰りの仕事をすると言っていたがもう終わったのだろうか。
ならばこの書類もすぐに確認してもらえるだろうし、その後でお茶の用意をしても良いのかもしれない。
ルイスは軽く目配せをしてから迷いなくアルバートの元へと足を運んだ。

「兄様宛の郵便です。今ご確認いただけるのであれば、僕の方から返事の手紙を書いてしまいますが」
「ありがとう。すぐに確認するから少し待っていてくれるかい」
「はい」

封書と共に持ってきたペーパーナイフを手渡し、アルバートが一通一通その中身を確認する様子を見届ける。
届いたものが小包の類であるならばルイスが検品がてら中身を開けて確認するけれど、危険物の可能性が低い封書であるならば勝手に中を見ることはない。
家族であろうとあくまでもプライバシーは配慮した方が良いし、内容が気になるのであれば直接尋ねれば答えてくれるのだ。
基本的にアルバートもウィリアムもルイスに秘密を作ることはない。
ルイスもそれを知っているため、出過ぎた真似をすることのないよう意識しているのだ。
ちなみに、万一兄宛に誹謗中傷の文字を送ってきた場合にはそれなりの報復をするとルイスは決めている。
そんなルイスが何故、封書の中身が見合いの申し出だと知っているのか。
それは、大きさも厚みも通常の手紙ではあり得ないサイズだというのに不思議に軽いことが要因である。
見合い写真の入った封書はこのくらいのサイズと重さだと、ルイスは過去の経験から知っているのだ。

「ふむ…」
「お疲れのところすみません。あとで紅茶とお菓子をお持ちしますね」
「あぁ、頼むよ」

己に届いた封書に一通一通しっかり目を通すアルバートには誠実さと優しさを感じる。
見合いを受けることなどないし、そういった意味で会うこともないというのに、それでも今ここにいない相手を決して蔑ろにはしないのだ。
さすがに届く封書全てに返事を出すのは忙しいアルバートの身の上を考えると難しいため、ルイスが代わりに返事を書いている。
もちろん、湾曲的に断りの文章を必ず入れているしアルバートもそれを承知していた。
今回も全て断るのだろうが、頃合いを見て新しい断りの文句を取り入れるべきだろうか。
アルバートが書くに相応しい雅な文章を考え続けているルイスがそろそろ作家になれそうだと考えていたところ、興味なさげに視線を落としていたアルバートの表情が少しだけ変わった。

「…アルバート兄様?」
「……ルイス、この四通にはいつもの返事を出しておいてくれるかい?」
「は、はい。…あの、そちらの封書は…?」
「こちらは私が返事を出しておく。便箋と封筒を用意してきてくれるかい?」
「…っ…!は、はい…分かりました」

時間にすれば短いのだろうが、ルイスにしてみればそこそこ長い時間。
アルバートが五通分の封書に目を通した後で、手渡された四通だけの封筒。
そのいずれにも見合い写真と見合い日程が書かれた用紙が入っているのだが、全員アルバートと出会うことなく恋焦がれたまま終わるのだろう。
今までずっとそうだったし、貴族の中にアルバートの心を射止めるほど魅力的な人間がいるなどとはとても思えなかった。
だから今回も全て断ると思っていたのに、内一つにはアルバート直々に返事をするという。
ルイスにとってそれは衝撃的な事実で、思わず瞳がこぼれ落ちそうなほど目を大きく見開いてしまった。
透明なガラス越しに見える兄はいつも通り魅力に溢れた見目麗しい人間で、目を奪われてしまうのも無理はない。
けれどアルバートはそれに気付くことなくじっと一枚きりの便箋を見つめている。
一体何が書かれているのだろうか。
奪い取って握り潰したい衝動を堪えつつも拳を握りしめ、ルイスはアルバートの癖の強い髪を見下ろしていた。



「に、兄さん兄さん!ウィリアム兄さん!」
「どうしたんだい、ルイス。君が騒々しいだなんて珍しいね」
「すみません兄さん!ですが、それどころじゃなくて…!!」
「うん?」

衝撃のあまりふらついた足でなんとか床を踏み締め、ルイスはアルバートが返事を書くために使用する便箋と封筒、そして紅茶の用意をしてくると言って部屋を出た。
出た足でそのままウィリアムがいるであろう彼の書斎を慌ただしく訪ね、ノックもせずに扉を開けては兄の体に縋り付く。
その顔は青褪めていて、肌が白い分だけ余計に顔色が悪く見えてしまった。

「ルイス、体調が悪いのかい?」
「いえ、そうではなくて…に、兄様が…!」

棚から本を数冊選んでいたウィリアムの腕を両手で掴み、震えた声で戸惑いながらルイスはその顔を見た。
顔色から察するにてっきり調子が悪いのかと思ったのだが、そうではないらしい。
けれどルイスの体調でルイス本人が言うことなど信用に値しないと、ウィリアムは眉を顰めて冷静にその表情を見定めるようにじっと見下ろす。
アルバートがどうしたのだろうかと、ウィリアムがルイスの言葉の続きを待っていると衝撃的な事実が明かされた。

「アルバート兄様が、見合いの申し出を受けてしまわれるようですっ!」
「なっ…!」

ドサドサドサ。
ウィリアムが持っていた数冊の本はそのまま床に落とされた。

「兄さんが見合い?どういうことだい、ルイス」
「先程、届いた見合いの封書をアルバート兄様に渡してきました。五通あったうちの四通はいつも通り僕に断りの返事をするよう指示がありましたが、残りの一通だけ、兄様が、兄様が…ご自分で返事をなさると…!」
「…まさか、アルバート兄さんが…ルイス、差出人はどこの貴族だった?」
「ハーリー家の紋章で封蝋されておりました!盗み見た便箋にはチャイリーという名前が書かれていたのを覚えています!」

