ここからまた、築いていけば良い
三年後の三兄弟が、もう一度始まりの写真を撮るお話。
おでこ氏は眼帯と長髪を引っ張っていくだけの器があるのに、どうしようもなく末っ子だなぁと思う。
モリアーティ家にはアルバムがあった。
当主たるアルバートの部屋に置かれた一冊のアルバムは、けれどアルバートだけのものではない。
そこが最も保管場所に適しているだろうという弟達の提案により置かれているだけで、実際はアルバートとウィリアムとルイスのものである。
年に一度、彼らが本当の家族になったその日に行われる家族写真の撮影。
初めて撮影した日から数えても十二枚だけしかない写真が納められたアルバムは、彼らにとって目に見える絆の証だった。
「ルイス、何を見ているんだい?」
「兄さん」
アルバートの部屋を掃除していたところ目に入ったベルベット生地のアルバムは、ルイスがこまめに手入れしているおかげで毛羽立っている様子もない。
多少色褪せてはいるものの、重厚感あるブラックの色調変化は今までの歴史を感じさせるから、むしろ気に入っているくらいだ。
褪せた分だけ想いが強くなっているのだと、この色合いこそが自分達に乗り移っているのだとルイスは信じている。
無性に惹きつけられたそのアルバムを手にリビングでぼんやり眺めていると、片手にカップを持ったウィリアムがルイスの元へやってきた。
「すみません、紅茶のお代わりですね。すぐに用意します」
「いや大丈夫だよ。それより、君が見ているのはアルバムかい?」
「えぇ。少し懐かしくなってしまいました」
「そう」
ルイスが見ていたのは初めて三人で撮った家族写真だった。
モノクロームのそれは画質が荒くぼやけているが、それぞれの表情を確認するのに戸惑うことはない。
アルバートの表情は貴族さながら隙がなく、ウィリアムの表情は柔らかく穏やかなのに、ルイスの表情だけが強張っているように口元が強く引き結ばれている。
大きな瞳も睨みつけるように鋭くなっていて、いかにも緊張していると伝わってくるのが懐かしかった。
「このときのルイス、撮る前までは楽しみにしていたのに、結局最後まで表情が硬かったね」
「…カメラの前で表情を作ることに慣れなかっただけですよ」
「ふふ。でもその次の年もまだ表情が硬いよね。三回目にもなると、さすがに普段通り余所行きのルイスになったけど」
ルイスの隣に座り込み、ウィリアムはその手元を覗き込むようにアルバムのページを捲っていく。
見えた写真は変わらずモノクロな三人だけれど、幼かったウィリアムとルイスは少しだけ成長しており、アルバートはぐっと青年へと近付いていた。
その中でもルイスの表情だけはやっぱり硬くて、伸ばされた前髪と合わせてどこか近付き難い雰囲気が漂っている。
だが三枚目の写真にもなるとやっと慣れてきたようで、ようやくいつも通りに近いルイスがそこにいた。
敢えて表情を取り繕おうとしていた一枚目と二枚目とは違い、三枚目のそれは既にルイスの中でパターン化された表情を自然に乗せているように思う。
おそらく、この頃になってようやくルイスは自分の中で折り合いが付いたに違いない。
ウィリアムは敢えて「余所行き」と評したルイスの顔を、写真の上から撫でるように指を動かしていった。
「僕は今のルイスの表情を写真に収めたいと思っていたんだけど、いつになったらそれは叶うんだろうね?」
「…心掛けているつもりなのですが」
「あはは、無理はしなくて良いんだよ」
そこから先のページを捲ってもルイスの表情は変わらず余所行き用の澄まし顔で、少年から青年へと変化していく様が見ていて感慨深かった。
「ほう、アルバムを見ていたのかい」
夜になって外出していたアルバートが帰宅してからも、ウィリアムとルイスはそのアルバムを定位置には戻さずリビングの机の上に置いていた。
そうして団欒をする中でアルバートがそれに気付いてからは、三人並んでモノクロの写真達を覗き見ている。
「確かに懐かしいね。一番新しいこの写真も、もう半年前のことか」
アルバートは膝に乗せたアルバムのページを一枚一枚捲っていき、段々と成長していく自分を含めた家族の姿に歴史を感じて思わず微笑んだ。
一番真新しい写真に映るのは椅子に座ったアルバートのそばに弟達が佇む姿である。
微笑んでいるアルバートとウィリアム、そして澄ました顔を見せてカメラのレンズを見つめているルイス。
三者三様の表情の違いはそれぞれの性質をそのまま表しているのに、本質は全く同じところにあるのが面白い。
せっかくの家族写真だというのに三人のうちの誰一人として心からの表情を見せていないのは、生来持つ性分が原因なのだろう。
「ある意味で私達らしい表情だな」
「そうですね」
「そうでしょうか」
アルバートの評価に右隣のウィリアムは同意し、左隣のルイスは疑問を浮かべる。
