冬季限定・お出迎え
温かくして兄達の帰宅を待つルイス。
冬限定と言わず年中ハグして出迎えてほしい。
寒い冬になると、モリアーティ家の執務を取り仕切るルイスには一つの役割が加えられる。
冷えた外の空気を纏いながら屋敷に帰ってくる兄を思い出来たその習慣は、今となっては使用人の名目でモリアーティ家に居座る同士の間でも暗黙の了解になっていた。
勿論、兄二人からの評判もこの上なく良いのである。
空模様が時間の割にどんよりと薄暗くなっているのは、冬という季節が原因なのだろう。
昼間は明るく陽が出ていても、この時期ではすぐに陽が沈んで気温が下がる。
屋敷の中は暖炉を中心に温めているが、それでもひんやりとした空気はそこかしこに漂っていた。
「降ることはないでしょうが、少しばかり天気が崩れそうですね」
厨房の窓から外の様子を伺ったルイスがそうぽつりと声を出す。
出来れば二人の兄が帰るまでにこれ以上冷えることがなければいいのだが、とカーテンを閉めて水場に向かう。
布で覆われるまでの窓ガラスからはとびきり冷えた空気が厨房に流れていった。
だがその冷気を気にすることなく、ルイスは冷たい水で丁寧に食器を洗っている。
その隣では夕食に出す予定のシチューがトマトの甘い香りを漂わせていた。
ラム肉とトマトのイングリッシュシチューには、珍しく昨夜アルバートが飲み残した赤ワインを入れて煮込んである。
もうしばらく煮込めば丁度食べごろだろう。
オーブンの中では鴨肉と芋をグリルしてあるし、昼のうちにライ麦パンを焼いておいた。
保冷庫にあるサワークリームとレバーパテを添えて出せば、きっと兄達も納得の夕食が完成する。
ルイスは水で冷えた手で鍋の蓋をあけて煮込み具合を確認してから火を消した。
あとは二人が帰ってきてから少々煮込めば十分だ。
満足したように頷いてから、ルイスは水仕事で冷えた手を合わせて暖を取るように息を吹きかけた。
元々の真っ白い手はあまりの冷えに伴い赤く染まっている。
「(…早く温めなければ)」
おそらく過保護な兄達がこの場面を見たらきっとルイスを咎めるのだろう。
低体温気味のルイスが冬場の水仕事をする際は、手間をかけても決して真水は使わないようウィリアムとアルバートの二人から言われている。
一度冷えた体をまた温めるには時間がかかるし、成人したとはいえ病弱だったルイスが体調を崩しやすくなるのは間違いないからだ。
それを承知でルイスも基本的には部屋を暖め、湯を使いながら屋敷の執務をこなしている。
同士ともいえる屋敷の使用人達が見張りのようにルイスを気にしているのだから逆らうつもりもない。
だが今日はモランやフレッド、ボンドもおらず、普段よりも仕事量が多かったのだ。
一々部屋が暖まるのを待つ時間も湯が沸くのを待つ時間も惜しかった。
だからルイスは冷えることを承知で気にせず執務に励み、その有能さを持ってして予定通りの時間に全てを終わらせた。
そうして夕食の支度をしていたのだが、この時間にウィリアムとアルバートの二人が帰ってくることはまずない。
冷え切った手は暖炉に当てていれば兄達が帰ってくるまでに十分温まる。
ルイスは少しばかり背筋に走った寒さに気付かないふりをして、火の元を確認してからリビングの方へ向かって行った。
紅茶でも飲もうかと思ったが、まずはこの冷え切った手を人並み以上に温かくする方が優先だ。
リビングで小さな火を灯していた暖炉に薪を幾つかくべて、煌々と燃える炎をぼんやり見る。
かつて燃やした屋敷の住人を特に意味もなく思い出したが、それほど良い思い出があるわけでも思い入れがあるわけでもない。
すぐに思考をとめたルイスは近くに椅子を持って来ると、座りながら手を擦り始めた。
時折手を暖炉に当てて擦っていれば、かじかんでいた手が段々と思うように動いてくる。
その手を自らの頬に当ててみると、まだ冷えてはいるが十分及第点だろう。
恐らくもうそろそろ大学での講義を終えたウィリアムが帰宅する。
ルイスは掛けられた柱時計に目をやって、きっと今頃のんびりと屋敷に向かって歩いているウィリアムを思う。
彼は厚手のコートと皮の手袋を身に付けていたはずだが、それだけではカバーしきれないほど今日の気温は低い。
早く帰ってこないだろうかとルイスが目の前の暖炉に視線を戻すと、玄関のベルが目当ての人物の帰宅を知らせてくれた。
「兄さん、お帰りなさい」
「ただいま、ルイス」
音を聞いた瞬間、ルイスは反射的に頭を上げて部屋を出た。
手はある程度温まっているし、外から帰ってきたウィリアムを出迎えるには丁度いいだろう。
