末っ子、歩いた!


転生現パロ年の差三兄弟、兄さん兄様に育てられるべびルくんが初めて歩くお話!
ルイスを溺愛するあまりポンコツになる兄さん兄様、らぶ。

明るい日差しが入り込む柔らかな光に満ちた一室。
モリアーティ家で特別に温かなその部屋は、しばらく前から末の息子の部屋として使用されている。

「ほらルイス、あーん」
「あー…」

ルイスの部屋、というよりもその兄であるウィリアムとアルバートとの三人部屋、と言っていいほどに兄達はそこへ入り浸っている。
休日の今日は一日ルイスを構えると彼らは上機嫌だし、ルイスもとても嬉しそうだ。
アルバートは背の低いソファに座りつつルイスを膝の上に乗せており、その隣ではウィリアムが丸い形をしたクッキーを指に取っている。
次年度からはセカンダリースクールに通うウィリアムの指と比べても小さなクッキーは、ルイスが最近気に入っているお菓子だ。

「ん!…んむ?あー…?」

お気に入りのそれを食べさせてくれるのだとルイスは口を開けて頬張ろうとしたのに、口の中には何も残らなければ美味しい甘さも感じられない。
一応もぐもぐと口を動かしてみたけれど、やっぱり何の味もしなかった。
不思議に思ったルイスが顔を上げてウィリアムを見てみると、だいすきな兄は笑いを堪えた様子で自分を見ている。
震える肩をますます不思議に思っていると、その指には先ほどまで自分の口元に寄せてくれていたクッキーがあった。
あ、とルイスがもう一度まぁるく口を開けて声を出せば、クッキーはルイスではなくウィリアムの口に入ってしまう。
もぐもぐと口を動かすウィリアムを見てようやく状況を察したのか、ルイスはショックを受けたように肩を跳ねさせた。

「ぇ、…」
「ふっ…ふ、ふふ…あはは」
「あー!」

自分に食べさせてくれるはずだったクッキーを、ウィリアムは自分で食べてしまったのだ。
時間をかけてそう認識したルイスは抱いてくれているアルバートの腕の中、小さな手をパタパタと動かして「ひどいずるい」と主張する。

「にぃに、めっ!め、なのー!」
「ふ、っ…ごめんごめん」
「めー!」

意地悪をしたウィリアムに向けて頬を膨らませ、幼い語句で怒っているルイスには迫力もなければ威圧感もない。
癇癪を起こした子どもに感じるだろう焦りすらも覚えなくて、ウィリアムはただひたすらにクッキーを食べられずに怒っているルイスを愛しく見つめていた。
口の中に残るミルク感の強い甘さがどこか懐かしい。

「むー…にぃ、にぃ」
「ん?何だい、ルイス」
「にぃに、め、したの!くっき、たべたの!め、なの!」

どうやらルイスはクスクス笑っているウィリアムに不満をぶつけることを諦め、アルバートを味方に付けようと考えたらしい。
何を言ってもウィリアムはにこにこするのだろうし、それではルイスの気が済まないのだ。
これはもうアルバートからウィリアムを叱ってもらわなければと、まだまだ幼いはずのルイスは的確に状況判断した上で行動を起こしていた。
さすがウィリアムとアルバートの弟、何とも賢い子である。
そんなルイスの意図を汲んだのか、アルバートはぷりぷりと怒っているルイスのマシュマロのように膨らんだ頬を揉む。

「あぁそうだね、ひどいウィリアムだ」
「そなの、ひどいの」
「こらウィリアム。ルイスに意地悪をしてはいけないよ」

アルバートが自分の味方をしてくれたことに満足げなルイスは膨らませていた頬を元に戻し、怒られているウィリアムへと視線を戻す。
これできっとウィリアムは意地悪をやめて、クッキーを分けてくれるはずだ。

「すみません、兄さん。ルイスが可愛くてつい。ごめんね、ルイス」
「ぅん…」
「はい、仲直りのクッキーだよ。あーん」
「…あー…ん」

今度は本当に意地悪しないだろうかと訝しげになりながらも、ルイスは素直に口を開けてクッキーを待つ。
そうすると、今度はちゃんと期待していた甘さが口の中に広がった。
もぐもぐと舌を動かし柔らかい甘さを堪能していると、頬が蕩けて落ちてしまいそうだ。
思わず両方の頬に小さな手を当てて美味しさを表現すれば、後ろから抱いているアルバートの腕の力が強くなった。