ルイスに返事を任せないのだから勝手にその内容を覗き見るなどあってはいけない行為だが、それを分かっていながら、ルイスは目を凝らしてアルバートの手元にある便箋を見てしまった。
はっきりした文章は分からなかったが、それでもハーリー家にいる娘の名前が書かれていたことは読み取れる。
記憶違いであってほしいけれど、数分前の自分の記憶を疑うほどルイスは耄碌していない。
思わずウィリアムの衣服を握る手に力がこもるけれど、応えるようにウィリアムはルイスの手を握り返してくれた。
ルイスの手はまるで氷のように冷たくて、元々体が冷えやすいにしても不自然に冷たくなっている。
それだけアルバートの行動がショックなのだろうと、ウィリアムはルイスの気持ちを汲むように優しく両手を握りしめては深く息を吐いた。
ショックを受けるのも無理はない。
ルイスは自分の次にアルバートに依存しているし、魅力的な兄が誰にも靡かず自分達だけの兄でいてくれることを誇らしく思っているのだから。
かくいうウィリアムも、アルバートが彼の特別を持ってして返事を書くという事実に驚きを隠せなかった。

「チャイリー・エドワード・ハーリー…ロックウェル家と懇意にしている家の長女だったね」
「はい。いくつかの夜会で積極的にアルバート兄様へ声をかけていたことを覚えています」

大らかで裏のないロックウェル家同様、ハーリー家には悪い噂を聞いたことがない。
子爵という階級を持ち得ていながら、貴族界隈でも管理する領地に住まう住民からも悪評が出ていなかった。
隠すことに長けていているのか話題にすら上がらないのか、いずれにせよはっきりした悪徳貴族という可能性は低い家系だとウィリアムは認識している。
第一息女であるチャイリーにも悪い噂はなく、可憐で可愛らしい令嬢だと夜会で評判だったことをルイスは覚えている。
そんな彼女を歯牙にかけることもなく、アルバートはいつも通り当たり障りなく対応していたはずなのだが、まさかこうして見合いの申し出を受けることになるとは想像すらしていなかった。
柔らかな雰囲気に似合うピンク色のルージュと気合いの入ったブラウンの巻毛。
アルバートを前にしてうっとりしたように彼を見つめるチャイリーの顔が、ルイスの脳内には鮮明に思い出される。
なるほど、その他大勢から見ればアルバートとチャイリーは美男美女かつ似合いの二人になるのだろう。
だが生憎とルイスはその他大勢の人間ではない。
あんな女にアルバートは相応しくないと、ルイスは目を見開いてウィリアムを見た。

「…兄様が見合いをするということは、兄様が結婚されてしまうということですか?」
「……どうだろうね。兄さんの目に叶う人がいるとは思えないけれど、そこは兄さんの判断だから」
「では、僕達の悲願はどうなるのですか?」
「ルイス、それは…」

ルイスの言葉にウィリアムが視線を彷徨わせれば、それにますますショックを受けたようにルイスの眉は下がっていく。
自分達を見つけ出し拾ってくれたアルバートが、この階級社会を嫌っていることは重々承知だ。
そして他の何よりも「貴族である自分」こそが醜く穢らわしいと認識していることも知っている。
ウィリアムとルイスはそれが間違っていることを何度も何度も伝えてきたけれど、アルバートは本気に捉えてはくれなかった。
だからアルバートはどこにも己の思いと血を残すことなく死を望んでいるのだと、そう認識していたし事実彼はそう考えていたはずなのだ。
それなのに、今になって断り続けてきた見合いを受けるというのはどういうことだろう。
たとえ形だけの婚姻を結ぼうが、そこらの小娘などアルバートの魅力を前にすれば簡単に変貌させてしまうに違いない。
あのチャイリーという小娘もきっとアルバートに選ばれたという自信を身につけ、アルバートが望まなくとも襲いかかっていく可能性がある。
敬愛する兄がどこぞの娘に奪われてしまうなど、ルイスには耐えられそうにない。
思わずウィリアムに取られていた手を強く握りしめると、そんなルイスに気付いたウィリアムは気を取り直したように指示を出した。

「ルイス、まずは状況をしっかりと把握するのが先決だ。見合いを受けることが確実だとして、その日時と場所を確かめないといけない。僕の方から兄さんにそれとなく探りを入れてみよう」
「わ、分かりました」
「あとはハーリー家の素行調査だね…兄さんに相応しい家柄なのか、あとはチャイリー自身にそれだけの要因があるのかも調べておかないと。これはフレッドに頼もうか」
「いえ、僕にやらせてください!」
「ルイス」
「僕がハーリー家と屋敷に住まう住人の調査をします!アルバート兄様に相応しいかどうか、この僕が見定めてみせます…!!」
「そう、頼んだよルイス」
「お任せください、兄さん!」

チャイリー嬢の素行に少しでも不備があれば即座に縁談を潰してやる。
そんな気迫を感じさせるルイスを見て、ウィリアムは同意するように頷いた。
この階級社会において貴族という立場でありながら優しく気高い心を失わず、相手を選べど慈愛に満ちた精神を抱き続けてきたアルバート。
ルイスだけでなくウィリアムにとっても彼は唯一無二の大事な兄なのだ。
アルバートが選んだ女性であろうとその彼に相応しい人間でなければ結婚など認められないし、本音を言うなら可能な限り結婚すらもしてほしくない。
今後の計画に支障が出ることを考えても、アルバートの結婚など阻止するのが最良だろう。
彼に大切な人が出来てしまったのならば、自分達がその人以上の存在になってみせればいいのだ。
ウィリアムとルイスは互いの手を握りしめ、アルバートの縁談を潰すために綿密な計画を練っていく。
いつまで経ってもルイスが便箋と封筒を持ってこないことに疑問を抱いたアルバートがルイスを探しに来るまで、二人はあらゆる可能性を考慮してプランAからプランKまでを完成させていた。



