末っ子すくすく育児日記
転生現パロ年の差三兄弟の続きで、兄さん兄様がべびルの育児に奮闘する話。
可愛いべびルを可愛がったり、可愛がるあまり失敗したり、とにかくハピネスな三兄弟がいる。
ロンドンの高級住宅地に居を構えるモリアーティ邸は当然の如く洋館である。
主人夫妻と息子二人、そして住み込みの使用人が複数いたとしてもその部屋数には余裕があった。
広い屋敷は常に清潔を保っており、丁寧に管理されている庭では一年を通して美しい木々と花達が目を楽しませ、有名料理店から引き抜いてきたという料理長とその補佐はいつでも極上の料理を提供してくれる。
多忙のため不在がちな夫妻に代わり優秀な人材を採用しているモリアーティ家は、もしかすると両親からの愛情を目一杯に受けたいと願う幼児にとっては物足りなくあるのかもしれない。
だがその対象である子息二人は気にする様子もなく、生活する場においてこれ以上の環境はないと満足したように屋敷を隅々までチェックしていた。
そうして、父と母である二人にこうねだるのだ。
「ルイスが過ごす部屋は日本式がいいと思います。ベビーベッドじゃなくて、このお布団という寝具がいいです」
「床はフローリングやラグマットではなく、一面に絨毯を敷いていただきたい。もちろんルイスがハイハイしたり歩き出しても問題ないように、土足もスリッパも厳禁です」
モリアーティ家の長男たるアルバートと次男たるウィリアムは、近く生まれてくる弟のルイスのために一部の部屋の改修をねだっていた。
長年追い求め探していたルイスが無事に自分達の弟として生まれてくることを確信した二人は、この屋敷で何不自由なくルイスを育てられるよう準備を進めているのだ。
何せ母は10年ぶりの出産であり、ウィリアムに使用していた育児用品などはほぼ全て処分してしまっている。
それを幸いとばかりに一からルイスのために全て揃えようと、母でも父でもナニーでもなくウィリアムとアルバートが意欲的になっているのだ。
その第一段階として、二人は自国でスタンダードな方法ではなく小さい島国の育児方式を取り入れようとしている。
ウィリアムは手の持ったタブレット端末で、小さなベビー布団を床に直置きしている日本の育児スタイルを推奨していた。
「おふとん?ベッドをそのまま床に置くなんて不衛生でしょう?」
「だから部屋の中は土足厳禁なんです。そうすればルイスに影響はないはずです」
「だが、万一この子を踏んでしまっても危ないだろう」
「絶対に踏んだりしません。お父さんもお母さんもナニーもそんなことしないでしょう?僕達もルイスを踏んだりなんかしません」
「…でも、ベビーベッドじゃないと抱っこしたりは大変じゃないかしら。お父様は背が高いし、腰を痛めてしまっても大変だわ」
「僕がお父さんの分までルイスを抱っこします!」
「任せてください、父さん母さん!」
「「……」」
まだスクールに通う年頃の子どもだというのに、生まれる前から弟の育児に熱心なのはどういうことなのだろうか。
そもそも弟かどうかすらまだ分かっていないのだが、こうまで弟だと信じ切った挙句に「ルイス」と名前まで付けている我が子の執念に、母も父も溜息を吐いてしまった。
滅多に我儘など言わない子の熱心な願いを無碍にできるほど、モリアーティ夫妻は心無い人間ではない。
今まで少しも手がかからなかったウィリアムとアルバートの希望なのだから、その通りに叶えてあげるのが親というものだろう。
「…仕方ないわね。あなた、腰痛に気を付けてくださいね」
「あぁ、注意するとしよう」
「ありがとうございます、お母さんお父さん!」
「ルイスの育児、頑張ります!」
何をそんなに日本式に拘っているのかと母も父も疑問に思う。
事実、小さな赤ん坊を育てる上でベビーベッドで困ることはないのだ。
母の言う通り床に寝かせていると保護者の腰に負担がかかるのは確かだし、うっかり踏んでしまったり何かを落としてしまうリスクも回避出来る。
だが、ベビーベッドではウィリアムがルイスを抱っこするのに支障が出る。
何せウィリアムは今9歳、ルイスが生まれる頃になっても10歳でしかない。
抱っこするため一々柵を下げるのが手間になるどころか、10歳児の身長ではベッドからルイスを抱き上げるのも一苦労なのだ。
それは何としても阻止しなければならないと考えた結果、日本式の育児に目を付けたのだ。
マットレスではなく中綿を詰めた敷布団ならばルイスをすぐ隣に寝かせられるし、抱っこもすぐに出来る。