「んふふ」
「ルイス、クッキー美味しい?」
「おーちぃ!」
「美味しいのかい、良かったね」
「あぃ!」

こくりと飲み込んでから返事をすれば、目の前のウィリアムはにっこり笑っており、後ろのアルバートからは髪を撫でられた。
温かい兄に抱かれ、だいすきな兄の顔を見て、お気に入りのお菓子を堪能する。
これを求めていたのだと、ルイスは怒っていたはずの顔に甘い笑顔を乗せた。

「あーもう、可愛いなぁ…ねぇルイス、もう一つ食べようか」
「ん!あー、ぅ、んむんぐ」
「そう、上手上手」

次から次に差し出される小さなクッキーを食べるルイスと、美味しそうに頬を膨らませる弟を見て満たされたように笑うウィリアム。
仲の良い弟達を浴びたアルバートは心が潤っていくのを感じていた。
ルイス可愛さに意地悪してしまったウィリアムも、意地悪されてぷりぷりと怒っていたはずなのにあっさり絆されるルイスも、二人の兄であるアルバートから見ればどちらも可愛いだけの存在なのだ。
アルバートはしばらく健康に良い光景を楽しく眺めていたけれど、ウィリアムが二つめのクッキーの袋を開けようとしていることに気付いた瞬間、ハッと意識を取り戻す。

「ウィル、これ以上はいけないよ」
「え…」
「め、なの…?」

アルバートがウィリアムの手からクッキーの袋を取り上げると、ウィリアムからもルイスからも悲しそうな声が出る。
ウィリアムの顔には「クッキーをあげたい」、ルイスの顔には「クッキーを食べたい」という願望がありありと浮かんでいた。
可愛い弟達の悲しそうな表情にアルバートの心も揺れ動くけれど、ここで折れてしまっては二人の長男などやっていられない。

「駄目だ。これ以上食べてしまうと、ルイスが夕飯を食べられなくなるだろう」
「でも、ルイスはまだクッキーを欲しがってます」
「ウィル、この前もルイスにおやつを食べさせすぎて夕飯を残してしまったじゃないか。お菓子では十分な栄養は確保できないと知っているだろう」
「それは…」
「にぃ…ルイ、くっきたべたい…」
「ルイス、クッキーはまた明日食べよう。今日はこれでおしまいだよ」
「ぅ〜…」
「……おしまい、だ」

過酷な人生を歩んだ以前と違って、幼いルイスに欲しいだけの食べ物を与えられる今の立場が貴重なのだろう。
今のウィリアムはルイスが求めるだけ、時には求めていないのに過剰に食べ物を与えようとする悪癖があった。
たくさん食べさせて早く大きくなってほしいのだという言い分は本心なのだろうが、その根幹には前世での後悔があるのだとアルバートは察している。
しかし、ウィリアムの思うままに行動させると大抵困ったことになるのも事実なのだ。
ウィリアムの想いとその想いに応えようとするルイスだけれど、悲しいことにルイスの体はその想いに付いていけない。
端的に言えば、ウィリアムが思うままルイスに食べさせると、その後で必ずルイスは吐き戻す。
数日前もウィリアムがルイス可愛さにりんごジュースをたくさん飲ませていたら、お腹が苦しくなったルイスは不機嫌そうに唸った挙句に夕飯をほぼ食べずに眠ってしまった。
他にもある前科を引き合いに出せばウィリアムは視線を逸らし、ルイスはしょんぼりと瞳を曇らせてしまう。
哀れみを誘う可愛らしい姿を見たアルバートは息を詰まらせ、つい口から許しの言葉が出そうになるのを必死に抑えた。
自分はウィリアムとルイスの兄として二人を守る立場にあるのだと、アルバートは心の中で己に言い聞かせる。

「め、なの…?」
「…駄目だよ、ルイス。めっ、だ」
「一つだけ、あと一つだけ食べさせてあげるのも駄目ですか?」
「辛抱だよ、ウィリアム。今は良くとも、後でルイスが困ってしまうだろう?」

