今度こそ、ちゃんと見ているから
三年後ウィルイスがアルバート兄様を通してお互いについて考えるお話。
ルイスの「アルバート兄さん」呼びについて想いを馳せた。
ルイスが代表として取りまとめる"M"という組織は、長く幽閉されていたアルバートと行方が知れていなかったウィリアムが戻ってきても、変わらずルイスが核となって運営されている。
三年という長い時間を誰よりも有効かつ正しく使っていたルイスが、自らの技量を持ってして動かしてきた英国のためだけに存在する組織だ。
たとえ前任者であろうと並外れた能力があろうと、そして全責任を負うルイス本人が認めていようと、そこではルイスが中心でなければ道理がいかない。
アルバートに隠されウィリアムに守られてきた三兄弟の末弟は、今や自身の足で一人立派に立ち上がっているのだ。
そんな弟の姿をウィリアムは誇らしく思うし、より一層自分の情けなさを思い知らされるほどに格好良いルイスこそを、この世の何より尊く思っている。
可愛いだけの弟は離れていた時間を経て、とても綺麗に格好良くなった。
「ルイス、この資料の元になったデータはあるかい?」
「文章化されていないものですか?膨大な枚数になりますが」
「構わない。少々気になることがあってね、確認しておきたい」
「分かりました。すぐにお持ちします、アルバート兄さん」
「ありがとう。手間をかけてすまないな」
現在のウィリアムはアルバートとともにルイスの補佐として英国のためにその身を尽くしている。
一時は兄達に立場を譲ろうと考えている様子もあったが、それでもルイスは自らが国のために尽力してきた過去を無くそうとはしなかった。
あくまでも淡々と、ウィリアムとアルバートには己の下に就いた人間だという態度を崩さず指示を出している。
公私を綯い交ぜにしない姿には正しく上に立つ者のオーラが感じ取れるというのに、呼び名だけは兄弟を主張するのだから、ある意味でどうにもルイスらしい。
ルイスはどれほど正しく在ろうとも、やはり弟でしかないのだ。
そんな中、ウィリアムはもう聞き慣れてきたその呼び名に今更ながらに疑問を抱く。
「ねぇルイス。アルバート兄さんのこと、呼び方を変えたんだね」
一日の業務を終えたメンバーは食事と入浴を済ませ、各々の時間を過ごしている。
モリアーティが所有していた屋敷は全て処分したという。
共有スペースはあれどほぼホテルのように個室管理されているこの空間は、家という印象を抱かせることがない。
それを無念に思うことも惜しく感じることもないのは、ウィリアムにとってルイスがいる場所こそが紛うことなく「家」という認識だからなのだろう。
馴染みない空間で唯一我が家を実感させられるルイスの髪をタオルで乾かしつつ、ふいに口をついて出たのは、再会のときから違和感を覚えていた共通する兄への呼称だった。
「…どうしましたか、唐突に」
「特に理由はないよ。昼間もそう呼んでいたから、どうしてだろうと思って」
ルイスがアルバート兄様と呼ぶ音を、ウィリアムは存外気にいっていた。
己が唯一兄と認めた彼が、世界の何より大切な弟を守り慈しんでくれる存在だと確信してからもう随分経った。
そしてルイスがその彼をもう一人の兄として認めてからも同様に、長い長い時間が経ったのだ。
離れていた期間があってもルイスが己と、そしてアルバートを変わらず兄として想ってくれていたことは、再会してから過ごした時間でよくよく理解出来ている。
ルイスの気持ちなど考えずに己のエゴだけを貫いてきた自分を、再び兄としてその心の深い部分に置いてくれていることを知ってからは、無意識に凝り固まっていた全身がほぐれていくのをよく覚えていた。
だから、気になったのだ。
ウィリアムは己の歪んだエゴをルイスが受け入れた上で、彼がまたそばにいてくれるという揺るぎない確信を得た。
兄弟揃って粛々と国へと尽くし生きる日々を過ごす中で、少し余裕が出来たのだろう。
己のことを兄さん、アルバートのことを兄様と呼んでいたルイスの心境の変化について、ウィリアムはルイスの口から何も聞いていない。
「何か、思うことがあったのかな?」
「…そう、ですね」
ふわりと流れる髪を撫で、ウィリアムは左右で色合いが変わってしまった瞳でルイスを見る。
離れて過ごしていた期間、あまり手入れらしい手入れはしていなかったらしい。
再会してから初めてその髪に触れたとき、何とも言えないパサついた感触に思わず苦笑してしまった。
そうして昔のように髪を乾かす役目を引き受けて以降は、また昔のように手触りの良い髪質が戻ってきて嬉しく思う。
柔らかな金色を指で遊ぶように触れながら、ウィリアムはもう一度ルイスの名前を呼んだ。
「…アルバート兄様は、僕の憧れの人でした」
兄様みたいな人になりたかった、と告げるルイスの表情はとても綺麗なのにどこか幼く見える。
ルイスがアルバートに憧れていたことはウィリアムにとって真新しい情報ではない。