何よりルイスと並んで眠ることが出来るのだから良い事づくめである。
父の腰痛よりも自分がルイスを抱っこする方が優先だと、ウィリアムは浮かれたようにタブレットのページを切り替えた。
「お母さん、僕とアルバート兄さんにこのお布団を買ってください。このお部屋でルイスと一緒に眠りたいです」
「三人並んで寝ることを、日本の漢字を文字って川の字で寝ると言うそうですよ。兄弟三人で眠りたいです」
「貴方達、すっかりこの子を育てる気満々ね。親は私だし、ナニーをするばぁやもいるのよ?」
「そもそもお腹の子の名前は私が決めるというのに、お前達は何故もうルイスと呼んでいるんだ?」
「「この子はルイスです。ルイス以外の名前は絶対に嫌です」」
名付けの権利を息子二人に却下された父は思わずたじろぐが、諦めなさい、という妻の視線に二の句を告げなかった。
まだ12歳と9歳の兄は半年先に生まれてくるルイスのため、浮き足立つ気持ちで準備を進めるのだった。
そうして生まれた最愛の弟。
2600gと少々小柄ではあるが元気に泣いて命を主張した弟の頬には見覚えのある痣があり、その瞳は暗いけれど透き通った赤色をしていた。
間違いなくこの子はルイスで、あの時代をともに過ごした自分達の大切な弟で間違いない。
そう確信しながら、ウィリアムとアルバートは小さなその赤ん坊を目一杯に抱きしめた。
二人はルイスが生まれてからは毎日のように病院へと面会に行き、ようやく退院するとなった日にも率先して母と弟を迎えに行く。
生憎と父はどうしても外せない仕事が入ってしまったそうでこの場にはいないが、病院から自宅までの車の中、ルイスは母に抱かれて過ごしていた。
優しい母の腕の中、すやすやと穏やかに眠るルイスはとても無防備だ。
「…お母さん」
「なぁに?」
「な、何でもないです」
「あら、もしかして緊張してるの?毎日ルイスに会いに来ていたのに、いざ家に帰るとなったら不安になったのかしら」
「そうじゃないです。別に、そういうわけじゃ…」
「ふふ、おかしなウィリアムね」
くすくすと笑う母はウィリアムとよく似ていて、当然その腕に抱かれているルイスも彼女に似ている。
母の向こう隣にいるアルバートはウィリアムの様子を気にかけることなく、抱かれているルイスの指に触れては握られる感触に表情を緩めていた。
母親に抱かれて安らかに眠るルイスと、弟を愛おしげに見守る人。
そんな光景を、過去のウィリアムは一度だって見たことがない。
ルイスはウィリアムとともに両親から捨てられてしまったし、その名前以外に何も与えられることはなかった。
ウィリアムは近くに住まう人間の手を借りて何とかルイスを育ててきたけれど、そのウィリアムだって周りの助けにより育ってきたようなものだ。
足りない栄養の中で必死に生きていたし、ルイスがいなければ良かったのにと思うことだってあった。
けれどルイスを育てていく中で他ならぬこの子本人に自分という存在を認められ、ルイスこそが無条件に自分を必要とし愛してくれたことで、ウィリアムはようやく己の存在を肯定出来た。
自分にはルイスが必要だと、幼心に確信しては大切に大切にルイスを育ててきたのだ。
ウィリアムに愛情を教えてくれたのはルイスで、ルイスがいなければあの頃のウィリアムの人生はとうに潰えていたことだろう。
そんなルイスに、ウィリアムは惜しみないほど最大限の安寧を与えてきたつもりだ。
いつだってルイスが心穏やかに過ごせるよう尽力してきたし、その先に過ちを犯した結果が犯罪卿という末路だった。
ルイスを正しく育てられなかったことを、ウィリアムはずっとずっと心残りに思っている。
だが今、ルイスは母に抱かれアルバートに見守られた状態で、安らかに寝息を立てているのだ。
母に愛情を与えられ、信頼できる人にその存在を許されている。
危険を知らない無防備なルイスが、それを許される環境で生きている。
ウィリアムはそのどれもがとても嬉しくて、過去に与えられなかった母からの愛情を受けているルイスが神聖な存在にも見えた。
「…ルイス、良かったね」
アルバートの指を握っているルイスの頬に指をやり、ふくふくした柔らかな感触を楽しむ。
ルイスが安全な環境にいることこそが、ウィリアムにとって心からの安寧だ。
母に抱かれている弟の存在が眩しいほどにウィリアムの心を照らしてくれた。
「奥様、ようこそお帰りくださいました。ご出産、誠におめでとうございます」