大きさの違いはあれど、よく似た瞳が四つもアルバートに向けられている。
これに耐えてこその長男だと、アルバートは深く息をして拠り所とするようにルイスの体を抱きしめた。

「あらあら。アルバートが落ちるのも時間の問題ね」
「奥様。ドクターとのお話は終わったのですか?」
「えぇ。それよりばぁや、アルバートが二人に絆されたときはちゃんとウィリアムを止めるのよ」
「勿論、心得ておりますよ」

おやつの時間を過ごしている兄弟の元にやってきたのは三人の母親である。
目付け役として部屋の中にいたナニーはいち早く主の元へと近寄り、呆れた顔をする彼女に頭を下げた。
もう既に限界ギリギリのアルバートだ。
何かのきっかけひとつであっという間に絆されて、すぐにウィリアムの行動を止められなくなるだろう。
ルイスも今後はますます甘え方を学んで、アルバートの心を揺さぶるようになるはずだ。
だが子を育てる親はそれではいけないのだと、母はもはやアルバートのことを息子ではなくルイスを育てる同類として認識していた。
昔から子どもらしくない子だと思っていたが、こうして弟達を律する姿はとても彼らしいように思う。
きっと今がアルバート本来の姿なのだと思うと親としては安心したような、それでいて寂しいような心地がする。

「奥様?」
「あ、何でもないの。ただ、ドクターの話で少し気になることがあったのよ」
「気になること?まさか、ルイス坊っちゃまに何か…!?」
「うーん…」

母は先ほどまでルイスの定期検診を終えた主治医から診察の結果を聞いていた。
ルイスは生まれたときから、少しだけ心臓の機能が良くないと言われている。
病気、しかも心臓についての疾患など兄に背負わせることではないと、ルイスを溺愛するアルバートにもウィリアムにも知らせたことはない。
成長とともに良くなる可能性が高いために経過観察中であることを知っているのは両親と、そしてこのナニーだけである。
もしやルイスの心臓によくない兆候があるのだろうかと、ナニーは青褪めた顔で母へと詰め寄るけれど、彼女はそうではないと首を振りながらも冴えない表情をしていた。
そうしてゆっくりと息子達の元へと向かい、ソファに座っているアルバートの前にしゃがみ込む。

「まぁま?」
「ルイス」

顔を上げて目に入るのはアルバートに抱かれているルイスの顔だ。
真っ白い頬に残る痛々しい痣は生まれついてのもので、親ながら申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
けれどルイスの誕生を心待ちにしていたアルバートもウィリアムも、一言もルイスの痣について言及しなかった。
それどころか愛おしそうにそこを撫でては、だいすきだよ、と優しく愛を囁くのだ。
いつも構ってくれる二人の兄が慈しんでくれるせいか、ようやく自分の顔を認識しただろうルイスも気にする様子がない。
この痣含めてルイスなのだと、むしろ申し訳なく思う自分こそがおかしいのだと、母はそんな気持ちすら抱いてしまった。
その痣ごと頬に触れてみれば、ふにふに柔らかい赤ん坊特有の感触がする。

「…ルイス」
「あぅ?」

頬をくすぐった後に首を傾げるルイスの両手に触れ、小さいけれどちゃんとぎゅうと握りしめてくる様子に安心した。
そうして足を見るけれど、柔らかそうな足がはいはい出来るほどに力強いことも知っている。
だから何の心配もいらないのだと思いたい。
けれど、改めて主治医から明言されてしまうと気になってしまうのも事実なのだ。

「アルバート、ウィリアム」
「何でしょう、母さん」
「…ルイスね、もう歩き出しても良い頃なのよ。でも歩かないでしょう?そろそろ発育とか発達とか、その辺りが気になるんですって」
「お医者様がそう言っていたのですか?」
「えぇ」

母はルイスの両手を握り、軽く上下に揺さぶっては遊ぶように構っている。
柔らかな笑い声をあげているルイスに、母と兄達の会話を気にする様子はなかった。

「足の筋肉が弱いとか、骨に異常があるとか、そういう機能的な問題はないみたい。勿論、今の時期に歩かなくても問題ない子はたくさんいるわ。でもこの月齢まで歩かないと、他にも色々な心配事が増えるんだそうよ」