ウィリアムとルイスの調査の結果、アルバートが見合いの申し出を受けたのは事実だった。
それとなくウィリアムがアルバートに探りを入れてみれば、彼からは隠すことなく来月にとある女性と会うことを教えられた。
返事の手紙を郵送する際、封蝋を託されたルイスが震える手で中身を覗き見れば、そこにはアルバートらしい几帳面な文字で日時と時間について了承の文字が書かれていた。
久々にお会いすることを楽しみにしております、という文字を目にしたルイスが目眩を起こしてその場に蹲ったのは誰も知らないことである。
そして始まったハーリー家の素行調査では、驚くほどに黒い噂が出てこなかった。
人格者というほどでもないが、住民達に過重な納税を強いることもなく平穏な関係を築けているようだ。
農民が作る作物は率先して買い取り、町の中で経済を回すことにも余念がない。
異常な趣味嗜好を持ち合わせている様子もなく、貴族らしい派手な催しを好んではいるけれど、それはただただ周りを巻き込んで騒ぐのが好きな在って然るべき嗜好だろう。
さすが大らかで裏のないロックウェル伯爵と懇意にしているだけの家だと、ルイスは苦渋の思いで子爵家の調査票に「特筆すべきことなし」と記載した。
貴族のくせにあまりにも黒い噂が出てこないため、ルイスは己の能力に問題があるのかとフレッドに協力を依頼して一縷の隙もない調査をしたのだから、もはや疑う余地もない。
当主夫妻はもちろん、その子息である次期子爵たる長男とその妹であるチャイリーについても同様だ。
傲慢で驕り高ぶった性格の悪い女性ならばアルバートに相応しくないと言い切ったのだが、どうやら問題にするほど内面に問題があるわけでもない。
相応にわがままで見栄を張る自慢したがりの人間ではあるけれど、調べる範囲では他者に明らかな迷惑をかけている様子がなかったのだ。
その程度でばっさり切り捨てる程ルイスも非情ではないし、裁く必要のある巨悪とは程遠い存在である。
だがやっぱりアルバートには相応しくないだろうと、ルイスは瞬時に己の価値観を捨てて愛用の万年筆を手に取った。
そうして「ハーリー家第一息女チャイリー、その性格に多大なる難あり」とルイスが調査票に記載したところ、フレッドによりその文字を上から二重線で訂正されてしまう。

「フレッド、何をするのですか」
「あの程度で性格に難ありと評価するなら、人類皆性格に難ありですよ」
「兄様に見合いを申し出た相手を擁護するのですか!?」
「そうではなくて、情報は正確に伝えることに意味があるんです。湾曲した調査報告は僕のプライドに障ります」
「ちっ…」

ルイスが舌打ちするのを、フレッドは初めて聞いた。
妙に様になっていると思うのはその顔立ちが洗練されて美しいからだろう。
頼まなければ良かった、とルイスが己に不満をぼやいていることなど一切気にせず、フレッドは調査票をウィリアムへと手渡した。
けれど彼はそれに目を通すこともなく、不満げに唇を尖らせるルイスの顔を見ただけでおおよその判断をしたらしい。
苦笑したウィリアムは立ち上がり、フレッドに礼を言ってから下がるように指示をした。

「ルイス、君はどうしたい?」
「兄様の見合いを無かったことにしたいです」
「あぁ、僕も同感だよ」
「兄さん…!」

己の問いに即答したルイスへ微笑みかけ、ウィリアムはふわりとなびくその髪に指を通す。
可愛い弟が望んでいることを叶えずに、どうして兄を名乗れるだろうか。
アルバートにルイス以上の存在が出来ることも気に食わないし、彼にはずっとルイスと己の兄でいてもらわなければ困るのだ。
彼自身が彼女との結婚を望んでいるのならば、それを了解し受け入れるのが良き家族なのかもしれない。
だが今まで互いだけの狭い世界で生きてきたこの兄弟には、それをこなすだけの器量が存在しなかった。

「日時と場所は分かっているんだ。当日、兄さんにバレないよう先回りしよう」
「分かりました」

ルイスにはアルバートの気持ちを確認するという発想がない。
このままではアルバートがどこぞの馬の骨とも知れない娘に取られてしまう、という懸念だけがルイスの心を占めているのだ。
ウィリアムには一応アルバートの気持ちを事前に確認するという考えがあったけれど、万一彼がチャイリーをルイス以上だと認識していると知ってしまった日には何をしでかすか分からない。
ゆえにこの二人はどちらもアルバートの本心を探ることなく、当日に向けて採用したプランA・Mを詰めていった。



「で、この状況は何なんだ」
「しっ。ボディガードが私語を話すなどありえませんよ、セバスチャン」
「……」
「僕もこの状況については色々聞きたいところなんだけど。ねぇウィル君」
「アイ、僕だなんてはしたない言葉遣いは止めて。いつものように話してごらんよ」
「……」

来るアルバートの見合い当日。
二人はハーリー家ではなくホテルでの会談を予定しているようで、アルバートはいつも通りに身支度を整えてから呼び寄せた辻馬車に乗り出かけて行った。
ウィリアムとルイスは兄が乗っている馬車の姿が見えなくなるまでにこやかに見守り、視界から消えたのをきっかけに表情を変えてそれぞれ準備を整える。
そして屋敷で寛いでいたモランとフレッドを更衣室へと連れ込んで、それぞれにあつらえた今日の日のための衣服を上から下まで一式渡して着替えるように命令した。
モランは畏まった礼服を身に纏い、髪はワックスで撫で付けた上に瞳を見せないようサングラスをかけている。
ボンドは品の良いパステルブルーのロングドレスを着こなし、髪はルイスが用意したウィッグを付けて豊かなロングヘアーを再現、吊り目がちの瞳は化粧でおっとりとした垂れ目に変貌させた。
ウィリアムは二人から少し距離を取った位置に立ち、それぞれの出来栄えを全身から評価しては納得したように頷いている。
それを確認したルイスはいつの間にか頬の火傷跡を化粧で隠していたようで、滑らかな両頬に照明の光が当たって輝いていた。
いつもアシンメトリーに下ろしていた前髪は全て耳にかけているが、モランと揃いのサングラスをかけているためその顔を堪能することは叶わない。
真剣な表情で一連の行動をこなしたウィリアムとルイスに、モランとボンドは若干引いていた。

