早く帰っておいで、僕の愛しい人


子ども時代の三兄弟。
ルイスが反抗期を迎えた話。

「もう、子ども扱いしないでください、兄さん」

習慣のようにルイスのふわふわした髪の毛に手を通して数回ぽんぽんと撫でていたウィリアムは、むっとしたように表情を顰めたルイスにその手を払いのけられてしまった。
驚いたように目を見開く兄の姿を見て少しだけ戸惑ったように視線を逸らしたが、ルイスはそのまま浴室の掃除をしてくると言ってこの場を離れて行った。
ルイスのいなくなった部屋に残されたのはウィリアムただ一人である。

「…」

払いのけられた手を呆然と見るウィリアムの頭の中は、たった一つしか違わない、病弱で守ってあげなければならない弟のことでいっぱいだった。
自分の後を疑いもせず付いてきて、人形めいて整った顔で懸命に慕ってくれる可愛い弟。
昨日までは頭を撫でても大きな瞳を細めて笑っていたはずの彼が、幼い顔に不機嫌を乗せてウィリアムを見てくるなど初めての経験だ。
どこか虫の居所でも悪かったのだろうかと、ウィリアムは少しばかり傷ついた心を自ら労わるように手を握りしめた。

「大丈夫です、兄さん。僕一人で出来ます」
「今日は僕一人で寝るので、兄さんもお一人で足を伸ばしてお休みください」
「行ってらっしゃい兄さん。気を付けてきてくださいね」

ルイスがウィリアムの手を払いのけて以来、弟がどこか余所余所しくなったように感じていたウィリアムは、努めて自分の気のせいだと思うようにしていた。
だが最近のルイスの様子はどう考えても以前とは違う。
明らかにウィリアムを避けていると言っていい。
ルイスに割り当てられた仕事を手伝おうとすれば必要ないと言われ、昔から一緒に眠っていたというのに一人で眠ると言って寝室を分けられ、図書館に行くと言えば付いてくるのが常なのに笑顔で見送られてしまった。
何かしてしまったのだろうかと過去の自分の言動や行動を思い返すが、心当たりになるようなことは何一つない。
ウィリアムは書斎にいながら本を読むことなく、ひたすら実弟であるルイスのことを考えていた。

「ウィル、いるかい?」
「…兄さん、どうぞ」
「この間貸してほしいと言っていた本を持ってきたよ」
「あ、ありがとうございます」

気を抜いたようにソファに凭れていたウィリアムの元に、長兄であるアルバートがやってきた。
心ここに非ずと言ったようなウィリアムに気付いたアルバートは、それでも敢えて言及することなく持っていた本を手渡した。
あれほど読みたいと思っていた本なのに、手に持ってもどこか覚束ない気持ちで満たされる。
ウィリアムはひとまず彼に礼を言ってからまじまじとその表紙を見るが、どうしても今すぐ読む気持ちにはなれなかった。

「大丈夫かい?顔色が優れないが」
「…えぇ。いや、兄さん。聞きたいことがあるのですが…」
「何かな?」
「最近のルイスで何か気になることはありませんか?」
「ルイス?いや…特に思い当たることはないな」
「そうですか…」

意を決してアルバートに尋ねてみても、返ってくるのは予想した通りの言葉だった。
彼の言う通り、ルイスの様子が余所余所しいのはウィリアムに対してだけだった。
アルバートや他の人間に対しては普段と変わらず、むしろ段々と心を許しているアルバートに対しては弟らしく振舞うことも増えている。
自分の観察眼に間違いはないと絶対の自信があるのだから、これは確かなことだろう。
だからこそウィリアムも気のせいだと思いたかったのだが、つい先ほど見た兄と弟のやりとりで確信してしまった。

「兄さんの手はルイスも払いのけたりしませんよね…」
「手を?…あぁ、確かについ先ほどルイスの髪を撫でたけど、それがどうかしたのかい?」
「いえ…」
「ウィルもよく撫でているじゃないか。それとも、僕がルイスに触れるのは不満かい?」
「そういうわけではありません」

随分と待たせてしまった本だから喜んでくれるものだと思っていたのに、予想とは違う反応にアルバートも首を傾げてウィリアムを見る。
渡した本を抱いて俯く姿は卓越した頭脳とは裏腹にまだ幼い子どもそのもので、計画の中心を担う人物とはいえアルバートの大事な弟だった。
その彼が実弟であるルイスを特別大切にしていることはよく理解していたから、てっきり不用意にルイスに触れてしまったことに気を落としているのかと思ったが違うらしい。
きっぱりと否定したウィリアムの声に偽りは感じられなかった。

「ではどうして?」
「…最近、ルイスに避けられているように思うんです」
「ルイスがウィリアムを避けている?…そうなのかい?」
「先日、頭を撫でていたら思い切り手を払いのけられました」
「…あのルイスがかい?」