本来ならば心臓のことと同じで、ルイスの兄であり我が子でもあるアルバートとウィリアムに聞かせる内容ではないのだろう。
けれど、普段一緒に過ごしている二人には教えておくべきだろうと母は考えた。
この二人はルイスの兄で、ルイスを大事に育ててくれている育ての親なのだから。
一歳の誕生日を随分前に迎えたルイスは未だにおすわりかはいはいしかしていない。
アルバートとウィリアムは初めての誕生日よりもずっと早くに歩き始めたものだから、どうにも余計に気になってしまうのだ。
身体的機能に問題がないのであればいずれ歩くようになるのだろう。
だが発達に問題があるかもしれないと言われてしまっては、親としては気にしない方がよほど無責任だ。
ルイスが生きやすいように環境を整えるのはウィリアムでもアルバートでもなく、親である母の役目なのだから。

「まぁま、だいじょぶ?いたいいたい?」
「痛くないわ。ありがとう、ルイス」
「ほんとう?げんき?」
「えぇ、元気いっぱいよ」

懸念に満ちた母の表情を慮るように、ルイスは握られた手をすり抜けて彼女の頬へと寄せていく。
小さな眉を下げて大きな瞳を潤ませている息子の優しさが救いだ。
不安の対象が自分だと理解できずとも、母の気持ちが優れないことに気付けるというのは立派な才能だろう。
何を憂うこともないはずだと、母は自分の頬に寄せられたその手をもう一度握りしめる。
安心したように笑うルイスの顔が表現出来ない不安を和らげてくれた。

「大丈夫ですよ、お母さん。ルイスにはルイスのペースがあるんですから、歩きたくなったら歩きます。離乳食のとき、お母さんもそう言ったじゃないですか」
「ウィリアムの言う通りです。歩くのが遅かろうとルイスはルイスだ。この子は私達の大事な弟ですよ」
「ウィリアム…アルバート…」

母の懸念とは裏腹に、ルイスの兄である二人は少しの不安も心配も見せることはなかった。
さぞ心配するかと想像していただけに、むしろ拍子抜けするほど普段通りの二人に驚いてしまうくらいだ。
アルバートはルイスを膝に乗せたまま、ウィリアムは子どもらしくない優雅な笑みを携えたまま、何かを確信しているかのように落ち着いた姿を見せていた。
ルイスを信じているのだろう。
だがそれ以上に、ルイスがどんな子であろうとアルバートとウィリアムはルイスを愛してくれるのだろう。
三人を産んだ母としてはこれ以上ないほどの幸福を突きつけられたような気分だ。
母は憂えていた表情を変え、ようやく普段通り柔和な笑みを浮かべることが出来た。

「ありがとう。二人はルイスの良いお兄さんね」
「当然です」
「まぁ。自信満々ね、ウィリアム」

母がくすくす笑ったことでルイスもやっと心から安心したらしい。
後ろにいるアルバートに背中をしっかり預け、足をぱたぱた動かしては嬉しそうにはしゃいでいる。
元気な末っ子に、その末っ子を溺愛する頼もしい長男と次男。
それで十分ではないかと、母は思い悩む様子も憤る様子もなくただ純粋な疑問を口にした。

「ねぇルイス、どうしてルイスは歩けないのかしらね〜?」
「あゆく?」

明け透けのない問いかけはむしろ不安が拭えた証拠なのだろう。
どんな子であろうとルイスは大事な我が子なのだと、その兄から教わった母ゆえの純粋な疑問。
ウィリアムもアルバートもそれを気にする様子はなかったけれど、ルイスは自分を見て尋ねられたことにはちゃんと返事をしようと考えたらしい。
聞き覚えのない単語を繰り返しているが、舌足らずで上手に発音出来ていなかった。
それがまた可愛らしくて、アルバートはぎゅうとその体を抱きしめ、ウィリアムは横から不思議そうなその表情を見下ろしている。

「歩くっていうのはね、立ち上がって足をトコトコすることを言うのよ。ほら、ばぁやが今歩いているわ」
「あゆく…とことこ…」

母の声に合わせて部屋の隅に佇んでいたナニーは足を動かして、ルイスが理解しやすいよう横を向いて歩き出す。
ナニーの動きを上から下までじっと見たルイスはもう一度、「あゆく」と小さく繰り返した。
そうしてしばらくじっと考えていたかと思いきや、唐突に衝撃的な言葉を発した。