本心を見せないことが生活の一部になってしまっているけれど、ルイスにしてみれば写真に映る二人の表情は自分にとってあまり見慣れないものだ。
他人に見せる表情はこれで良いのだろうが、自分達らしいと言われてしまうと違和感を覚えてしまう。
「兄さんも兄様も、もっと柔らかいお顔を見せてくれるのに」
ルイスが今年撮ったばかりの写真とすぐ隣にいる彼らの顔を見比べてみても、偽りだらけの表情が乗る写真はどうにも心に引っかかる。
秘密主義のモリアーティとしては正しいのだろうが、「らしい」と称するのは間違っているのではないだろうか。
そんな気持ちのままルイスは眉間に皺を寄せ、軽く唸りながらまじまじ写真を覗き込んだ。
「でもルイス、この中で一番ギャップが激しいのは君だろう?普段の君と写真の君はまるで違って見える」
「それは僕がカメラに慣れていないからです。兄さんと兄様は慣れているのですから、もう少し普段通りの表情で写っても良いのでは?」
「こうしてアルバムに飾るためだけの写真とはいえ、他人を前に気を緩ませるわけにもいかないな」
「…そう、ですけれど」
初めて家族写真を撮ったときからずっと、モリアーティ家専属の写真家はたった一人しかいない。
プロらしく物珍しいはずの写真機の扱いに長けていており、初老を迎えた彼はまるで兄弟の成長を見守るように心根が穏やかな人である。
けれど心を許すことなどあり得ないのだから、他人行儀な顔付きになるのはどうしようもないのだろう。
それはどこか勿体無いとルイスは思う。
いつか自分含め、ウィリアムもアルバートも飾らない表情のまま写真を撮れる日が来れば良いのに。
己の末路などとうに決まっている身の上からすればとても贅沢な、分不相応な願いを口にすることは憚られて、ルイスはまるで兄に言いくるめられたように口を閉ざしてしまう。
そんなルイスを気にすることなく、二人はアルバムの写真を順に過去へと遡っていった。
その半年後、三兄弟は予定通り十三枚目の家族写真を撮る。
けれどそれを収めたアルバムは、この世に一欠片の灰すら残さず焼けていった。
彼らが懸命に築いてきた関係の証たるそれがなくなってしまったことは、三人のうちの誰の心にもわだかまりを抱かせている。
けれど、惜しく思う感情を口に出す権利など自分達にはないのだということも知っている。
最後の写真はどんな出来だっただろうか。
届いた一枚を三人でひとしきりに楽しんだ後、すぐに様々な事案で離れてしまったことだけは覚えている。
それでも朧げな記憶の中では、三人のうち誰もが今まで通りの笑みや澄まし顔が写っていたように思う。
過去の延長のまま、兄弟は最後の一枚を撮った。
そうだとすると、何も残ることなく燃えてしまったのはいっそ都合が良かったのだろう。
「アルバート兄さん、ウィリアム兄さん。少しお時間を取れますか?」
ルイスは作業に徹している兄達へ休憩を兼ねて声をかけ、頷いてくれたことをきっかけに二人をリビングへと案内する。
そこには今、誰もいない。
机の上に仰々しい機械が置かれているだけで、普段ならば身内の一人や二人のどかな時間を過ごしているのに珍しいことだと、ウィリアムとアルバートは軽く目を見開いた。
「他の皆には席を外していただいています」
「へぇ…?机の上にあるのはヘルダーの新しい発明品かい?」
「はい。僕が彼に依頼した写真機です」
「写真機?何故またそんなものを…」
入り口で足を止める二人を置いて、ルイスは足を止めることなく部屋の中へと入っていく。
そうして手に取ったセピア調の写真機を手に振り返り、自分の意図を探っているだろう二人に彼ら譲りの笑みを見せた。
「お二人とも、これを使って写真を撮りましょう」
「…写真、を?」
「はい」
三人でまた、写真を撮っていきましょう。
そう続けたルイスは窓の光を背に受けており、どこか神々しさすら感じられて、兄達にしてみればどうにも心苦しかった。
ずっと長い間一人きりにしていたというのに、ひたすら前を向いて正しく罪を償おうと足掻いていた末弟は、ウィリアムとアルバートが持つ唯一の光と言って良い。
ウィリアムが迷っていた間、アルバートが思い悩んでいた間、ルイスはたった一人でも歩き続けていたのだ。
何が正解かも分からず立ち止まっていた二人とは違って、ルイスは分からないなりに先へ進んで二人のことを待っていた。
ルイスの意思とは無関係なまま、同志の中において最も巻き込まれただけの存在だというのに、それでもルイスは己を奮い立たせて罪を償うべく英国という世界を守っている。
そんな弟が見せる明るい姿は己の愚かさを思い知らされるようで、ウィリアムにもアルバートにも心苦しく見えていた。
「ヘルダーに頼んで、シャッターを押した十秒後に撮影できるよう設計されています。これなら写真家の人間に頼まずとも写真が撮れますし、今度こそ僕達らしい写真が撮れるはずです」
「…だが」
「兄さん」
「ルイス…」