使用人の中でも長くモリアーティ家に勤めている老婆が帰ってきた親子を出迎える。
母のナニーをも務めたという彼女は過去にウィリアムとアルバートのナニーを経験しており、当然の如くルイスのナニーもこなす予定だ。
彼女は扉を前に母の腕に抱かれたルイスを見て、可愛らしいですわね、と顔を綻ばせている。
その様子を見ていたウィリアムとアルバートは小柄な体を活かしてするりと屋敷の中へと入り、母とルイスのために開けられていた扉を閉めてしまった。
「あら、ちょっと二人とも」
「どうされましたか。アルバート様、ウィリアム様」
外から聞こえる声にウィリアムとアルバートは顔を見合わせ、互いに笑みを深めてから勢いよく重厚なその扉を開けていく。
そうして子どもらしく大きな声で出迎えの言葉を口に出す。
「おかえり、ルイス!」
「待っていたよ、ルイス」
母に抱かれているルイスを見上げ、ウィリアムとアルバートはウトウトと目を開けているその顔を見る。
眠たそうだけれど病院から車、そして今後住まう家という環境の変化に落ち着かないのだろう。
おまけのように、おかえりなさい母さん、とアルバートが告げた言葉に母は呆れながらも嬉しそうに笑っていた。
「まぁ。二人とも、すっかりお兄さんね」
「お母さん、ルイスを抱っこさせてください。僕が家を案内します」
「良いわよ。アルバート、気をつけてあげてね」
「はい」
ウィリアムは腕を伸ばしてルイスを受け取り、感じる重みに笑みを深める。
病院でも何度も抱っこさせてもらい、ようやく母から一人で抱っこしても良いと許可をもらった。
それでも母が念のためアルバートに見守りを頼むのは親としての責務であり、その責任感がルイスに向けられているのだと思うと嬉しい限りだ。
まぁ実際、今のウィリアムがルイスを落とすなど腕が千切れようとも有り得ないのだけれど。
ウィリアムはルイスをぎゅうと抱きしめてから収まりの良い姿勢に整え、赤い瞳と視線を合わせる。
あ、んむ、ともごもご小さな口を動かしているのが可愛らしい。
「おかえり、ルイス」
「私とウィリアムで部屋を案内してあげよう」
ウィリアムに抱かれアルバートに見守られた状態で、ルイスはモリアーティ家の屋敷へと帰ってきた。
初めて足を踏み入れる場所だというのに、ルイスは怯えることなくふにゃふにゃしている。
くぁ、と大きなあくびをしているところが大胆かつ肝が据わっていてルイスらしかった。
小さくとも間違いなくルイスである命を、ようやく自分達が住まうこの家に連れて帰れたのだ。
やっと三人揃った、ついに三人ともに再会できた。
ウィリアムもアルバートも、それがとても嬉しくて仕方がない。
「…会いたかった。帰ってきてくれてありがとう、ルイス」
「今度こそずっと一緒にいよう。ずっと一緒だ」
ルイスも同じように嬉しいと思ってくれているだろうか。
広い廊下で足を止めてもう一度己を抱きしめたウィリアムの顔を、ルイスはぼんやりと見上げていた。
「ルイス、美味しい?たくさん飲んでね」
ルイスが家に帰ってきた後しばらくして、ウィリアムはルイスの授乳をこなしていた。
どうやら母は仕事復帰の都合上、入院中のみ母乳をあげて以降はミルクのみで育てていく方針らしい。
既に母乳を止める薬剤も内服したようで、自宅ではもうルイス用のミルクが粉と液体の両方用意されていた。
母乳栄養が赤ん坊のためになるという説は広く知れ渡っているが、家庭によって育児の方法は様々になるのだから、執拗になってまで母乳育児にこだわる必要はない。
母は己のライフスタイルに無理のない方法を選んだようだが、ウィリアムとアルバートにしてみればそれこそ好都合だった。
母乳のみでルイスが育つのは良いことだろうが、それでは二人がルイスに授乳する機会がめっきり減ってしまうのだ。
それは困ると、母が母乳をやめてミルクでの育児を選んだことにいっそ感謝している。
母乳育児は母子関係の良好な構築を目指せるという。
ならば兄が弟にミルクをあげることで兄弟関係はより良好に構築されるだろうと、ウィリアムはミルクの作り方を既に記憶しているし、アルバートは夜間授乳をこなす覚悟を決めていた。
ゆえにそろそろ授乳の時間だとウィリアムはウキウキした様子でミルクを作り、部屋に用意された背の低いソファに腰掛けてルイスを抱っこしてはミルクをあげている。
アルバートはその隣に腰掛けて弟達の授乳を見守り、母とナニーは張り切る二人の兄を見てはどこまで育児に積極的なのかと不思議に思っていた。
