子ども染みたキスが繋いでくれる
原作4話ベース。
ルイス相手にも上手に嘘をつくウィリアムと、それを見抜けないルイスの関係がすき。
兄の体に存在する隠しようのない頬と腕の痣を見て、ルイスははっきりと眉を顰めて口を噤んだ。
ウィリアムが企てた計画には一点の疑う余地もなく信頼を寄せている。
恐ろしく頭の回転が速く知識に富んだその頭脳は、もはやルイスには及び付かない段階にあるのだ。
だから今回もアルバートの求めるものを確実に手に入れ、かつ麻薬組織を壊滅に追いやることが出来るだろうと確信していた。
ルイスにはその具体的な計画が知らされることはなかったが、それも兄の策あってのことだと気にしないふりをしている。
いつだってウィリアムは汚い世界の闇をルイスに見せたがらない。
だが、それとこれとは話が別だ。
こんな痛々しい兄の姿を望む弟など、どこの世界に居るというのだろう。
「兄さん、痛みの具合はどうですか?」
「大丈夫だよ、ルイス。見た目ほど大した怪我じゃないんだ」
「…そうは思えませんが」
「心配してくれてありがとう」
濡らしたハンカチでウィリアムの口元を拭えば、淡く血が滲んでいるのがよく分かった。
頬に比べたら目立たないが、殴られた拍子に唇を切っていたらしい。
それを見たルイスが不快そうに眉を寄せれば、苦笑したウィリアムがハンカチを押さえている弟の手に自分の手をゆっくりと合わせた。
埃が散る部屋で寝かされていたウィリアムの手はどこかかさついているが、ルイスは気にする様子もなく頬にタオルを押し当てる。
なるべく痛みを感じさせることのないよう気を配っているが、おそらくこの兄は痛かろうとも完璧に取り繕って誤魔化してしまうのだろう。
それがルイスにとっては心苦しくて、どうしようもなく悲しい。
「見たところ唇以外は切れていないようですが、痣はしばらく残るかと思います」
「痣だけなら治りも早い。思っていたより軽く済んで良かったよ」
「軽かろうが何だろうが、僕としては兄さんが怪我を負ったことそのものが嫌です」
「ルイスが怪我をするよりずっと良い」
タオル越しのルイスの手に懐くように、ウィリアムは首を傾げてひやりとした温度を感じている。
言葉は口説いているようにも聞こえるのに、仕草は甘えているようにも見えてしまう。
ルイスは少しだけ言葉に詰まり、ウィリアムの顔から目を逸らして息を整えた。
普段は穏やかな兄の緋色が、まるでルイスを甘やかすような空気を乗せているように見えたのは気のせいではない。
相変わらずこの人は自分を蔑ろにすることを厭わないし、僕に対して過保護が過ぎている。
ルイスは兄の言葉に胸をときめかせると同時に、少しばかりの不満を持った。
過保護なまでに大事にされているのは理解しているが、だからといって納得できるものではないのだ。
ウィリアムの特別でいられる喜びを何とか隠し通して、ルイスはゆっくり兄へと視線を戻していく。
彼とよく似た目元を意識して釣り上げ、絆されないよう鋭い目つきを心がける。
「…モランさんに聞きました。兄さん、確実に攫われるために写真を送っていたそうですね」
「奴らが僕と間違えてルイスを狙ったら事だからね」
「兄さんが怪我を負うくらいなら、僕が代わりになれば良かった」
ルイスは兄の頬にタオルを当てながら、小さく切れているウィリアムの口元に親指で触れた。
もう血が滲んでくることはないが、浅い傷はふとした拍子に痛むに違いない。
頬と腕の痣だって、切り傷と比較すれば治りが早くても、しばらく鈍い痛みが続くことは間違いないだろう。
白い頬に痛々しい赤を咲かせて満足気に微笑む兄に、何も考えず賛同できるほどルイスは思考が柔軟ではないのだ。
「ルイス。僕はルイスが怪我をして痛みを感じる方がずっとつらいよ」
真剣な瞳をするウィリアムは、整った容貌と相まって冷酷さすら感じさせる。
それに一瞬だけたじろいだが、ここで引いてはこれから先も同じことの繰り返しだ。
絶対に引いてはいけない。
ルイスはそう決めて、兄に負けず劣らず整った顔に極力表情を乗せずに言い返した。
「兄さんが僕を思って行動してくれるのは素直に嬉しいです。ですが、僕も自分が怪我をするより兄さんが怪我をする方がずっと痛いです。痛くて、そして悲しい。兄さんは僕に怪我がないことを安堵していましたが、今の僕は怪我を負っていなくても十分痛くて悲しいです」
「ルイス」
「兄さんに怪我がなければ、この痛みも悲しみもなかったのに」
「…ルイス、ごめんね」
「兄さん、僕痛いです。兄さんが怪我をして、自分のことのようにそれが痛い」
「ごめん」