「ルイ、あるける」
「え?」

舌足らずだったはずの単語をしっかり発音出来たことが衝撃的だったのではない。
歩く、のではなく、歩ける、と歩く行為が己にとって可能な動作だと発言したことが衝撃なのだ。
一体何を言っているのかと、母は表情でそう語りながら思わず目を見開いた。
同じようにウィリアムとアルバートも緋色と翡翠の瞳を丸くさせ、小さな末っ子を目一杯に視界へと収める。
歩ける、とはどういうことだ。
学校へ行く間以外はずっと一緒にいるけれど、ルイスが歩くどころか立ち上がる姿すら見たことはない。
ウィリアムとアルバートがいない間にルイスを見ている母とナニーも驚いているのだから、モリアーティ家の誰もルイスが歩く姿を見ていないはずである。
それなのに歩ける、とは一体。

「にぃ、ルイ、あるく」
「え、あ、あぁ…ルイス?」
「んーしょ、と」

アルバートの膝に乗っていたルイスは腹に回されていた腕をぺちぺちと叩いて離すよう頼み込み、抱きしめる力が緩んだ瞬間を見計らい、足を伸ばしてラグマットの上に移動する。
高さの低いソファゆえに転がり落ちるようなこともなく、ルイスはゆっくりと安定感ある動きで両足を付けた。
そしてアルバートと母の間に移動したルイスはその小さな足を支えに、ふらつくことなく立ち上がる。
両足をマットの上に付け、アルバートからも手を離し、ルイスは一人きりでその場に立っていた。

「る、ルイスが立った!?」
「ルイス、立てるのかい!?」
「え、ルイスあなた、どうして…!?」
「坊っちゃま!?」
「にぃにー」

立ち上がるどころかすぐ隣にいたウィリアムのところへ行くべく、小さな足を前後に動かしては歩き始めてしまった。
立ち上がりよりも左右に揺れてやや不安定だが、それでもしっかりした足取りでとてとてとてと三歩分だけ足を進める。
そうして歩いた先にいたウィリアムの膝に手を伸ばし、ルイスはもう一度だいすきな兄のことを呼んだ。

「にぃに」
「ルイスが歩いた!?」
「ルイス、歩けるのか!?」
「ルイス、あなた歩けたの!?」
「ルイス坊っちゃま!?」
「あぅ?」

前と隣と後ろと遠くから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
ルイスは信頼した人達から呼ばれることを嬉しく思いながら、目の前のウィリアムに抱っこをせがむように両手を伸ばして「にぃに」と兄を呼んだ。
ウィリアムは反射的に腕を伸ばし、ルイスを抱き上げては腕の中に閉じ込めた。
けれど頭の中は今しがた見たばかりの衝撃的な光景を処理するのに手一杯だ。
にぃにー、と呼びかけるルイスの声に反応するよりも、同じ顔をしているアルバートと母とナニーをそれぞれ見渡すことしか出来なかった。

「る、ルイス歩けたの…!?」
「うゅ?ん、あるける」
「い、いつから歩けたんだい!?」
「いつ…?えと、むかしむかし」

ウィリアムの質問を肯定し、アルバートの質問には少し前に読み聞かせた日本の絵本で使われる常套句が返ってきた。
一年と少ししか生きていないのに昔々もないだろうと正論を返しそうになったけれど、いくらルイスとはいえ、今の彼は何も覚えていないただの幼児だ。
一歳と少しのルイスにしてみれば昨日すら昔々になるのだと、アルバートはひとまず疑問を解消することを諦めた。
そうなると次にすべきは、心に湧き上がる祝福と歓喜を表出することである。

「…そっかぁ。ルイス歩けたんだねぇ、凄いねぇ」
「もっと早く教えてくれれば良かったのに。偉いじゃないか、ルイス」
「えへへぇ」

ルイスはウィリアムとアルバートが褒めてくれたことを素直に喜ぶ。
ふくふくした頬を淡く染めてとても嬉しそうだ。
凄い、偉い、さすがルイスだ、と褒めちぎる兄達に気を良くしたルイスは抱いてくれているウィリアムの腕を抜け出し、もう一度ラグマットの上にきちんと立ち上がった。
両手を広げて上手に立てるのだとアピールする姿は、サイズ感と頭身からまるで威嚇するレッサーパンダのようである。
当然それを口にすることはなく、兄達は大きな拍手をしながらルイスを口々に褒めていった。
兄に褒められて嬉しいルイスと、末っ子の成長を心から喜ぶ兄。
そんなほのぼのした三兄弟を良しとしなかったのは彼らの母である。