こくりと頷いてソファに座り込んでしまったウィリアムの表情は伺えないが、相当に気落ちしているらしい。
アルバートはここ数日の弟達の様子を思い浮かべるが、確かにウィリアムがルイスを撫でる姿はしばらく見ていないように思う。
それこそ毎日の習慣のようにルイスの髪を撫でては頬に触れているウィリアムだ。
以前はよく見かけていただけに、一度それに気付いてしまうと確かに違和感しか覚えない。
アルバートとしてはすっかり自分に気を許して懐いてくれた末弟が可愛くて、二人に最も近い位置にいるというのに気付くのが遅れてしまった。
自分の鈍さに内心で思わず舌を打つが、あれだけウィリアム贔屓の子がその彼を拒絶するなど、改めて話を聞いてみても俄かには信じがたいのも事実だった。

「ずっと一緒にいた分、一人で行動されてしまうと寂しいものですね」

ウィリアムがぽつりと言った言葉に、アルバートはまたも驚いた。
言葉の響きは確かに寂しいものだったが、顔を上げていた彼の紅い瞳は何かの確信で満ちている。
ゾクリとするような仄明るいその色にアルバートは思わず表情を無くすが、そんな兄とは対照的にウィリアムはにっこりと表情を変えていた。

「彼に一番近い僕にだけ態度を変えるということは、ルイスなりの自立の表れなんでしょう。いつも僕に付いていたか弱い弟から一人の男になろうとしていると考えれば、多少の寂しさは我慢するべきでしょうね」
「なるほど…ある種の精神発達過程にいるということかな」
「おそらく」

最も近しい人間に対して拒否的な態度を取るというのは、今のルイス程の年齢ならば自然なことだろう。
孤児だったウィリアムとルイスが真っ当な発達をするなど期待もしていなかったが、知識も体力も及ばないウィリアムを守ろうと背伸びをしていた頃を思えば、多少なりともまともに発育していると言える。
子どもながらに大人に染まってしまったルイスのことだから、手術を受けて正式にモリアーティ家の養子となって命の危機がなくなった今、兄に頼らず自立しようと精神的に成長したがるのも無理はない。
ならば一つしか違わないウィリアムはどうなのだろうとアルバートは考えたが、聡明で早熟している彼のこと、そんな発達理論などとうに超越しているのだろうと簡単に答えが出た。

「本人からも子ども扱いしないでほしいと言われました。しているつもりはないんですが、ルイスとしては一人前の個人として扱ってほしいんでしょうね」
「それはそれで難しい話だな」
「えぇ。どう足掻いたってルイスは可愛い弟ですから」

可愛がらずにはいられない、とウィリアムが顔を顰めているのを見てアルバートも同意する。
アルバートの実弟は幼いくせに完璧に貴族社会に染まってしまっている人間だったからか、純粋な気持ちで慕ってくれる弟とは程遠かった。
ゆえに疑り深く簡単に人を信用しないルイスと目的を一つにしてからは、弟という存在の癒しによる恩恵を存分に受けてきたのだ。
アルバートでさえそうなのだから、それこそルイスを猫可愛がりしてきたウィリアムが彼を囲わずにいられるはずがないだろう。
アルバートが部屋にやってきたときの落ち込み以上に難しい顔をして、今後ルイスをどう扱うべきかを悩むウィリアムは、優れた頭脳を持ってしても中々答えが出ない疑問に頭を働かせる。

「一人の人間として接するとしても、無垢に慕ってくれるルイスの手を穢すことには抵抗があります」
「ならば、そこは上手く隠すべきだろうな。ルイスも気にしてしまう」
「勝手をしていいのですか?僕の我がままになりますが」
「結果に違いがないのであれば構わないだろう。僕個人としても、ルイスには無垢なままでいてほしい」
「…ありがとうございます、兄さん」

日々の生活は何とでも出来るが、平等を目指すため悪になるという計画はルイスにとって禍々しい、というのがウィリアムの本音だ。
勿論サポートは頼むし、優秀なルイスのことだから様々なフォローもしてくれるに違いない。
だが、誰かを直接その手にかけるルイスには抵抗がある。
ルイスの意思を無視した上での勝手を容認してくれる長兄の懐深さに、ウィリアムは改めて彼が家族になってくれて良かったと心から思う。
尊敬できる同志であり初めての兄であるアルバートのことを、ウィリアムは他の誰より信頼している。
彼は誰より愛しい弟を任せるに値する人物だ。
事実、アルバートはルイスのことを大事にしてくれているし、ルイスもアルバートに気を許している。
そんな兄と弟の様子を見るのがウィリアムはすきだし、こんな時代に生きていてもそれ以上の幸せを感じられることに感謝すら覚えていた。

「ルイスの成長は嬉しいですが、やっぱり寂しいものですね」
「思えば焼けた木材を顔に押し当てたのも、計画への手助けだけでなく彼なりの自立なのかもしれないな」
「そうですね…今あの子が頑張っていることの全てが、無駄な努力で終わってほしいのですが」
「ふ、ルイスにはとても言えないな。目を吊り上げて怒る姿が瞼に浮かぶようだ」