まるで自分が怪我をしたかのように、いやそれ以上の痛みを感じているかのように悲痛な顔をする弟に、ウィリアムは初めて気付いたとばかりに表情を変えた。
ウィリアムの本心は伝えた通りだ。
ルイスに何かあるくらいなら自分が全て引き受けるだけの覚悟は昔からあった。
いつだって自分が守ってあげなければならなかった幼い頃のルイスが、今でも脳裏をかすめるのだ。
だから、ウィリアムは兄として当然のことをしているだけだった。
けれどそれがルイスにとって悪循環だったとは。
目立つ場所に傷を負ってしまったことを今更ながら惜しく思う。
「…兄さんは僕の兄です。僕を守ろうとしてくれるのは分かります」
「…うん」
「でも、僕はあなたの弟です。兄弟です。僕が兄さんと同じ気持ちになるのは自然なことでしょう?」
「そうだね…僕の弟だものね、同じように感じるのは自然なことだ」
「僕だって、兄さんには怪我をしてほしくない。目的のために多少の怪我は仕方ないことかもしれませんが、それなら事前に教えてほしかった。それに、僕の代わりなんて以ての外です」
「うん。気を付ける」
眉を下げて申し訳なさそうにルイスを見るウィリアムは、ルイスに添えていた手を離してそのまま彼の肩に滑らせる。
細くて薄い肩は、それでも昔よりずっと逞しくなった。
いつまでも守られてばかりいる弟じゃなくなったんだな、と思うと一抹の寂しさを感じるが、それ以上にここまで成長していることへの感謝が先立つ。
一緒に大人になれたことへの感謝は尽きないし、同じくらい一層の慈しみを感じる。
「もう安易に怪我はしないよう気を付ける。君に誓うよ、ルイス」
「…はい」
それでも目的の達成とルイスのためなら無茶はするし、彼が守るべき対象であることは変わらない。
なるべく傷が目立たないよう注意すればいいだけだと、ウィリアムは穏やかに微笑む顔の裏でそう考える。
分かってくれた、と瞳を輝かせて兄を見るルイスは、ウィリアムの心情に気付くことなどないだろう。
「では兄さん。改めてお聞きしますが、痛みは本当に大丈夫ですか?」
「そうだね、少し傷む程度かな。特別気になるほどでもないよ」
「そうですか…」
当てていたタオルを外して、赤く腫れている頬にそっと触れてみれば、僅かに熱を持っているのが分かる。
冷やしていたかいもあって先ほどよりは落ち着いているのだろうが、せめて腫れが引かないことには痛みも持続するだろう。
事情聴取が終わってすぐに軍の医務室を借りているが、治療らしい治療よりも時間の経過が一番の特効薬なのは間違いない。
出来ることといったら精々冷やすことと、不用意に触れないことくらいだろう。
ルイスはそう考え、ウィリアムの頬に触れていた手を離して申し訳なく彼を見た。
「屋敷に帰れば僕が使っていた鎮痛剤があるのですが、すぐには用意できませんね…」
「大丈夫だよ、気にしなくていい」
「でも傷むでしょう?せっかくアルバート兄様も揃う日だというのに…あ」
「どうかしたかい?」
小さく腫れて筋が出来ている口元の傷に目をやったルイスは、ふと昔を思い出した。
きっと食事を摂るのも大変だろうと見ただけなのだが、薄いけれど形の整った兄の唇は欲をそそる。
ルイスの唇は勿論、その体の至るところに何度も触れてきたウィリアムの唇の感触は、思い出そうとしなくても全身に染みついているのだ。
だがそういった欲に満ちた類のものではなく、ただただ親愛に満ちた触れ合いも数えきれないくらい繰り返してきた。
子ども染みた遊びのようなキスだが、それは随分と幼い頃のルイスを助けてくれたのだ。
「…おまじない」
「おまじない?」
「はい」
ルイスの言葉に繰り返すことで問いかけてきたウィリアムは少しだけ目を見開いた。
その兄に構うことなく、ルイスは怪我のない兄の右頬に手を添える。
そのまま続けて、薄く開いた唇めがけて自らのそれで軽く触れた。
「ルイス?」
少し触れただけで離れたルイスの唇に目をやり、どうしたのだと言外に滲ませて彼を呼べば、赤みを帯びた褐色の瞳がじっとウィリアムを見つめていた。
だが返事をすることはなくもう一度、今度は合わさる程度にはしっかりと唇を重ねていく。
舌を絡ませるでもない、重ね合わせるだけのキスなら傷にも影響はないだろうと、ルイスは位置をずらしながら何度も何度もキスをした。
「ん、んん」
「ふ、ルイ、ス…?」
ちゅ、ちゅう、ちゅむ、ちゅ。
小さな甘い音をたてて繰り返されるキスは、ひたすらに幼く心を擽った。
何とも可愛らしいそれに愛しい気持ちを抑えきれず、ウィリアムは目の前の弟の体に手を伸ばして抱きしめる。