「上手に飲んでいるね、ルイス」
「昨日病院で飲ませたときよりも上手になっている気がします」
「偉いよ、ルイス。飲んでいる姿も可愛らしいな」
「えぇ本当に。可愛いね、ルイス」
んく、んくんく、とルイスは小さな体の全身を使ってミルクを飲む。
哺乳瓶に手を添えたり、足を動かしては宙を蹴ったり、飲むのをやめたかと思えば驚いたように体をびくつかせてから哺乳を再開する。
文字通り全身を使って哺乳している様子は生きていることを感じさせて、生命力の強さを知らしめているようだ。
小柄なのに上手にミルクを飲む姿はとても可愛らしく、何よりその命を尊く思う。
今ここにいるのは生まれたばかりの弟で、今日は自分達が一からルイスを育てていく始まりの日なのだ。
「全部飲めたね、ルイス。偉い偉い」
「良い飲みっぷりだった。さすが私の弟だな」
段々と飲む勢いが緩やかになってきたと思えばミルクの残量は随分と少なくなっており、完全に口を動かさなくなったのと瓶が空になったのは同時だった。
開いていた瞳は閉じてしまい、満たされたのか気持ち良さそうにルイスは寝息を立てようとする。
それを遮るのは申し訳なく思うが、排気をさせないと後で吐いてしまっても大変だ。
「ルイス、げぇってするよ。ほら、とんとん」
ウィリアムがルイスを抱き上げ肩にその顔を乗せると、んん、とむずがるような声が出る。
ルイスがウィリアムの腕の中で収まりの良いところを探すように体が動くのを待ってから、ウィリアムは静かになったその背中をとんとんと撫でさすっていく。
小さな体に向けるその力加減は難しいけれど、元より10歳の体では思うように力が出せない。
想像より強めにさすっていってもルイスは気にせず呼吸しており、しばらくすると控えめな空気の塊がその口から出ていった。
「げっぷも上手!凄いね、ルイス」
「ウィル、ルイスをこちらによこしてくれるかい?私も抱っこしてあげたい」
「はい、兄さん」
自分を抱っこする人間がウィリアムからアルバートに変わったところで、ルイスは気にせず気持ち良さそうに目を閉じている。
温かいアルバートの腕の中で縮こまるように体を丸め、ちょうど触れていた胸元の衣服を握りしめてすやすやと寝息を立ててしまった。
お腹が満たされ、温かい体温に包まれ、安心と安全を保障された環境でルイスが眠ることの、なんと素晴らしい現実だろうか。
「…たくさん眠ると良い。おやすみ、ルイス」
衣服を掴まれてしまった以上は離してしまうとルイスの機嫌を損ねてしまう。
ルイスの安眠のためという名目の元、アルバートは己に縋るルイスを愛しく思いながらじっとその顔を見つめていた。
そのときのウィリアムはもうすぐルイスがお腹を空かせて起きる頃だと、張り切ってミルクを作っていた。
愛用の瓶を取り出し、ナニーが用意してくれたお湯を軽量しては、理想とされている濃度のミルクを調乳する。
作りたての熱いミルクを水で冷まして人肌になったことを確認する頃には、部屋からふにゃふにゃとか弱い鳴き声が聞こえてきた。
「お待たせルイス。ご飯の時間だよ」
ふにゃぁ、あぁぁあ、と段々大きくなっていく声に笑みを深めながら、ウィリアムはルイスを抱き上げてソファに座る。
そうして膝の上にルイスを乗せてから、今しがた用意したばかりのミルクを飲ませてあげた。
「たくさん飲んで早く大きくなるんだよ」
愛おしさを隠さないその表情は、幼いルイスにはまだ見えていないことだろう。
けれど自分を抱く存在の雰囲気が明るく好意的なことは伝わっているはずだ。
ルイスはウィリアムの腕の中、勢いよくミルクを飲んではその体温に遠慮なく身を預けていた。
んくんく、とウィリアムが作ったミルクを飲むルイスは、この家に帰ってきたときよりも飲む量が増えている。
その分だけルイスの体重は増えており、ふっくら肉付きが良くなったように見えるのはウィリアムの勘違いではない。
頬の丸みがより一層柔らかなものになっていて触れていると気持ちが良かった。
小柄なルイスにはもっとたくさん飲んでほしいし、早く大きくなってほしい。
そんなウィリアムの願いを理解しているのか、ルイスはとても上手にミルクを飲んでは順調に育っていた。
「もっと飲んでね、ルイス。もっとたくさん」
だから、ウィリアムもちょっとした欲が出たのだろう。
これくらいなら大丈夫という気持ちと、まだまだ小柄なルイスに早く大きくなってほしい気持ち。