ルイスがただ一人の個人として接することを望んでいるならば、きっと今後の計画のためにも己を磨こうと苦心しているのだろう。
そんな懸命な弟の気合いを無駄な努力にさせたいと、兄達がそう考えていることにルイスが気付くのは当分先のことだ。

「しかし、当面はルイスへの対応だろう。どうするつもりだい?ウィル」
「幸い、今のルイスはアルバート兄さんには素直に接しています。しばらくルイスをお願いしても良いですか?僕への反抗的な態度もそのうちに落ち着くでしょう」
「おや、随分冷静だね。先ほどまで落ち込んでいたように見えたのは演技だったのかな?」
「まさか、本気ですよ。可愛い弟に拒絶されて何も感じないはずがないでしょう」

アルバートの言葉に、心外だ、と言わんばかりにウィリアムが大きな瞳を見開いて彼を見上げた。
これが逆の立場だったとしたらきっとアルバートも多少なりとも気落ちするだろうに、今この瞬間に演技をする必要などないだろう。
ウィリアムは苦笑しながら形の良い唇を開いて言葉を紡ぐ。

「ルイスが僕を必要としなくなるなんて有り得ません。僕自らそういう風に教えてきたんですから。今は一過性の麻疹のようなものですよ。いずれはまた、昔以上に僕に執着するようになる」
「…確信しているんだね」
「えぇ。ルイスが僕の手を離れるなど、あってはならないことですから」

今はせいぜいこの貴重な機会を楽しむとしましょう、と涼やかに笑うウィリアムの姿に、アルバートは余裕ある兄としての気概を感じて圧倒される。
この兄弟の間に入り込めないことなど理解していたが、思っていた以上にウィリアムはルイスに執着しているし、ルイスにも同じだけのものを教え込んできているのだ。
二人の兄になった今ならば多少は理解も追いつくが、それでも底知れない絆のようなものを感じてしまう。
そのことに一抹の寂しさを感じながらも、アルバートは自分の役割を考慮した上で今後の立ち回りについて思考を巡らせる。
アルバートが寂しさを感じる必要などないことを知るのは、長い時間をかけがえのない三人兄弟として過ごしてきた期間がじきに気付かせてくれるだろう。

「ルイスをお願いしますね、アルバート兄さん」
「…あぁ。安心して過ごすと良い」

戸惑いつつも力強く返事をしたアルバートに対し、ウィリアムは言葉通り安心したように微笑んだ。
そうしてじきに腕の中に帰ってくるであろう愛しい弟を思い、ようやく手の中の本に興味を覚える。
自立心を身に付けた弟はどんな存在になるのだろうか。
きっと今以上に愛おしくて、他の何よりも大切な存在になってくれるに違いない。
もしかするとウィリアムが想像する以上に特別な存在になってしまうのかもしれない。
そうであればいいと、いつか目にする美しい世界がよく似合う魅力的な彼になってくれればいいと、ウィリアムはそう願いながらアルバートから受け取った本のページを開いた。

「早く帰っておいで、ルイス」

優雅に微笑みながらここにはいない末弟への想いを呟くウィリアムに、アルバートは感心したような息を溢して書斎を後にした。


(ルイス、調子はどうだい?)
(アルバート兄様。特に変わりありません、ありがとうございます)
(それは何より。…そういえば、さっきまでウィルと話していたんだ)
(…兄さんと?)
(あぁ。最近ルイスが冷たいとウィルが嘆いていたよ。本当なのかな?)
(つ、冷たくなんてしていません!ただ、いつも兄さんに頼ってばかりじゃ駄目だと思って…それで、ちゃんと一人で出来ることは一人でやろうとしているだけです)
(僕の目から見て、ルイスは元々自分のやるべきことは自分でやる子だったと思うけどな)
(ほ、本当ですか?僕、ちゃんと出来ていますか?)
(本当だよ。僕がおまえに嘘をついたことはあったかい?)
(ないです…ありがとうございます、アルバート兄様!)
(子ども扱いされたくないとウィルから聞いたけれど、僕がおまえの頭を撫でるのも本当は嫌だったのかな?)
(嫌というわけでは…)
(僕としては決して子ども扱いしているわけじゃなく、ルイスを労おうとした結果の行動なんだ。そこは理解してほしい)
(そ、うでしたか…労ってくださったんですか…)
(きっとウィルも同じだよ)
(兄さんも?)
(あの子がルイスを子ども扱いするはずないだろう。一人の弟として、ただ純粋に可愛がりたいだけなんだよ。可愛がることと子ども扱いは似ているようで別物だ。歯がゆいかもしれないけれど、気持ちは理解してあげなさい)
(…はい。ありがとうございます、兄様)
(素直で良い子だね、おまえは)

のらくらり。

「憂国のモリアーティ」末弟中心ファンサイト。 原作者様および出版社様、その他公式とは一切関わりがありません。

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