いつだってルイスはアルバートの真似をして、背伸びをしては早く大人になろうと振る舞っていたのだから。
それを微笑ましいと思いつつ、子どものままでいさせてあげられない環境を恨んだことだってある。
ウィリアムは自分こそが大人にならざるを得ない状況だったことよりも、ルイスに普通の子ども時代を与えてあげられなかったことこそ悔いていた。
「兄様はいつだって格好良くて、気高くて、貴族なのに優しくて、完璧すぎるくらいの理想を持った人で…何より、兄さんを助けてあげられるくらいに強い人でした」
「そう、だね」
「…アルバート兄様みたいになりたかったんです。兄様みたいに、兄さんを助けてあげられる人になりたかった。兄さんがつらいときに支えてあげられるような、兄さんの負担を一緒に分けて背負えるような、そんな兄様みたいな人になりたかった」
兄さんが抱えていたものに気付かないまま守られている僕じゃ嫌だった。
兄さんが抱えていたものに気付いても、そこから目を逸らしてしまった僕じゃ駄目だった。
兄様みたいに、兄さんが認めてくれるような人になりたかった。
「あの人は僕の憧れで、目標とも言うべき人でした。だから、自然と敬意を込めて兄様と呼んでいたんだと思います」
ルイスは視線を俯かせたまま、言い淀むことなく静かに心情を吐き出していく。
再会したあの日に自然と呼んでいたくらいなのだから、ルイスの中では既に整理が付いていることなのだろう。
流暢に語られた言葉は幼いけれど、それゆえに勘違いしようもなく真っ直ぐで一途な思いだった。
「きっと羨ましかったんだと思います。兄さんの信頼を得て、兄さんのことを助けてあげられるあの人のことが羨ましくて、そして少しだけ妬ましかったのかもしれない。今も自覚はないですけど、多分僕は、あの人に嫉妬していたんだと思います。兄さんから目を逸らさずにずっと見ていたあの人が妬ましくて、だからあの人みたいになりたくて背伸びしていたんでしょう。…どうして憧れてたのかも分かっていなかったから、見せかけだけを真似してしまいましたけど」
ウィリアムの苦悩を軽くするどころか気付きもしなかった愚かな自分を、ルイスは今でも後悔している。
自嘲したように笑い声をこぼすルイスは、何にも気付いていない無知だった過去の自分に対し呆れているのだろう。
だがそれは決してルイスが気にすることではない。
少なくともウィリアムはそう思っている。
ルイスにだけは気付かれたくなかったし背負わせたくもなかったのだから、それで良いのだと思っていたのに。
ウィリアムは初めて窺い知るルイスの心情が信じられなくて、思わず髪に触れていた手を下ろしてしまった。
「あの人が僕を置いていったとき、捨てられたんだと思いました。兄さんを通してしかあの人を見ていなかった自分を見限ったのだと、そう思ってしまった。兄さんがいなくなった状態では僕とあの人を繋ぐものが何もないことに気付いてしまった」
「ルイス」
そんなことはないと、ウィリアムは思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込んだ。
今ここでウィリアムが何を言おうと、もうルイスの中では整理が付いていることなのだから無意味でしかない。
まだ話の途中だと、ウィリアムは喉を締めて俯くルイスの目元をひたすらに見つめている。
「…寂しかったです。兄さんがいなくなったら僕はもうあの人にとって用済みなんだと、そう思ってしまった。薄情な人だとも思いました。でもそうじゃない…僕が、僕こそがあの人を、兄さんを通してしかアルバート兄様を見ていなかった…兄様みたいな人になりたいと思っていたくせに壁を作って、様なんて付けて、兄さん越しでしかあの人を認めなくて、無意識にあの人のことをずっとずっと切り捨てていた。そのことに気付いた瞬間、自分のことを最低な人間だとはっきり自覚しました」
薄情なのは兄様じゃない、僕の方だったんです。
だから僕を捨てた兄様に寂しいなんて言えるはずもないし、そう思うことすら間違っているのだと分かってしまった。
でも、それでも。
「兄さん、僕はあなたが関わらなくてもアルバート兄様のことを兄だと思っています。兄さんがいなくてもあの人は僕の兄で、僕が憧れた人で、あの人のようになりたいと懸命に目指した唯一の人です。最低でも薄情でも、あの人の弟であることは僕の一部です。だからもう一度会うことが出来たら、絶対に弟として出迎えようと決めていました。あの人が僕のことを弟だと思っていなくても、僕はあなたの弟なんだと、そう譲らない気持ちであの日を迎えたんです」
僕はあなたの弟ですと、続けて言った言葉にウィリアムは思わず息を呑む。
きっとアルバートを出迎えたときの心情だけでなく、ウィリアムを出迎えたときの心情も合わさっているのだろう。
ウィリアムがルイスを弟として見ていなくても、ルイスは弟としての自分を主張する。
そんなことをしなくてもウィリアムにとってもアルバートにとっても、ルイスはいつだって大切な弟でしかないというのに。