「前を向いて生きるということは、俯いて生きることと同義ではありません。罪人である僕が言っても説得力はないかもしれませんが、それでも僕は、こうしてまた三人揃ったことを何より尊く思っています」
「…私も同意だ、ルイス」
「僕達が許される日なんて、きっとこの先も一生来ることはありません。死ぬその瞬間まで、犯した罪にどう報いるのかを考えていかなければならない。僕もウィリアム兄さんもアルバート兄さんも、そうでなければ奪った命に対して申し訳が立つはずもない」
「……ルイスの言う通りだね。僕達に憩いの時間なんてあって良いはずがない」
「いいえ、違います」
「え?」
淡々と己の考えを述べるルイスの主張は至極真っ当で、そうであるべきだと、そうでなければならないと納得せざるを得ない説得力だった。
奪って良い命などないはずなのに、一方的に奪ったのは自分達なのだから。
だが、賛同するウィリアムの言葉をルイスは否定する。
笑んでいた表情をまた引き締めて、真っ直ぐに兄を見上げるその顔はかつてのルイスらしくはないけれど、今のルイスらしいのだろう。
「償うことに心を痛めて苦しく思うのならともかく、苦しくなるために生きているのではありません。前を向いて生きるとはそういう意味じゃない」
「でも」
「ウィリアム兄さん、僕は思い出作りをしていた過去を続けようとしているわけではないんです。ここからまた三人で始めていきたいからこそ、新しい一枚を撮りたいと思っています」
「始める、だと…?」
「はい」
ルイスは抱えていたカメラを用意していた三脚に乗せ、いつまでも扉の近くで佇んでいるウィリアムとアルバートの腕を引いてレンズの前へと連れてくる。
兄達の戸惑ったような表情は想定内だ。
自分に対してどこか余所余所しい兄達の様子に気付かないほどルイスは鈍くないし、その理由が後ろめたさにあるのだろうということもよくよく理解している。
ルイスが前に進むことが出来た理由など、彼らという存在がルイスへひたすらに勇気をくれたからに違いないというのに、それを二人は理解していなかった。
いかにルイスがウィリアムを愛し、アルバートを敬い、二人を大切に想っているかを知らないままなのだ。
「僕達の過去は決して消えません。間違いを承知で進んでいたのに、結局こうして生き延びている。償う時間が存在している。ならば僕は、これからの未来を、貴方達と正しく生きていきたいんです」
ルイスの腕がウィリアムとアルバートの体を抱きしめる。
以前よりも体格が良くなったとはいえ二人を抱きしめるには腕の長さが足りなくて、その背に手を添えるだけになってしまったけれど、気持ちは伝わっているだろう。
一人で寂しかった。
また三人一緒にいたかった。
ウィリアムと、アルバートと生きていたかった。
決して罪を疎かにするわけではないけれど、自分達が償うべきものは誰か一人だけが懸命になっても意味はないのだ。
「これから先の僕達を築いていくために、始まりの一枚を撮りましょう」
犯罪卿モリアーティが始まったあの日を心に留めておくため、習慣化した年に一度の家族写真。
それを今度は正しく生きていくためのきっかけにしたいのだと、兄弟の中で最も年若く直向きな彼が思いを告げた。
「…強くなったな、ルイス」
「いつまでも守られてばかりの僕ではありませんから。もうお二人のことも守れますよ」
「そして何より、美しくなった」
「…そこは格好良いと表現してほしいのですが」
「いや、綺麗だよルイス」
その精神がとても気高く美しいと、ウィリアムはルイスの背を抱き返しては小さく囁いた。
アルバートも同意するようにルイスの髪へ頬を寄せる。
苦笑したルイスの気配を察した二人は望んでいるだろう二つの言葉を届けるべく、どちらから先に口を開くべきかを視線だけで相談した。
結果、ウィリアムが格好良いねと優しく伝え、アルバートが早速撮ろうと行動を起こす。
そうして撮られた写真は板についた微笑みでもなければ余所行き用の澄まし顔でもない、離れ離れの期間を経てようやく手に入った、彼ららしい表情を乗せた一枚だった。
(へぇ、すぐに現像した写真が出てくるんだ)
(ヘルダーの技術も流石だな。素直に尊敬できる)
(アルバート兄さん、その言葉をヘルダーの前で言ってはいけませんよ。うるさ…いえ、少々賑やかになってしまうので)
(分かっているさ。…ほう、ルイスもウィリアムも良い表情をしている)
(そうですね。ルイスの表情も兄さんの表情もとても柔らかい。昔から変わらない二人の顔です)
(…ずっとこんな写真が欲しかったんです。僕だけが知っているお二人の顔をこうして残したかった。叶うとは思わなかったのに、まさかこんな形で叶うなんて)
(ルイス…)
(また、来年の今日という日に撮影しよう。一つ一つ築いた証を残していこう)
(…はい!)
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