その両方が作用した結果、ウィリアムの期待を背負ったルイスは順調に飲んでいたはずのミルクを盛大に吐いてしまった。
「えっ!ルイス、大丈夫かい!?ルイス、ルイス!」
うぇぇ、と不快な表情を見せたルイスは口から真っ白いミルクを吐いて息苦しそうに呼吸している。
それまでに飲んだミルクのおよそ半量を吐いてしまっただろう吐き戻しに驚いたけれど、ウィリアムは冷静さを取り戻しすぐさまルイスを抱え上げては排気を促す。
う"〜と唸るルイスの声を聞きながら、その心臓はドキドキと早くに脈打っていた。
「ルイス、大丈夫!?ルイス、ルイス」
けぷ、と大きなげっぷをしたルイスは気が落ち着いたように静かな呼吸を繰り返す。
その姿に少しだけ安心したけれど、まだウィリアムの心臓は不吉に高鳴っていた。
吐いてすっきりしたルイスは今にも眠りそうだが、ウィリアムの目にはぐったりと元気がなさそうにも見えてしまうのだ。
「ルイス、どうしよう、ルイス…!」
「ウィリアム、今の声は何だい?ルイスがどうかしたのかい?」
「ウィリアム様、どうされましたか?」
「に、兄さん、ナニー…!」
ウィリアムの声を聞いて慌てて駆けつけてくれたアルバートとナニーは、部屋の中でルイスを抱いて真っ青な顔をしているウィリアムを見て険しい表情をする。
見たところルイスはよく眠っているようだが、ウィリアムに何かあったのだろうか。
そんな二人を見て余計に不安が増したのか、腕の中のルイスを抱きしめながらウィリアムは悲しそうに声を出す。
「ル、ルイスが吐き戻してしまいました!きっと病気です、どうしようっ!」
「何だって?今までルイスが吐くことなんて滅多になかったのに」
「まぁまぁそれは大変。ウィリアム様、ばぁやにルイス坊っちゃまを見せてくださいまし」
「ナニー…」
おろおろとルイスを乳母に渡したウィリアムは、それでも弟から目を離さない。
ナニーがルイスの表情や体温を確認している最中もじっとその様子を見ていたウィリアムだが、すぐそばで同じようにルイスを見ていたアルバートがふと視線をずらすと、ミルクが残っている哺乳瓶を見つけてしまった。
おそらくはウィリアムがルイスに与えていたミルクの残りだろう。
だがそれにしては量が多すぎるのではないだろうか。
もしや授乳はこれからなのだろうかと訝しげに瓶を手に取り、アルバートは数秒の時間だけ頭を働かせる。
そしておろおろとルイスの病気を心配しては医者を手配しようとしているウィリアムの肩に手をやり、あくまでも冷静に状況把握するべく静かに問いかけた。
「ウィル、ルイスのためにいくつのミルクを用意したんだい?」
「え…、……150ml」
「150ml!?今のルイスはまだ100mlも飲めないじゃないか!」
今のルイスは体重と生後日数的に、一度に飲むミルクは80mlが妥当だ。
それをあっという間に飲んでしまう姿は見ていて気持ちが良いし、生き生きしているように見えてアルバートも好ましく思っている。
近頃は授乳後にも起きていることが増えたし、授乳間隔も短くなってきたのでそろそろ増やしても良い頃かと考えていたところだった。
そうだというのに、ウィリアムはいきなり100mlの壁を通り越して150mlという高みをルイスに与えていたらしい。
それは吐く。
懸命に飲んだところで胃の許容量を超えて吐いてしまう。
呆れたようにアルバートは額に手をやり、ナニーはルイスの胃を労うようにその腹を撫でる。
当のルイスは気持ち良さそうにすよすよと寝息を立てていた。
「最近たくさん飲んでくれるし、飲んだ後もぐずぐずすることが増えたので、少し増やしても良いかと思って…たくさん飲んだら早く大きくなってくれると思って、それで」
「ウィリアム…いきなり50mlも増やすのは少しではないよ。ルイスはまだ小さい赤ちゃんなんだから」
「ウィリアム様、ルイス坊っちゃまは病気ではありません。ただの飲み過ぎです」
「…ごめんなさい」
アルバートとナニーに諭され、ウィリアムは自分がしてしまったことの愚かさを思い知る。
ルイスの飲みっぷりが良いのでついつい欲が出てしまった。
だいすきな弟の存在は小さいよりも大きい方が良いし、だから早く大きくなってほしかったのだ。
たくさん飲めばその分だけ早く大きくなるという理論は間違いだと分かっているが、もしかすると正しい可能性もあるかもしれないという、ウィリアムらしくない愚かな思考の結果がルイスの吐き戻しである。
今ルイスが穏やかに眠っているのであれば病気などではなく、ただ飲み過ぎてしまっただけに過ぎない。