「ルイス、あなたどうして今まで歩かなかったの?もっと前から歩けたんでしょう?」
「ぅ?んー…」
「ねぇ、どうして?」

母は兄達に向き合っていたルイスを振り向かせ、正面からその小さな立ち姿を見た。
転んでしまいそうな危うさもないのだから、子どもなりに体幹がしっかりしているのだろう。
昨日今日で立てるようになったわけではないはずだ。
ルイスが言う通り、昔々にはもう立って歩ける体になっていたに違いない。
それなのに何故今日になって立とうとしたのか、母は僅かに思い悩んでいた不安をより晴らすべくルイスに問いかけた。

「にぃに、だっこしてくれる」
「え?」
「にぃもだっこする」
「え…」
「ルイ、だっこすち」

にっこりと笑うルイスはとても可愛らしかった。
けれどその発言は可愛いというよりも、不安になっていた気持ちと時間があまりにも無駄だったことを証明するようだった。
ルイスは以前から、立つどころか歩くことが可能だったのだ。
今までは単純に立つことも歩くことも必要性を感じていなかったから実施しなかっただけに過ぎない。
何故ならルイスが歩くよりも先に、ウィリアムとアルバートがルイスをすぐに抱っこしていたからである。
何とも愛情に満ちたはた迷惑な話だった。

「もう、全部アルバートとウィリアムのせいじゃない!あなた達がルイスを甘やかすからルイスが歩かなかっただけだなんて!」
「おや、母さん人聞きの悪い。甘やかしているのではなく、大事に育てているだけですよ」
「そうですよ、お母さん。何にせよルイスが歩けるのなら良いことじゃないですか。おいで、ルイス」
「にぃにー」
「ルイスが歩けるのは良いことだけど、あなた達の抱き癖は良くないわ!あなた達がルイスを見たら真っ先に抱っこするから、ルイスは今まで歩こうとしなかったのよ」
「ルイスは歩かなくても支障ありません。私とウィリアムでどこへでも連れて行きます」
「ちょっとアルバート、あなたねぇ」

再びルイスを腕の中に収めたウィリアムと、敢えて歩かなくても問題はないと一人頷くアルバート。
息子達の駄目な育児を垣間見た母は額に手を当て、何を言っても無駄だろうと確信した。
ならばここはいっそ、幼いけれど賢いルイスに言い聞かせるべきだろう。

「ルイス、ちょっとこっちに来なさい」
「ぅ?まぁま、なぁに?」
「あのね、ルイス。歩けるならちゃんと歩かないといけないのよ。抱っこばかりじゃ駄目なの」
「だっこ、め?」
「そう。駄目、よ」
「…にぃに、だっこいや?にぃも、ルイだっこするの、やなの…?」

母は、嫌じゃないよ、とうるさい兄達の声を聞かせないようルイスの耳を両手で塞いだ。
今にも泣きそうに顔をくしゃくしゃにして悲しがるルイスに罪悪感が過ぎる。
しかしここで絆されてはルイスのためにならない。
歩くことは体の発達にも心の成長にも良い影響を及ぼすのだから、歩けるのならば歩いた方が絶対に良いのだ。
そもそも筋肉は使わなければ衰えるばかりだというのに、ルイスの筋肉は使う前から衰えているようなものである。
まだ一歳と少ししか生きていないのに虚弱まっしぐらだなんて、そんなことが許されていいはずがない。

「にぃにもにぃも、ルイスを抱っこするのがだいすきよ。でもそれじゃいけないの。歩くことはね、ルイスの体を強く元気にしてくれるのよ」
「つよく?」
「そう。モリアーティの男は強くなきゃいけないの。ルイスもにぃにとにぃに守られてばかりは嫌でしょう?悪者がにぃにを攫ったら、ルイスが助けてあげなきゃいけないわ。ほら、こんな風に」
「パンチ!」