ルイスは予想していたのか特別に驚くことなくウィリアムの抱擁を受け入れるが、それでも変わらず幼いばかりのキスを繰り返した。
「(これはこれで可愛いけど…)」
受け身でいることにあまり慣れていないウィリアムは新鮮にルイスからのキスを受け入れていたが、段々と物足りなくなってくる。
ガラスの先には震える睫毛が見えて、唇にはくすぐったいばかりの柔らかい感触があり、鼻腔からはルイス本人の落ち着く匂いがする。
さらに腕の中では温かいルイスの体が収まっているのだから、もう少し深く合わさっても構わないだろう。
ウィリアムはそう結論付けて、少しだけ離れて再び近付いてきた唇を自ら追いかけた。
そして唇を開き深く合わせてルイスの唇を堪能しようとするが、僅かに感じた唇の痛みに心の中で苛立ちを覚える。
「んっ、駄目です」
「え?」
だが苛立ちを覚えたのもつかの間、感じていた柔らかさがすぐに離れていってしまった。
どうしたのだろうと腕の中にいるルイスを見れば、不服そうに眉を寄せてウィリアムを見ている。
「口元の傷、痛むでしょう?だからこれ以上は駄目です」
「あぁ…そういうことか」
明快に理由を説明したルイスはそれで満足したようで、頷いてからもう一度ウィリアムの唇に自分のそれを寄せては軽やかな音を立てて懐いていく。
物足りないとは思ったが満足できない訳でもなく、ウィリアムはお遊びのような可愛らしいキスを受け入れるのに専念することにした。
そうしてもう数えきれないほど唇を合わせた後で、名残惜しげにルイスが離れていく。
「ん、ふ…兄さん、どうですか?」
「…何がかな?ルイス」
「お怪我は、まだ痛みますか?」
「痛み?いや…それほど強くはないけど」
離れ際にルイスの赤い舌が唇を濡らしている様子が目に入ったウィリアムは、惜しいな、とだけ思った。
それを隠してルイスの問いかけに答えれば、彼は嬉しそうな笑みを浮かべている。
まるで咲くのを待ち構えていた小さな花のように、控えめながらも目を引く綺麗な微笑みだった。
散々重ね合わせた唇は淡い桃色に色づいている。
「昔、兄さんが僕にしてくれたおまじないです。覚えておいでですか?」
「…もしかして、この火傷が痛むときにしていたやつかい?」
「はい。鎮痛剤を飲んでも中々痛みが引かない時期は、兄さんがまじないと称して励ましてくれました。気が紛れて随分と楽になったのをよく覚えていたので、兄さんにも効くといいと思いまして」
「なるほど…」
そんなこともあったな、とウィリアムはまだ火傷が治らず痛々しい頬をしていた頃のルイスを思い出した。
あの頃、昼間は良くとも夜には傷が疼きやすくなるようで、寝ながら泣いていたこともあった。
起きてからもしばらくは痛ましい顔をしていたので、少しでも慰みになればいいと何度か淡いキスをしていたのは事実だ。
一説によれば、キスの効能として鎮痛だか精神安定だかの作用があると聞きかじったので、その効果が出ればいいと願ってした幼いだけのキスだった。
元よりキスをすれば嬉しそうにしていたルイスだからその効果の程は定かではなかったが、きちんと効果があったらしい。
数年越しの事実にウィリアムは思考が晴れるのと同時に、健気な弟の行動に胸を打たれた。
「ありがとう、ルイス。随分と楽になったよ」
「それは何よりです。もう無理をしてはいけませんよ、兄さん」
「気を付ける」
確かに先ほどよりもずっと痛みが和らいでいる。
事実に驚くよりも、あれだけ可愛いキスで癒してくれたのだから当然のことだと、ウィリアムは一人納得した。
そして先ほどまで受け入れていたルイスからのキスの記憶を上書きしないよう、腕の中に収まっている体を優しく抱きしめることで感謝を表す。
アルバートの職務が終わるまでまだ時間はある。
二人はもう少しだけこの甘やかな時間を堪能するべく、医務室でひっそりと抱き合うことにした。
(…)
(ルイス、傷が痛むのかい?)
(…兄さん、大丈夫です)
(本当に?)
(…さっき痛み止めを飲みました。じきに効いてくるはずです)
(ということは、今は痛いんだね?)
(…)
(ルイス)
(んむっ)
(…)
(ふ、ぁ…兄さん?な、何ですか?)
(…おまじないだよ。少しは気が紛れたかな?)
(は、はい)
(良かった…ルイスが痛がっているのを見ると僕もつらい。早く良くなるといいね)
(はい…ありがとうございます、兄さん)
(さぁ、痛み止めがしっかり効いてくるまでもう少し休んでいようか。勉強はそれからでも遅くはないよ)
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