「お二人はご存知ないかもしれませんが、今日はアルバート兄様が見合いをされる日なんです」
「見合い?アルバートがか?」
「はい。ハーリー家のご息女、チャイリー嬢との見合いです」
「へぇ、アル君ってば結婚するんだ?それはおめ」
「でたいわけがないでしょう」
「…そうだよねぇ、あはは」

サングラスで目元を隠されているが、その声色と雰囲気だけで驚きを表現したモランとは対照的に、ボンドは晴れやかに笑っては祝いの言葉を口にしようとする。
だが即座にルイスがそれを否定した。
目元が隠れているはずなのに、鋭く睨みつけている赤い瞳がはっきり見えるようだ。

「…で、アル君のお見合いと僕達のこの格好は何の関係があるんだい?」
「僕とルイスでアルバート兄さんの見合いを台無しにしようと思っているんだけど、二人にはその手伝いをお願いしたいんだ」
「えー…?」
「……なるほどな」

これ以上ないほど分かりやすく、かつ少しの悪びれもなくウィリアムがそう言った様子を見て、モランは大体の事情を察した。
関係の浅いボンドは「まさか」というような表情を浮かべているが、そのまさかで間違いないのだろう。
ウィリアムは普段着ているものより光沢のあるダークグレイのスーツを着こなし、髪はパーティ用にセットされている。
その目元には見覚えのある眼鏡がかけられており、おそらくはルイスのものを借りているのだろう。
女装をしているボンドと並ぶとまるでエスコートしている紳士のようで様になる。

「兄さんのプランを説明します。今日アルバート兄様が見合いをするのはホテル・リンツエッジなのですが、一流ホテルというだけあって潜入するにはややハードルが高いことが分かりました。そのため、僕達は偶然を装って会食をする貴族とそのボディガードになりすまして兄様を見張り、頃合いを見て見合いを潰すという計画です」
「つまりウィリアムとボンドが恋人同士で、俺とルイスがそのボディガードってわけか」
「その通りです」
「でも遠くから見張るくらいならここまで凝らなくてもいいんじゃないかな?」
「いや、アルバート兄さんは勘が鋭い人だからね。僕とルイスが並んでいればすぐに気付いてしまうだろう。気休めだとしても、少しでも気付かれないよう不自然でない程度の変装はした方が良い」

額を出して眼鏡を掛けたウィリアムと、同じく額を見せた状態で大きめのサングラスを掛けているルイス。
日頃から二人を見慣れているせいなのか、顔を隠している状況でもよくよく二人は似ているように見えてしまう。
だが遠くからならばさほど気にはならないのではとボンドは思うのだが、ウィリアムとルイス、おまけにモランもその言葉に同意するように頷いているのだから、きっとアルバートは弟達に気付いてしまうのだろう。
アルバートならば自分達に気付かないはずもないという自信は、ウィリアムとルイスがアルバートに弟として愛されている証だった。
照れることなく当然のようにそう評価するウィリアムと、アルバートならば遠くからでも見つけてくれると信じているルイス。
実に眩しい兄弟愛だと、そして歪に拗れている兄弟愛だとボンドは改めて気が付いた。

「少しでもウィル君とルイス君だと気付かれないよう、二人の関係性から誤魔化すっていうわけだね」
「はい。並んで行動していては兄様に気付かれる可能性が高くなります。僕とセバスチャンは兄さんとアイ様を見守るボディガードです」
「セバスチャンなら体格も良いしボディガードとしても怪しまれないからね」
「でもウィル君の恋人役は僕じゃなくてフレッド君でも良いんじゃない?ま、僕にやれというならやるけどさ」
「フレッドは…」

始めは変装に長けたフレッドに頼もうと考えていたウィリアムだが、彼は他者に対しての思いやりを忘れない優しさに満ちた男である。
その優しさは実に好ましいフレッドの長所ではあるのだが、起こりうるありとあらゆるパターンを検討したところ、彼はいざというときにアルバートの意見を尊重して行動を起こせないのではないだろうかという疑念が晴れないのだ。
何せこれはウィリアムとルイスの完全なる私利私欲、巨悪を裁くこととは一切の関係がない。
万一フレッドが行動を起こせなかったところでルイスはともかくウィリアムは彼を責めることは出来ないし、そうなっては見合いを潰す際に支障が出る。
その点ボンドならば仲間になって日も浅く、その場の空気を楽しむ性格のためきっと望み通りに動いてくれることだろう。
モランは言わずもがな面倒見が良く、決定した任務は必ず遂行してくれる。
年が離れているせいか、それとも幼い頃に出会ったせいか、モランは何だかんだウィリアムとルイスには保護者目線で甘いのだ。
それにアルバートが結婚してしまうというのはモランとしても面白くはないのだろうから、計画への謀反も心配はない。
ゆえにこの二人が協力者として選ばれ、フレッドには敢えて席を外してもらうことにしたのだ。
だがそれを正直に言うことを些か面倒に思い、ウィリアムは適当にそれらしい理由を作り上げることにした。

「彼には今日、町で情報を仕入れに行ってもらっているんだ。都合が合わなかったから代役というわけではないけど、君となら良い関係を演じられると思ってね」
「ふーん…?まぁそういうことにしておいてあげるわ。私を楽しませてくださるのよね、ウィリアム様?」
「勿論だよ、アイ」