シュッシュッ、と母はボクシングのポーズを取り、拳を前に突いていく。
理解しやすいように言葉を選んで教えてくれた母の気持ちは、ちゃんとルイスに届いているようだ。
つよく、まもる、あるく、と順に呟いたルイスは顔を上げて母を見やり、小さな眉を凛々しく釣り上げた。

「ルイ、にぃにとにぃ、まもる!たくさんあるくの!」
「そうよ、ルイス。その心意気よ!」
「しゅ、しゅ!」
「とっても上手よ、ルイス」

ルイスは母を真似てマカロンのように丸い拳を前に突き出すが、ボクシングというよりも猫パンチである。
だが懸命なルイスを思うとそう指摘することは憚られて、迫力のないパンチを褒めるべく母は拍手した。
猫パンチを繰り出しても体はブレずにしっかり立っているのだから、やはり幼い割に体の使い方が上手いのだろう。
それをどこにも披露せず内に秘めていたなど勿体ない限りである。
ルイスの背後には可愛らしい猫パンチを繰り広げる弟を見て悶えているウィリアムとアルバートがいた。

「ルイスがいる…!」
「あぁ…あぁ、ルイスだ…!」

何を言っているのという母の声は、かろうじて飲み込まれたために音にはならなかった。
ウィリアムとアルバートには目の前で弱々しいパンチを披露するルイスがかつてのルイスと重なって見えている。
守られてばかりは嫌なのだと計画に参加したがったあの時ではなく、一人きりにして尚真っ直ぐ正しく生きることで自分達を支え守ってくれていた時のルイスだ。
ルイスが罪に対してきちんと償いへの道を歩んでいたからこそ、ウィリアムとアルバートは引っ張られるようにして彼とともに己の罪と向き合うことが出来た。
兄という立場である以上は守られることを幾分か居心地悪く思うけれど、それ以上に尊く愛おしい気持ちでいっぱいになる。
記憶がなかろうとこの子の本質はやはりルイスなのだと、そう実感出来ることが嬉しかった。

「にぃに、にぃ。ルイ、つよくなる。にぃにとにぃ、まもるの!」

猫パンチをやめたルイスはウィリアムとアルバートを振り返り、小さな手でその膝に抱きついては兄達を守るのだと宣言する。
二人は震える手でルイスの体を抱きしめ、ルイスとともに強くなろうと決意するのだった。

その日以降、ルイスは一生懸命に歩いては色々なところに潜り込むようになる。
他の幼児と変わらない行動だけなら良いのだが、ウィリアムからの抱っこもアルバートからの抱っこも拒否するようになってしまったのは計算外だった。
「や」と言葉で拒否したり、首を振る仕草で拒否したり、そもそも抱っこされる気配を察した瞬間に走って距離を取る。
ウィリアムとアルバートがそれを乗り越えて抱っこすると、ルイスはいかにも不満そうな顔で「ぶー」と赤ちゃん返りしたような全面的拒否をするのだ。
抱っこされないおかげでルイスの体力は十分に付いている。
それと同時に、ウィリアムとアルバートがルイス不足で膝を付く回数も増えてしまうのだった。



(だっこ、や!やなのー!)
(ルイスっ…!)
(にぃ、はなしてー)
(あ、ルイス!)

(…ねぇルイス。たまにはにぃにとにぃに抱っこしてもらっても良いのよ?)
(だっこしないの。ルイ、あるいてつよくなる)
(そう…兄さんを守りたいのね)
(ん、まもるの!)
(でもね、ルイス。にぃにとにぃも、ルイスのことを守りたいのよ。抱っこして守ってあげたいの。ルイスも抱っこはすきでしょう?だから、ちょっとだけ抱っこさせてあげてくれないかしら?)
(…でも)
(アルバートとウィリアムのこと、だいすきでしょう?だいすきは我慢しちゃいけないのよ。抱っこして、だいすきって言ってごらんなさい)
(……ぅん…)

(にぃに、にぃ)
(!ルイス!)
(どうしたんだい、何をして遊ぼうか?)
(…だっこ)
((…!!!))
(……にぃに、にぃ。だいすち。ルイ、まもるからね)
((ルイスっ!))

(やれやれ…我が息子ながら手がかかるわ…)

のらくらり。

「憂国のモリアーティ」末弟中心ファンサイト。 原作者様および出版社様、その他公式とは一切関わりがありません。

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