つまりは完全にウィリアムが悪かった。
「ごめんね、ルイス。僕が間違っていたばっかりに…」
「念のため一晩様子を見て、やっぱり吐き戻すことが多いようならお医者様に診てもらいましょうか」
「ありがとう、ナニー」
ナニーはルイスがただ眠っているだけということを確認した上でウィリアムにルイスを渡し、近くに落ちていた哺乳瓶を拾う。
続けて反省しているまだまだ小さな背中を軽く撫で、間違ってはいたけれど弟を思うあまりの暴走だったことを微笑ましく思った。
「ルイス坊っちゃまもウィリアム様のためにたくさん飲んであげたかったんでしょうね。お兄様想いの優しい子ですわ」
「…そう、かな」
「きっとそうさ。ウィリアムが用意してくれたミルクを、ルイスは残したくなかったんだろう」
自分の限界を知らずに吐いてしまったけれど、きっとルイスはウィリアムの気持ちを嬉しいと思っているはずだよ。
そう続けてくれたアルバートに励まされ、ウィリアムは腕の中にいるルイスを見る。
眠っていたはずのルイスの目がゆっくりと開き、赤い瞳が見えたかと思えば、あー、とふにゃふにゃした音が聞こえてきた。
それに何の意味があるのかは分からないが、一音だけ声を出したルイスはまたもすやすや寝息を立ててしまう。
まるでアルバートの言葉を肯定しているような反応に、ウィリアムの落ち込んでいた心は徐々に立ち直っていく。
ルイスがウィリアムのためにたくさんミルクを飲みたいと思ってくれたのなら嬉しいと思う。
ルイスがウィリアムのために早く大きくなりたいと思い頑張ってくれたのなら、とても嬉しいと思う。
そのせいで無理をさせてしまったのは反省すべきポイントだが、それは今後に活かしていけば良いのだ。
「ルイス、もう無茶させないからね。苦しい思いをさせてごめんね。今度は気をつけるから、ルイスのペースで大きくなろうね」
ウィリアムは腕の中の小さなルイスを抱きしめ、そのふくふくした頬にそっとキスを落とした。
両親どころかナニーも驚くほど、ウィリアムとアルバートは献身的にルイスを育て守っている。
ルイスのためにスクールを休学したいと言い出したときは父から怒られはしたが、ならばと放課後のクラブ活動とボランティア活動の休みを申請してまでルイスのそばにいるのだ。
行き過ぎた弟への愛情は微笑ましいという限度を超えているが、兄弟仲が良いに越したことはないだろうと、モリアーティ家の面々はウィリアムとアルバートの育児に対しては極力見守る姿勢を取っていた。
「ふ、あぁ〜ぷ、あ!」
「ふふ、歌っているの?上手だね、ルイス」
「あー、んむ」
「ルイスも声を出すことが増えたね。上手な発声だ」
すくすく成長したルイスは自分の手足で遊んだり声を出すことが多くなった。
起きている時間も長くなり、抱っこしているときの反応が豊かになったことはウィリアムもアルバートも喜ばせている。
今日もウィリアムの腕の中、ルイスは機嫌良さそうに手を伸ばして歌っていた。
伸ばした手の先にはアルバートがおり、その指を掴んでは一際高い声を出す。
「あ〜ぅ!ん、きゅ」
「可愛いな、ルイス。こちらにおいで」
小さな手で指を掴まれ可愛らしい顔で見つめられれば抵抗する気力も起きない。
アルバートはウィリアムからルイスの体を受け取り、重くなったけれどまだまだ軽い末っ子を思う存分抱きしめた。
求めていた存在の腕の中が嬉しいのか、ルイスは手足をバタバタさせて全身で喜びを表現している。
「元気だね、ルイス。随分力強いパンチとキックをするようになった。強いな、さすがルイスだ」
「あぅ〜あ、あ!」
「ミルクを飲んだばかりだから機嫌が良いんでしょうね。何をして遊びましょうか」
「そうだな…手遊びはまだ早いだろうし、それこそ歌でも歌うか絵本でも読むのが良いだろうか。ルイスは何して遊びたい?」
「あ〜…ぁ、ぅむ…ん」
「おや」
アルバートに抱っこされて機嫌よく体を揺すっていたルイスだが、しばらく抱っこされていただけで大きな瞳がだんだんと閉じられてしまった。
とろんとしているルイスは見るからに眠たそうで、せっかく一緒に遊ぼうと考えていたアルバートは少しだけ残念に思う。
けれど眠たいところを起こすのは忍びなくて、よく眠れるよう腕の中のルイスを軽く揺すってあげた。
合わせて子守唄を歌ってあげれば小さな唇の端が僅かに上がり、嬉しそうに頬が緩む。
その歌声と安定感のある無重力状態が心地良かったのか、ルイスはその赤い瞳を完全に瞼の奥へと隠してしまった。