「…兄様と呼ぶのを止めたのは、兄さんを通してしかあの人を見ていなかった自分との訣別のためです。兄さんがいなくてもあなたは僕の兄なのだと、大切な兄さんなのだと、そう言いたかった」
「……そうだったんだね、ルイス。…ごめん、一人きりに、してしまって」
「……」
いつの間にか顔を上げていたルイスの瞳は、以前よりもずっと深い色をしているように見えた。
ウィリアムは濃い赤が見せる強さの中に僅かな揺らぎを感じ取り、この先ずっと消えない過去を謝罪する。
何度謝ったところで、大切な弟を一人きりにして全てを背負わせてしまった事実が消えることはない。
それを知った上で尚、言わずにはいられないのだ。
たくさんの人を犠牲にしたことと同等、いやそれ以上に、ウィリアムは己のエゴを貫いた結果としてルイスを一人にしたことを悔いている。
ルイスの気付きは間違いなく大切なものだろう。
アルバートの弟として、ルイスの兄として、二人の兄弟として、彼らの関係がより確かなものになるのは喜ばしいことだ。
けれど、あんな状況で気付かせる必要などなかった。
苦痛に顔を歪めるウィリアムを見て、ルイスは静かに首を振る。
そうして儚く綺麗に微笑んだ。
「僕は兄様のように、兄さんのことをきちんと見られる人になりたかったんです。兄様みたいな人になりたかった」
「ルイス…」
「今の僕は、兄さんを助けられる人になれたでしょう?兄さんのつらさを支えられるくらいに、僕は強くなったでしょう?」
ルイスは髪から離れていたウィリアムの手を取り、代わりに力強く握りしめる。
そのまま握りしめた手ごと持ち上げ、未だに爛れた跡を残す己の頬に押し当てた。
ぴくりと動く指先を押さえ込むように頬へ押し付け、まるで主人に懐く小動物のように頬を擦り寄せていく。
「兄さんの役に立ちたくて、この傷を作りました。けれど、それは違ったんです。僕はあなたの役に立ちたかったのではなく、あなたのためになりたかった。兄さんが抱えるものを一緒に背負える人に、兄さんと一緒に生きていける人になりたかった」
「…もう、なっているよ。ルイスにたくさん助けられた。ルイスと一緒に生きていきたいと思っているよ」
ずっと秘密にしていたとっておきの隠し事を明かすように、ルイスは少しだけ楽しそうな様子で微笑んでいる。
役に立ちたいのではなく対等に、一緒に歩いていける人になりたいのだという弟がどこまでも健気で愛おしかった。
「僕は兄さんを助けられるくらいに強くなりました。兄さんを支えてきた兄様のような人になれたつもりです。だからもう、兄様に憧れなくても良いんです。あの人は僕の、ただの兄さんですから」
「…そうか…うん、そうだね。ルイス」
「僕が強くなろうと思ったのも、強くなれたのも、アルバート兄さんのことを本当の兄だと思えたのも、全部兄さんのおかげです」
「…そんなことないよ。全て、ルイスが頑張ったおかげだ。僕はただのきっかけでしかない。ルイス自身のおかげだよ」
ウィリアムには想像もつかないほどの葛藤と寂しさを抱えて尚、ウィリアムに恥じないよう真摯に生きてきたルイスがとても眩しく見える。
一人で背負う業はさぞかし重かっただろうに、そんな中でも兄達に想いを馳せて生きてきたのだ。
依存するよう仕向けてきたけれど、想像以上に一途に成長してしまった。
三年も経ってその事実にようやく気付いた瞬間、改めて離れて過ごしていた期間の長さを実感する。
そばにいてあげたかったはずなのに、愚かにも覚悟のなかった過去の自分を詰りたくて仕方がない。
「兄さん」
「…何だい、ルイス」
「…僕がアルバート兄さんに憧れたのは、兄さんを一人にしたくなかったからです。兄さんといつも一緒にいたかったから、アルバート兄さんみたいになりたかった。あの人は兄さんから目を逸らさずにいてくれたから」
「ルイス」
「……僕、兄さんのことをちゃんと見れていますか?ただそばにいるだけじゃなく、兄さんのそばに、一緒にいることが出来ていますか?」
いつも一緒にいたつもりだったのに出来ていなかったから、よく分からないんです。
そう言って不安げに瞳を揺らす弟を、ウィリアムは力の限り抱きしめた。
(出来てるっ…出来てるよ、ルイス…!僕こそいつも一緒にいると言ったのに、約束守ってあげられなくてごめん…っ、ごめんね、ルイス)
(…ん)
(僕こそルイスのことを見ていなくてごめん…君に甘えてばかりで、自分のことしか考えていなくてごめん…ずっと一人きりにしてごめん、一人で頑張らせてしまってごめん…っ)
(…良いんです。もう、良いから)
(でも…!)
(良いんです、兄さん。僕の方こそ、守らせてばかりでごめんなさい。もう、大丈夫ですから)
(ルイス…)
(今度こそ、兄さんから目を離さずにそばにいます。兄さんも僕のことを見ていてくださいね)
(…勿論だよ、ルイス)
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