足早に玄関ホールへと向かい、帰宅した兄を見れば普段通り穏やかな笑みを浮かべていた。
「外は寒かったでしょう?体は冷えていませんか?」
「今日は急に冷え込んだからね。さすがに少し冷えたかな」
「お仕事お疲れ様です、兄さん」
「ありがとう」
ウィリアムに近寄り、受け取った荷物をそのまま足元にそっと置く。
続けてルイスは彼の腕の中に入り込み、冷えたその体をコートごと抱きしめた。
屋敷の中は温かくしているとはいえ、外を歩いてきた体がすぐに温まるほどではない。
コートから伝わる冷たい空気にルイスは少しばかり眉を顰め、より強く兄の体を抱きしめる。
自然と背中に回るウィリアムの腕も冷えているようで、早く普段通り温かくなればいいとルイスは思った。
「随分冷えています」
「あぁ、ルイスは温かいね」
「兄さんのためにも、今の季節は温かくしておかなければならないので」
冬のルイスには、冷えて帰ってくる兄を温かく出迎えるという役割がある。
屋敷を温め自らの体を温め、物理的に冷えた兄の体をじっくりと温めていく。
冷たい体が活動に支障を来すことを身を持って理解しているルイスだからこそ、外で働く兄の気持ちがよく分かる。
かつて冷え切った自分の体を抱きしめて温めてくれたように、帰宅したばかりで冷えているウィリアムとアルバートの体をすぐに温めてあげたいと思うのだ。
だから彼らの帰宅に合わせて暖炉に当たり、職務で疲れた体を抱きしめることでぬくもりを与えている。
その抱擁は勿論のこと、実際には陽だまりのように微笑むルイスにこそ兄の心は温まっているのだが、それはウィリアムとアルバートだけが知ることである。
「ふふ、兄さんくすぐったいですよ」
「ごめんね、寒かったから少しでも温まりたくて」
「リビングに行きましょうか?薪をくべているので、ここよりも温かいですよ」
「ルイスが温かいからここで大丈夫だよ」
ルイスがウィリアムの首元に頬を寄せその体を温めようとすり寄れば、同じように彼もルイスへすり寄ってくる。
さらさらとした髪が頬をくすぐるが、むず痒いその感触も愛おしくて嬉しいと思う。
コートのボタンを外しその中に入り込んでもう一度抱きしめれば、ウィリアムはルイスの体温にやっと人心地付いたように優しく息をついた。
温かい屋敷の中で弟の顔とその体を抱きしめてようやく気付いたが、やはり外は思っていた以上に寒かったらしい。
ルイスのぬくもりを感じながら、ウィリアムはじんわりと体温が上がるのを実感していた。
寒い日にのんびりと歩くのは中々つらいものがあるけれど、帰宅すれば可愛い弟が温めてくれることを考えるとさほど苦でもないのだ。
熱い紅茶を飲むより直接湯を浴びるより、よほど全身が温まる。
「兄さん、これだけ寒い日には馬車を使っても良いのではないでしょうか」
「そうだね…でもそうなると、ルイスが温めてくれなくなるからなぁ」
冗談交じりに言ったウィリアムの言葉に、ルイスは苦笑したように表情を変える。
確かにルイスがウィリアムを温めるなど、今日のような仕事終わりの寒い日以外にはありえない。
普段であれば、ウィリアムが冷えたルイスを抱きしめることの方が圧倒的に多いのだから。
ルイスとしても冬限定で兄を温められるという役得を手放すのは惜しい。
大学までの二十分程度ならばいいだろうかと、発言してすぐにルイスは己の考えを改めた。
兄の背に回した腕に力を込めて、首元に埋めていた顔を上げてその顔を見る。
先ほどよりは血色の良くなった頬と唇を見て、随分と長い時間ホールで抱き合っていたことを知った。
「寒さは落ち着きましたか?」
「あぁ、大分良くなってきたよ」
「それは良かった」
ウィリアムの滑らかな頬に唇を寄せたルイスは、そこから伝わる熱が冷えていないことに気を良くする。
そのまま静かに頬へキスをしてから、薄く色付いている唇に自分のものを重ね合わせた。
普段ならばウィリアムの唇の方がよほど熱を持っているのだが、今はルイスの方が温かく熱を持っている。
その熱を分け与えるように深く唇を合わせていると、段々と互いの体温の境がなくなるような心地がした。
それを確認しながら唇を離すと、先ほどよりも赤みを帯びたウィリアムの唇が目に入る。
ルイスは首を傾げて安心したように唇に弧を描いてから兄の瞳を見た。
「もう大丈夫そうですね」
「そうだね」
ありがとう、とウィリアムがルイスの瞼にキスをして、ようやく二人は体を離してホールを後にした。
「兄さんはもう少しで帰ってくるのかな」