「…眠ってしまったね。残念だ」
「この時間のルイスは起きていることが多いのに珍しいですね」
「お腹がいっぱいで眠たかったんだろう。たくさん眠るのは良いことだから、ルイスと遊ぶのはもう少し後にしようか」
「そうですね」
あっという間に寝息を立ててしまったルイスを布団に戻すではなく、アルバートはそのまま抱っこした状態でソファに座る。
ウィリアムもその隣に腰を下ろし、幼い寝顔を見つめていた。
「…そういえば、兄さんが抱っこするとルイスはよく眠りますね」
「そうかい?」
「気のせいかもしれませんが、元気に起きていても兄さんが抱っこするとすぐ寝ているように思います」
「へぇ…?」
「きっと兄さんの腕の中が心地良いんでしょうね。安心できる人なんでしょう」
ねぇルイス、とまぁるい頬をくすぐったウィリアムは、信頼する兄の腕の中で無防備に眠っている弟に安堵する。
赤ん坊は眠るのが仕事とはいえ、こんなにも健やかに眠るルイスは今世が初めてだ。
古い記憶の中にいる幼いルイスはお腹を空かせて泣き疲れた状態でやっと寝落ちてしまうような、不健康な睡眠を摂ることが多かったのだから。
お腹が満たされ温かい環境で信頼できる人の腕で眠るルイスは、ウィリアムにとって幸せの象徴のようだ。
ウィリアムは、くふん、とため息のような声を漏らしたルイスに笑みを深め、アルバートに対しても安心しきった笑顔を見せる。
一方のアルバートはウィリアムの言葉を反芻し、確かに眠っているルイスを抱っこすることが多いなと、しばらく前から今にかけてを振り返っていた。
それからというもの、ルイスの機嫌が良くても悪くても何故かアルバートが抱っこするとすぐさま眠ってしまうことが増えた。
増えたというよりも、アルバートが抱っこするとほぼ間違いなくルイスは寝てしまう。
意味も分からず延々と泣き出すルイスにウィリアムは「元気いっぱいだねルイス」と喜んだけれど、父も母もナニーもほとほと困り果てていたというのに、そこにアルバートがやってきて抱っこするとすぐさまルイスは泣き止み穏やかに寝入るのだ。
一体どういうことだと、アルバートは腕の中で天使のような寝顔を見せるルイスを見下ろしては肩を震わせる。
「ほう、やるなアルバート。ルイスは随分お前に懐いているようだ」
「凄いわアルバート。もう一時間も泣き続けていてどうしようかと思っていたのに」
「さすがですアルバート様。泣くのは肺を鍛えるためにも体力をつけるためにも必要なことですが、苦しそうに泣いているのはさすがにルイス坊っちゃまが可哀想でしたから」
両親とナニーからそう賞賛されたところで、アルバートにしてみれば元気に泣くルイスの姿を見たいのだ。
ウィリアムが言っていたように、泣くことが出来るほど元気いっぱいというのならば是非ともその様子を目に焼き付けたかった。
そうだというのにどんなに泣き喚いて全力で何かを拒否したルイスを手渡されても、アルバートが声をかけて抱っこしているとものの数分でルイスは泣き止んでしまうのだ。
今日も今日とて、ウィリアムの腕の中で大泣きしていたルイスを確認して抱っこしたというのに。
「わぁルイス、兄さんに抱っこされたかったのかい?良かったね、兄さんに抱っこしてもらえて安心したんだ」
「…先ほどまでルイスはよく泣いていたはずだが」
「え?えぇ、大泣きでしたよ。飲み物を取りに行こうと布団に寝かせていたのですが、戻ってきたら大泣きしていたので。抱っこしていたら幾分か泣き止みましたけど…やっぱり兄さんの抱っこだとルイスはすぐに落ち着きますね」
「…そう、か」
すぴすぴと暢気な音が聞こえてきそうなほど、アルバートに抱かれたルイスは朗らかに眠っている。
その目元は赤く染まり、うっすら水分を含んでいるのだから泣いていたのは間違いない。
アルバートもルイスが大泣きしている声を聞き、抱っこした直後は確かに泣いている姿を目にしたのだから。
そこから数分でこの状態になってしまったのだから現実感がないけれど、確かにルイスはつい先ほどまで大泣きしていた。
「…何故ルイスは私の前で泣いてくれないんだろうか」
「泣いてほしいんですか?」
「私も元気いっぱいに泣くルイスが見たい。癇癪を起こして暴れるルイスを落ち着かせたい」
「…変わった願望ですね。気持ちは分かりますが」
アルバートは眠るルイスの顔を見下ろしたまま、真面目そのものという表情を乗せて声を出す。