誤魔化されていることには気付いたけれど、随分と楽しそうな催しだとボンドは判断した。
ウィリアムとルイスの二人がどうやってアルバートの見合いを潰すのかということにも興味があるし、あのアルバートが見合いを受けるというのも中々面白い。
ボンドは「アイ」という女性になりきることを約束し、柔らかな目元にそぐわない強気な声を出した。

「セバスチャン、今日は僕があなたの上司です。僕の指示には一切の反論をせず、すぐ行動に移すようお願いします」
「ったく、仕方ねぇな」

撫で付けた髪を上からガリガリと掻いて、モランはサングラス越しでも気迫に満ちた視線が分かるルイスを見下ろした。
ルイスが二人の兄に対して異常な執着を示していることは知っていたし、ウィリアムもあれでいてルイスに抱くものとは別の所有欲をアルバートに対して抱いている。
二人とも、アルバートの中に自分達以上の存在を作ってほしくないのだろう。
熱烈なまでの愛情は見ていて呆れるほどだけれど、それは何もウィリアムとルイスだけが抱えているものではない。
アルバートも負けず劣らず弟達に執着しているはずだが、それなのに見合いを受けるのだろうか。
モランはアルバートがウィリアムとルイス以外を大切に思うことなど、間違ってもありえないことだと認識している。
それは人やものに限ったことではなく、自分すらも大事にしていない彼は初めての家族である二人の弟だけを大事にしている。
見合いを受けて結婚するアルバートという存在が偽物のように思えてしまうが、ウィリアムとルイスの様子を鑑みるに、彼がチャイリーという娘に会うというのは事実なのだろう。
どこかしっくり来ない違和感を自覚しながら、モランは張り切っている他の三人を見て一人静かに息を吐いた。



「ここがリンツエッジってホテルか。良いところじゃねぇか」
「えぇ。ハーリー家が所有するホテルではないようなので、何故わざわざここを指定してきたのか分かりませんが…兄様との逢瀬を楽しむという名目であるならば許せませんね」
「ルイス、ナイフから手を離せ」

馬車から降りるウィリアムとボンドを待ち、二人のボディガード役であるモランはクラシカルでありながら流行に見劣りしない外観を持つホテルを見た。
行き交う人々は皆、上流階級たる貴族達だ。
品の良い高級服に見合った格式高いホテルだというのに、殺意に満ちたオーラを滲ませる己の上司らしいルイスを見てモランは呆れたように注意した。
普段から体のどこかに小型ナイフを忍ばせているルイスだが、愛用しているそれは使い勝手が良いのだろう。
特別丁寧に磨いてきたらしく、刃面が美しく輝いていた。

「旦那様、お足元にお気をつけください」
「ありがとう」

モランの言葉通りナイフから手を離したルイスは、ウィリアムとボンドに向けて恭しく声を出す。
そしてすれ違い様に、兄様は既に中で相手をお待ちのようです、と一言囁くように報告した。
視線をやることなく手を払うことで了解の意を返したウィリアムは、エスコートするようにボンドへ手を差し伸べてともに連れ立って歩き出す。
動線上にはホテルの扉とポーターである人間しかいないため、ルイスはモランとともに二人の後ろを付いていった。

「まぁ素敵なホテル!ねぇ、おすすめの銘柄は何かしら?」
「ここはオリジナルブレンドが美味しいそうだよ。ダージリンをベースにベリー系の風味を合わせているようだけれど、昼間からカクテルを楽しむのも良いかもしれないね」
「まぁ悩んでしまうわね。楽しみだわ」

ウィリアムとボンドは今日ここ、ホテル・リンツエッジで優雅なティータイムを過ごしに来た貴族という設定だ。
他にも同じく紅茶やアルコールを楽しんでいる貴族が多数おり、他者が気にならないほど広い空間の一角には一際上等な調度品を揃えた場所がある。
ルイスはそこに目をやり、間違いなくアルバートが一人座っている様子を確認した。
貴族を演じている二人は勿論、モランもその姿を確認している。

「(…アルバート兄様に見合いを申し出ておいて待たせるだなんて、相手は一体どういう神経をしているのでしょうか…)」
「(ルイス、瞳孔が開いてる。落ち着け)」
「(サングラスを掛けているのだから分かるはずがないでしょう。適当を言わないでください、セバスチャン。あと今日の僕はルイスではありません、エルとお呼びください)」
「(お前な…)」

ナイフに手を伸ばすことはないが、それでも醸し出されるオーラは狂気に満ちている。
なるほど、瞳を隠すためにサングラスをしていても違和感のないボディガード役を選んだのか。
モランはようやく使用人ではなくボディガードという設定であることの意味を理解した。
見れば眼鏡をかけているウィリアムもその瞳は笑っておらず、ガラス越しだからかろうじて違和感がある程度で済んでいるようだ。
けれど正面に座るボンドは呆れたように苦笑しているし、モランとてサングラス越しでも分かる虚ろな瞳に気付かないはずもない。
見合いが始まってすらいない状況でこうなのだから、相手の女性が来たらウィリアムはともかくルイスはその殺気を隠し切れるのだろうか。
弟達がアルバートに向けている愛情は深く重い。
きっとそれを知ればアルバートは喜ぶのだろうし、事実ウィリアムもルイスもアルバートには心から慕っている気持ちを表現しているから、記憶の中のアルバートは実に歓喜に満ちている。
これは面倒な一日になりそうだと、モランはようやく覚悟を決めた。