「はい。あと三十分もすれば帰ってくる予定です」
「ロンドンよりこちらの方が冷え込むから、体調を崩さなければいいけれど」
「えぇ…ともに過ごせるのは嬉しいですが、早く仕事が一段落してほしいものです」
リビングに着くとルイスはウィリアムから預かったコートとハットを仕舞い、念のため暖炉に薪を追加する。
そうして先にソファに座っていたウィリアムの元に行くと、手を伸ばしている彼の腕の中にそのまま納まった。
懐炉代わりに抱きしめられるのはもう慣れたものだ。
後ろから抱きこまれる形で目の前の炎に目をやれば寒さなど一切感じられない。
ウィリアムも同じように感じていれば良いのだが、とルイスは少しだけ顔を後ろに向けようとするが、それを阻むように彼はルイスの髪に顔を埋めてきた。
冷たいウィリアムの髪と違って、ふわふわと温かく揺れるルイスの髪は甘い香りがする。
ウィリアムはルイスの腹に回した腕を引きよせて、自分よりも少しばかり華奢なその体を強く抱きしめた。
しっかりと温かいその体が嬉しくて、思わず小さな頭に頬擦りをすることでその感情を表現する。
「温かくなりましたね、兄さんの体」
「ここは温かいし、ルイスを抱いているからね」
ウィリアムに負けず劣らず嬉しそうに声を出すルイスは、自分を抱く兄の手が普段と変わらずぬくもりに満ちていることに安堵した。
甘えるように背中をウィリアムに押し付けて懐いていると、玄関先でベルが鳴る音が聞こえてくる。
その音が聞こえてすぐに玄関の方へ目を向けたルイスは、日頃この屋敷で家族を出迎えていて慣れているのだろう、五感の鋭いウィリアムよりも幾分か早く反応してみせた。
「兄様がお帰りになりました!」
「そうだね、出迎えておいで」
「はい!」
ウィリアムは名残惜しげに華奢な体をもう一度抱きしめてから、そわそわと玄関ホールへ向かうルイスを見送った。
本来ならばウィリアムもともに行くべきであろうが、ここは兄と弟の二人にしてあげるべきだろう。
きっと同じようにルイスを抱きしめることで暖を取るアルバートを思えば、そこに自分がいるのは無粋だ。
そう考えたウィリアムは足を組んで煌々と炎を揺らめかせる暖炉に目をやった。
「兄様、お帰りなさい」
「ただいま、ルイス」
「寒かったでしょう?どうぞこちらに来てください」
「あぁ、ありがとう」
玄関の扉を開けたアルバートがハットとストールを外していると、奥から足早にやってくるルイスが出迎えてくれた。
真っ白い頬が薄く染まっている様子に、体を冷やしてはいないようだな、とアルバートは密かに安心する。
この末弟は気を抜くとすぐに体を冷やしてしまうから、週の半分もともに過ごせない身としてはつい心配に心配を重ねてしまうのだ。
アルバートは穏やかに微笑んでから差し出された手にハットとストールを手渡した。
「体は冷やしていないようだね、ルイス」
「屋敷にいたのだから当然です。今は兄様の方が体を冷やしているでしょう?大丈夫ですか?」
「ふ、ルイスは厳しいな。でもここまでは馬車だったからさほど冷えてはいないよ、安心しなさい」
「本当ですか?」
受け取ったハットもストールも冷気を纏っていることにルイスが眉を顰めていると、手袋をしている手で髪を撫でられた。
その手も思っていた通り冷えており、馬車を使ってもこれだけ冷えているだなんて、今どれほど外が寒いのかを間接的に知ってしまう。
それを感じさせずに微笑んでいるアルバートの顔を見て、ルイスはハットとストールを手にしたままアルバートの背中に腕を回した。
ウィリアムよりも背が高いアルバートを抱きしめれば、自然と首筋に顔を埋める形になる。
鼻を当ててみると冷えているせいか、アルバートが好んでつけている香水の香りも感じられなかった。
「やっぱり。冷えていますよ、兄様」
「屋敷に居たルイスと比べれば多少は冷えてしまうのは仕方ないだろう」
「それはそうですが…」
「ルイスが温めてくれれば大丈夫だよ」
アルバートの言葉を聞いて、分かりました、とばかりにルイスは冷たい兄の体を抱きしめた。
隙間なく体を密着させていれば、アルバートからも背中に腕を回される。
まるで覆い被さるようにして線の細い弟を抱きしめれば、温かい屋敷内と相まって段々と寒さが和らいでくる。
ルイス本来が持つ甘い香りと相まって、アルバートの疲れた体を優しく癒してくれた。
「随分と温かいね、ルイスの体は」
「アルバート兄様が帰られるまで、部屋でウィリアム兄さんに抱きしめてもらっていました」
「ほう、だからか。まるで懐炉のように温かい」