そうしてウィリアムを見ては、どうしてルイスは私に抱っこされるとすぐに泣き止むのか、という疑問を投げかけた。
それが分かれば自分はエスパーだ。
ウィリアムはそう考えたけれど口には出さず、どうしてアルバートに抱っこされるとルイスが泣き止むのかを考える。
落ち着く、というのは確かだろう。
自分よりも体の大きなアルバートに抱っこされるのは安心感のあるだろうし、変声期を迎えて少しばかり低くなった落ち着きのある声もきっと耳に心地良い。
そう考えた結果、一つの可能性に思い当たった。
「もしかすると、お腹の中にいたときにアルバート兄さんが絵本の読み聞かせをしたせいかもしれませんね」
「何?どういうことだい?」
「胎児だった頃に聞いた兄さんの読み聞かせがルイスにとって心地良いから、その名残りで眠くなっているのかもしれません」
「何だと?まさかそんなことが…」
「兄さん、毎日色々な絵本を読んであげていたでしょう?僕はその日あった出来事を教えていただけですけど、兄さんの読み聞かせは安心感があって眠くなります。僕も何度かうとうとしてしまいましたし」
「…そうだったのか」
確かに母のお腹に向かって絵本を読んでいた頃、隣にいたウィリアムが目を擦る姿を何度も見ていた。
てっきり子どもの体だから早くに眠たくなるのだろうと考えていたというのに、実はそうではなかったらしい。
つまりアルバートの声はルイスにとってもウィリアムにとっても眠気を誘うものだと、ウィリアムはそう言いたいのだ。
「…起きているルイスと遊びたい。どうしたら起きるだろうか」
「お腹が空いたら起きるんじゃないですかね?あとはお布団に寝かせてみるとか」
「待てない。今すぐルイスに起きてほしい。ルイス、起きなさいルイス、ルイス」
「あ、兄さん」
小さな肩を揺すった後でもちもちした頬を揉むようにつねる。
アルバートはよく眠っているルイスを起こそうとするが、ん"〜、と唸り声をあげて小さな眉間に皺を寄せただけで終わってしまう。
それでもめげずに起こそうと四苦八苦すれば、ルイスは嫌そうにその赤い瞳にアルバートを映し出す。
赤い瞳と視線があった緑の瞳のアルバートは嬉しそうに笑みを浮かべ、ルイス、とその名前を呼びかけた。
けれどルイスはそんなアルバートに構うことなく、頬を膨らませては不満を目一杯にアピールして見せる。
「ん、や。や!」
「え」
「ぶー」
「ルイス?おいルイス」
ぷい、とアルバートの胸元に顔を埋めたルイスはまたもすよすよと寝息を立て始めた。
その姿に安堵すれば良いのか絶望すれば良いのか分からないまま、もう一度ルイスを起こそうとしたアルバートの肩をウィリアムがポンと叩く。
「アルバート兄さん、せっかくルイスが眠っているんですから起こさないでください」
「……だが、ウィル」
「ルイスはまだ赤ちゃんです。眠るのも成長に大切なんです」
「…………分かった」
アルバートの気持ちを理解した上で、それでもルイスを優先したウィリアムは起こそうとしていたその手を止める。
実際にルイスは起きたがっていなかったし、アルバートの腕の中で眠ることを選んでいるのだからそれが正解なのだ。
気持ち良く眠っているところを起こしてまでルイスと遊びたがるアルバートは悪でしかない。
気持ちは分かるが、アルバートよりもルイスが優先なのは兄達にとって暗黙の了解なのだ。
「…ルイス、早く起きてくれ」
小さく丸くなって眠るルイスはとても可愛い。
眠っていても可愛いのだから起きてその綺麗な瞳を露わに笑う姿など、それこそ天使でしかない。
そうだというのにアルバートはその姿をろくに堪能できないまま、すくすくルイスは成長してしまうのだった。
(アルバートもウィリアムも本当にルイスが大好きねぇ。大きくなったらルイスに嫌がられるんじゃないかしら?)
(大丈夫ですよ、奥様。ルイス坊っちゃまもお二人のことが大好きですから、困ることはないでしょう)
(そうかしら?年の離れた過保護なお兄さんを鬱陶しがる弟なんて定番だと思うけれど)
(あの御三方ならきっと問題ないでしょう。この先もずっと仲睦まじい三兄弟ですよ)
(そうだと良いけど…アルバートとウィリアム、弟離れ出来るかしら?ルイスに彼女が出来たら絶対に許さなそうじゃない?我が子ながら裏から手を回して潰してそうだわ)
(それは…否定できませんね)
(あらやだ。否定してよ、ばぁや)
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