「…旦那様」
「あぁ」

ホテル自慢の紅茶とスコーンを頼み、届くまでの時間をしばらく待っていた。
するとロビーに見覚えのある執事とメイド数名を連れた、煌びやかなドレスを身に纏う女性が現れる。
視線を向けるなどという無礼な真似はせず、その空気のみで目当ての人間がやってきたと察したルイスは小さくウィリアムを呼んだ。
ルイスの表情はサングラス越しでも分かるくらいに美しい笑みを浮かべており、ウィリアムも知性あふれる穏やかな雰囲気のまま返事をした。
標的を前にボロを出すような真似をしない二人の様子にボンドは感嘆するが、モランは出来て当然だとばかりに表情を変えていない。
少しばかり心配はしていたが、失敗が許されない状況だからこそ神経は研ぎ澄まされるのだろう。
説明された計画では、基本的に事を荒立てるのはウィリアムとルイスだけということだった。
ゆえにモランもボンドも具体的にどう見合いを潰すのかを聞かされておらず、助けを求められれば臨機応変に対応することで了解している。
それでもしばらくはアルバートとチャイリーの様子を探るのだろうと、全員静かに耳を澄ませて気配を探っていた。
アルバートに勘付かれないよう距離を取った場所に腰掛けているが、かつて戦場で鍛えられたモランと孤児時代に培った聴覚を持つ兄弟には会話を盗み聞くことなど容易い。
ボンドだけがはっきりした会話を聞き取れていないが、座席の都合上アルバートを見ても違和感のない位置に座っているため、ひとまず視覚から彼らを観察することにした。

「アルバート様、お待たせして申し訳ありません」
「いえ、私が早くに着いてしまっただけですよ。お久しぶりですね、チャイリー嬢」
「えぇお久しぶりです。お元気そうで何よりですわ」
「あなたこそお元気そうで何よりだ。今日はまた随分と美しいのですね。それが私に会うためかと思えば、ついつい浮かれてしまいそうになる」
「まぁ」

自分で時間を指定した挙句アルバートを待たせたくせに、のうのうと何を言っているんだ。
男性を待たせることなど日常だと考えている貴婦人らしい行動は通常から見れば一般的なのだろうが、ルイスはその一般に当てはまらないので関係ない。
待ち合わせにおいてアルバートを待たせるなどありえないと、ルイスは表情を無くしたまま静かに佇んだ。
ウィリアムもボンドと静かに話を続けているが、その胸の内は穏やかではなかった。
アルバートは紳士らしく会う婦人の機嫌を取ることに慣れている。
今の言葉も普段のアルバートと何ら遜色はないはずなのに、これが一対一の見合いの場ということを考えると心の中に悪魔が現れてしまいそうだ。
彼女の一体何がアルバートの心を引いたのか、まずはそれを見定めなければならないだろう。
ウィリアムとルイスはアルバートとチャイリーの会話を一言一句聞き逃すまいと意識を集中させていた。

「ようやくアルバート様にお会い出来ること、私とても楽しみにしていたんですよ」
「少々仕事が立て込んでおりましてね。これまでに反故にした約束の件、誠に申し訳ない」
「良いんですのよ。アルバート様のお忙しい身の上は知っていますもの、お気になさらないで」
「それは有難い」

物分かりの良いふりをしたチャイリーの言葉だが、アルバートの言葉から察するにこの見合いはもう何度も提案されたものだったらしい。
過去にハーリー家からの封書はいくつか届いていた気はするが、日々いくつもの郵便を仕分けているのだから、印象が薄いのであればルイスの記憶に残るはずもない。
必死に過去を思い出すが、断りの返事を書いたのかどうかすら分からなかった。

「それで、式はいつになさいますの?」

ぴくりと、ウィリアムとルイスの肩が同時に揺れた。
それでも取り乱すことなく平静を装おうとするウィリアムはボンドとの会話を続けているが、ルイスは呆然と目を見開いたまま虚空を見つめている。
モランは聞き違いかと思ったが、二人の反応を見るにそうではないのだろう。
唯一チャイリーの声が聞こえなかったボンドだけが異様な空気に思わず口を噤んでしまった。

「(し、式って、式って…セバスチャン、式とはあの方の葬式を指しているのですか?それならば僕が今から仕留めてきますが)」
「(違う、そうじゃない。少なくともあいつの葬式ではないことは確かだ、落ち着けエル)」
「(では一体、何の式だというのですか…?)」
「(それは…)」
「(…まさか)」

モランが顔を背け、ウィリアムがルイスを静かに見上げる。
兄の視線をきっかけに、ルイスは背後を振り返ってはアルバートとチャイリーの姿を視界に収めた。
サングラス越しでは上手く表情が拾えないけれど、チャイリーは男を惑わすような笑みを浮かべているようだ。
これは間違いないと、ルイスはウィリアムが座るソファを指先でトントンと二回刺激した。
緊急事態、直ちに計画を完遂すべきだという合図である。
それを確認したウィリアムは微笑みを一変させて鋭い視線で後ろを振り返った。

「行こう」
「はい」

端的に会話をする二人を見たモランはひとまずその後を付いていく。
何やら面白いことになりそうだと気付いたボンドは己の役目を全うするか好奇心に従うか僅かに悩んだけれど、四人もの人間が移動しては周りの人間の興味を引いてしまうだろう。
ここからでも状況は把握出来るし、まずはウィリアムとルイスのお手並みを拝見するかと、紅茶を手に取り淑女らしく振る舞っていた。

「おい、どうするつもりだ?」
「こちらから無理に断りを入れて刺激しても良くないからね。向こうから断るように仕向けるつもりだよ」
「急ぎましょう、兄さん」

その方法を具体的に聞くことは出来なかったが、三人はもうすぐアルバートの視界にも入るだろう距離まで足を進めていく。
続けてアルバートとチャイリーの会話に割り込もうとルイスが声を出そうと口を開けた瞬間、聞こえてきた言葉に全員が足を止めてしまった。

「その件ですが、チャイリー嬢。私はあなたと婚姻を結ぶつもりはありません」

はっきりとしたアルバートの言葉を理解した瞬間、ルイスから発せられていた凶々しいオーラは一気に霧散する。
同時にウィリアムが浮かべていた険しい表情も消えていき、驚いたような、それでいて安堵に満ちた柔らかな顔になっていた。
一目で喜んでいることが分かる二人の様子に、モランもつられて安心してしまった。