「兄様の懐炉でしたら、なっても構いませんよ」
「ではお願いしようか」
ルイスが自分よりも背が高く筋肉質な兄を抱きしめていても、傍から見れば抱きしめられているように見えるのだろう。
それに気付かずアルバートを温めているルイスは、機嫌良さそうに笑いながら彼の顔を覗き込んだ。
綺麗な翡翠色の瞳とやっと赤みを帯びてきた頬を見て、しっかりと自分の役目を果たせていると実感できた。
冷えた兄を温めるのは冬限定でルイスの役目なのだ。
「これから増々寒い日が続きます。あまりお体に障らないよう気を付けてくださいね」
「分かっている。ルイスも無理をするでないよ」
「はい」
本当ならば両手を直接頬に当てて温めたいところだが、手にはアルバートのハットとストールを持っている。
それを幸いとして、ルイスはアルバートの少しばかりひんやりした頬に自らの左頬を押し当てた。
互いの頬を合わせてから軽く音を立ててキスをすれば、アルバートも同じようにルイスの頬にキスを落としてくれる。
そうして少しだけかがむように視線だけで依頼をすれば、それをしっかりと受け止めたアルバートが背を丸めてくれた。
日頃から露わになっているアルバートの額がすぐ近くに下りてきて、ルイスは顔を上げてその額に幾つかのキスをする。
隠れる部分ではないせいかまだ冷たくて、自分の体温を分け与えるように淡いリップ音を立てていくと、アルバートが愉快そうに吐息を溢した。
「そんなに熱心にしなくてももう十分温まっているよ」
「僕がしたいんです。駄目でしょうか?」
「いや…ならばルイスが満足するまで付き合おうか」
「ありがとうございます」
アルバートは良くとも、もう少し彼の体を温めたいと考えるルイスはアルバートから離れない。
しがみ付くように逞しい体を抱きしめている弟の姿は、実に微笑ましくアルバートの目に映る。
もう一度強く抱きしめてそのぬくもりを堪能していると、不意に顔を上げていたルイスと目が合った。
ガラスを通した大きな瞳にはアルバートの姿が真っ直ぐに映っている。
「夕食はラム肉のシチューを用意しました。美味しく召し上がってくださると良いのですが」
「それは楽しみだね」
「飲み物は赤ワインとシャンパンを用意していますが、どちらになさいますか?」
「ルイスのお勧めは?」
「昨夜と続いてしまいますが、赤ワインが良いかと思います。別の銘柄を用意したので飽きは来ないかと」
「ではそうしようか」
しばらくホールで抱き合っているとようやく満足したのか、ルイスはアルバートの体から距離を取った。
その表情は十分に温まった兄の体に納得した様子でゆったりと微笑んでいる。
「コートをお預かりします。リビングにいる兄さんとともに、食堂でお待ちください」
「あぁ、楽しみにしている」
ルイスは先を歩く兄の後を付いていき、途中で厨房に向かってシチューの仕上げをするため火をつけた。
しばらくの間、誰も立ち寄らなかったこの場所には冷気が漂っているけれど、それも気にならないくらいにルイスの体は温まっている。
鍋のシチューを掻き混ぜて、食堂で待っている兄を思いながら食事の支度を進めていく。
今晩はきっと冷え込むだろうが、兄弟三人ともが温かく過ごせればいいとルイスは願った。
(今晩は大分冷え込むだろうね。ルイス、寝室の暖房は問題ないかい?)
(昼間のうちに点検しております)
(さすがルイスだ。ならば今日は遅くならないうちに眠るのが良いだろうな)
(入浴の準備も出来ていますので、アルバート兄様からお入りください)
(ありがとう)
(ルイスは大丈夫かい?)
(お二人のおかげで全く冷えていません。僕は最後にお湯を頂こうと思いますので)
(寒くて眠れないようなら我慢せずに僕の部屋においで)
(私の部屋でも構わないよ)
(…大丈夫ですよ、ウィリアム兄さんアルバート兄様。もうそんなに子どもではありません)
(ふふ、子ども扱いをしているわけではないよ。夜は寒いからね、一人で眠るよりルイスといた方がいいかと思っただけだよ)
(私もウィルと同じ考えだ。だからルイスさえ良ければ、部屋に来てもらえると助かるのだが)
(…では、ウィリアム兄さんと一緒にアルバート兄様のお部屋にお邪魔しても良いですか?三人で眠れば寒さはしのげると思います)
(勿論。待っているよ、二人とも)
(分かりました、兄さん)
(…ふふ、三人で眠るのは久しぶりですね。少し楽しみです)
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