「今日は断りの返事をするために馳せ参じました」
「な、…ど、どういうことですの!?私とあなたが許嫁であることは、先代であるあなたのお父様からの指示ですのよ!?」
「存じております。私とあなたは幼い頃から許嫁という婚約を結んでいた…けれど、それを結んだかつてのモリアーティ家当主はもうおりません。亡き父の指示であろうと、今のモリアーティ家当主はこの私。全ての決定権は私にあります」
「で、ですから、爵位を継いだのであれば、もう私との婚姻を妨げるものはないでしょう?」
「申し訳ありません。私はどなたとも婚姻関係を結ぶつもりはないのですよ」
「そ、そんな…」

アルバートの言葉に感激したようにルイスは目を見開いては口角を上げ、ウィリアムは何かを確信したように小さく拳を握りしめた。
確信したのはアルバートが誰のものにもならない、否、自分達兄弟の兄であるという確かな勝利だろうか。
圧倒的優越感に満ちた様子で美しく微笑うウィリアムとは対照的に、ルイスは無垢な幼さを感じられるようにうっすら頬を赤らめている。
太めのフレームで作られているサングラスとのアンバランスさが面白いほど似合わなかった。

「モリアーティ家はどうされるおつもりですの!?」
「あなたが知るところではないでしょう?モリアーティとハーリーには薄っぺらい許嫁以上の繋がりはないのだから」
「わ、私を捨てるのですか、アルバート様!」
「捨てるも何も、あなたを私のものだと思ったことは一度たりともありませんね」

言い縋るチャイリーを一蹴しては優雅に微笑むアルバートの姿。
彼が生来持つ容姿が整いすぎているがゆえに、今のアルバートは壮絶なほどに美しかった。
アルバートに許嫁がいたという事実はルイスはおろかウィリアムでさえ初耳だったのだが、会話から察するに形ばかりの関係だったのだろう。
互いの家を守り繋いでいくための婚姻に当人の意思など不要だ。
愛した人と結ばれることのない現実を憐れに思うべきなのか、それとも愛より地位と名誉を取る性根を嘆くべきなのかは分からない。
少なくとも、アルバートは許嫁というチャイリーに少しの愛も抱いていなければ、地位と名誉よりも己の尊厳を優先する人間だったことだけは事実だ。
その事実こそがアルバートをアルバートだと肯定している。
敬愛する兄が誰のものにもならない事実は、ウィリアムとルイスにとって最も喜ばしいことだった。

「どうして…どうしてそんなことを言うのですか!?私に何か至らぬところがありましたか!?」
「いえ、あなたは勿体無いほど良く出来た女性でしょう。ですが、私が大事に思うこととあなたが大事に思うことには随分と大きな隔たりがある」
「どういう、意味ですの…?」
「父母を亡くした私にとって、二人の弟達は唯一の家族です。私が何より大切に思う存在だ。私は弟を蔑む人間と、色目を使う人間を決して許せはしない」
「…っ…私、別に何も…」

思わず二人のやりとりを近くで見守っていたウィリアムとルイス、モランだが、何やら話が妙な方向に向かっている。
アルバートが許嫁という関係を解消しようとしているのは確かだが、その理由はチャイリーにあるという。
その理由がなくともいずれ婚約は破棄されていたのだろう。
興味を持てない愛せないという理由以外に、アルバートが彼女を拒否する明白なそれ。
会話の流れからウィリアムとモランはまずルイスに視線をやった。
当の本人はアルバートがチャイリーを拒絶している今の状況に浮かれているようで、つまりは現状を理解していないらしい。

「誰にも聞かれていないと思ったのでしょう?あなたとそこにいるメイドが、私の弟であるルイスを侮辱した言葉は」
「…ぁ、れは…!」
「孤児だろうが顔に傷を持っていようが、彼は私の自慢の弟なんですよ」

顔を青くさせて視線を逸らせるチャイリーと、すぐそばに佇む一人のメイド。
アルバートは二人を見てはにっこりと笑みを浮かべていたが、見えたエメラルド色の瞳は暗く沈み怒りを滲ませている。
身に覚えがあるというのならばその場の流れではなく、核心を持ってルイスを蔑む言葉を吐いたのだろう。
それでもアルバートの耳には入らないよう注意していたはずだが、全く詰めが甘くて分かりやすい。
聞かれてはいけないことを他者と共有するその危機感のなさはともかく、最愛の弟を侮辱する発言はとても擁護出来るものではないと、アルバートは薄い唇に弧を描いた。
アルバートの迫力に言い訳のしようもなく、チャイリーは口を噤んだ。

「それに、私との婚姻を望んでおきながらウィリアムに色目を使うのは何故でしょう?私と結婚すれば私だけでなくウィリアムも手に入ると、そうお考えなのですか?随分と舐められたものですね」
「な…!」
「おや、私が知らないと思っていたのですか?生憎、夜会のたびに私の近くにいるウィリアムを気にしていたこと、気付いておりましたよ。子爵家の御令嬢にしては実に性に奔放であられるようだ」
「っ…!!」

チャイリーはアルバートとの間にもウィリアムとの間にも、少しの関係も持っていない。
けれど、その二人を同時に手に入れることを夢見ていたのは事実だ。
貴族家の第一息女にあるまじき性質を揶揄され、チャイリーの顔は羞恥で一気に染まっていった。
潔癖なアルバートは自分が欲望の対象に捉えられることも、まして弟がそういった対象になることには震えたくなるほどの嫌悪を抱く。
それが自分だけならいくらでも耐えられるけれど、ウィリアムにまで影響が出るのは我慢ならないのだ。
昔からの婚約者という立場だから多少の温情は持ち合わせていたはずなのに、元孤児だというルイスを蔑み、自分だけでなくウィリアムにも色目を使い付き纏うこの女。
一体どこに婚姻を結ぶメリットがあるというのだろうか。
アルバートは吐き捨てるように嘲笑し、それでも淡々と言葉を冷たく紡いでいく。

「大切な家族への侮蔑に加え、結婚早々に不貞の気配が漂うのであれば、私があなたとの関係を解消したいと思うのも無理はないでしょう」
「…そ、そんな…!」
「あなたはあなたなりに私を愛してくださっているのでしょう。ですが、私はあなたに興味がない。ハーリー家との婚約はモリアーティ家にとって少しの利点も感じえない。今日はそれをお伝えしに参ったのです」
「あ、アルバート様…!」
「それでは私はこれで。当家の者が迎えに来てくださったようなので失礼します。さようなら、チャイリー嬢。かつての許嫁であったあなたに、映えある未来が訪れますように」

ソファにゆったりと腰掛けていたアルバートが立ち上がり、掛けていたコートを自ら手に取り軽く一瞥してから歩き出す。
向かうのはすぐ近くで挙動不審になっていた三人組の元で、呆れたように息を吐いてはすぐに安堵を浮かべた笑みを見せる。
美しいのにどこかあどけなくて、伯爵という仮面を取り払ったアルバート個人の表情だ。
その背後では言葉を返せず口元を覆うチャイリーを、連れてきた使用人とメイドが懸命に宥めている。
一方的な婚約破棄は立派な罪になるのだろうが、その原因を作ったのはハーリー家だ。
向こうが大事にするのであれば真っ向から戦うし、そもそも何も知らない使用人の前であれだけ恥をかかされたのだからもうその気力すらもないだろう。
アルバートは醜い女が己の名を呼んだ声を忘れようと、何故か姿を変えている弟達と目上でありながら悪友でもある男を呼んだ。

「やぁ三人とも。一体こんなところでどうしたんだい?」
「あ、これは、その…」
「…兄さんこそ、こんなところで一体何を?」
「見ていたのなら分かるだろう?見合いをしていたんだよ。良い方向には纏まらなかったけれど」
「纏める気もなかったくせによく言うぜ」

肩を竦めてわざとらしく言ったアルバートに、それでこそアルバートだな、とモランは安堵した。
アルバートが見合いをするなど違和感しかなかったけれど、ウィリアムとルイスが張り切って見合いを潰そうとしていた中で、アルバートは自ら華麗に見合いを潰してみせたのだ。
嫌味ったらしい言葉の応酬は、見ていていっそ相手の女が可哀想になるほどだった。
いつからウィリアム達の存在に気付いていたのか、驚く素振りも見せずにコートを羽織るアルバートは正しく貴族だ。

「もう一度尋ねるが、どうして君達はここにいるんだい?」
「…実は、兄様が見合いをされると知って…兄様が結婚することを受け入れられず…」
「僕とルイスで兄さんの見合いを台無しにしようと考え、ここに来ました」

ルイスは言い淀んだけれど、ウィリアムは隠すつもりもなくそのまま事実を答える。
アルバート相手に隠すだけ無駄なことだと開き直っているのか、いや、バレたところで支障はないということなのだろう。
事実、アルバートは気にした様子もなくむしろ喜んでいるようだった。

「おや、そうだったのかい?それは嬉しいね」
「兄様、アルバート兄様はどなたとも結婚しませんよね?僕と兄さんだけの兄様でいてくださいますよね?」

いつもとは違う黒いガラス越しに見つめられているのに、何故だか普段と変わらないルイスのように見える。
ウィリアムもいつもとは違う装いだし、少しでも存在に気付かれないよう気を配った証拠だろう。
珍しい姿に乗る弟の懇願は、とびきり甘くて可愛らしいものだった。

「勿論だよ、ルイス。私は誰とも結婚するつもりはない。お前達との大義があるのだから、そんな余裕はどこにもないさ」
「兄様…!」
「兄さん…」

アルバートは弟二人の背に手をやり歩き出す。
そうしてちらりと背後に視線をやってモランに付いてくるよう促しながら、近くに見える女性の装いをした同志の元へと向かっていった。



(信じておりました兄様!アルバート兄様は僕達との誓いを忘れることなどないと、僕は信じておりました!)
(ありがとうございます、兄さん。少しでも疑ってしまったこと、申し訳ありません)
(気にしなくて良い。大した用でもないから話す必要もないと思っていた私も悪かった)
(ところでアルバート兄様。あの人がウィリアム兄さんに色目を使っていたというのは事実ですか?兄様だけでなく兄さんまで手に入れようと…?身の程知らずも良いところですが)
(あの人がルイスを侮辱したというのはいつのことです?ルイスが夜会に参加したのは数えられる程度…兄さんのおかげでルイスの耳に届かなかったとはいえ、弟を侮辱されたとあらば僕も黙ってはいられませんね)
(もう過ぎたことだよ。日頃の行いは問題ないが、ちょっとした振る舞いの迂闊さが目立つ人間というだけのことだ。あれだけ恥をかいたのだからもう関わってくることもないだろう。ルイス、万一ハーリー家の紋章が封蝋がされている郵便が届いた場合、中を見ることなく処分してくれて構わない)
(承知しました)

(なんかあっという間に終わっちゃったねぇ。何を言ってたかまでは分からないけど、アルくん怒っていたみたいだね)
(あー…あいつらが度を越したブラコンってだけだ。珍しくもねぇよ)
(そうなんだ?それにしてもモラン君、そのサングラス凄く似合うね。どこぞのチンピラみたいで格好良いよ)
(おいお前、それ褒めてねぇだろ)

のらくらり。

「憂国のモリアーティ」末弟中心ファンサイト。 原作者様および出版社様、その他公式とは一切関わりがありません。

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