ウィリアムの子守唄


少しばかり独特な歌声を持つウィリアムの話。
成長したウィリアムはモリミュ主役の歌声を得て帰ってきます。

子守唄といえば、親が子を寝かしつけるときに歌うものだろう。
親がいなければ子守唄を聞いて眠ることはないし、子守唄という存在すらあやふやまま大人になるのかもしれない。
ルイスは親に捨てられた。
けれどルイスは子守唄を知っている。
最愛の兄とともに親に捨てられた身でありながら、ルイスは夜に子守唄を聞いてから眠りに就いていたのだ。
歌ってくれたのは自分を捨てた親ではなく、親代わりでもあるたった一人の兄だった。

「ん、ん…」
「ルイス、眠たいの?」

寒々しい貸本屋の一角に住みついた小さく愛らしい双子のような兄弟。
埃まみれの本を一冊残らず知識として吸収する兄を弟のルイスは尊敬しているし、彼のことを誰よりも信頼している。
兄にとって本とは知識の泉であり、彼にとっての生きる糧のようなものだ。
だからルイスは兄の読書中はどんなに構ってほしくても邪魔をしないし、ただ静かに傍に寄り添って、意味が分からない文字の羅列を一緒になって必死に追いかける。
知識を吸収した後になれば、彼は仕入れた知識をルイスにとても丁寧に教えてくれるのだ。
今は理解出来ない文字の羅列も、兄の説明ならばルイスは理解するに容易い。
その温かくて優しい時間がルイスはだいすきだったから、兄の読書を邪魔しないよう心掛けている。
けれどさすがに、目が霞んで頭がぼうっとしてきてしまった。
こくりと下がる首を懸命に起き上がらせていたら、見かねた兄が本を閉じてしまう。
読書の邪魔をしたくはなかったけれど、じわりと浸食するような睡魔にはどうしても勝てなかった。

「眠たいんだね、ルイス」
「…はぃ」
「おいで」

質問へ意地を張らずに素直に頷けば、兄はルイスの小さな体を抱きしめて背中を優しく摩ってくれた。
時折ぽんぽんと淡く叩かれれば、その心地よいリズムにますます濃い眠気が襲ってくる。
ルイスは下りてくる瞼に逆らわず、赤い瞳を覆い隠してから兄の首に顔を埋めた。

「にいさん…おうた…」
「うん」

ぽんぽんと背中を叩くリズムが聞き慣れたメロディーの音頭を取るように変化していく。
心へ馴染む声に意識を集中させて、ルイスは体の力を抜いて兄へと凭れて寝入る体勢に入った。
そんな弟の様子を見て、兄は同じく紅い瞳を閉じて小さな声で歌い出す。
 かわいいぼうや
 あいするぼうや
 かぜにはっぱがまうように
 ぼうやのべっどはひらりひらり
独特のリズムで歌われるそれは、兄がルイスのためだけに歌うとっておきの子守唄だ。
口もきけない頃から耳に届いていたこの歌は、兄弟二人を繋ぐ大切な音と言葉と感情である。
背中を叩く手とルイスにだけ届くよう小さく絞られた声、そして優しく抱きしめてくれる自分よりも一回り大きな体。
この三つが揃ってようやくルイスは安心して眠ることが出来た。
貸本屋にベッドなどという上等なものはない。
古びた毛布を被って壁に凭れ眠るのがやっとだ。
それでもルイスの眠りが浅いことはなかったし、一日の終わりを兄とともに迎えられることが十分嬉しかった。
優しく届く兄の声を聞きながら、ルイスは彼の服を握りしめて頬を緩ませる。
 てんにまします
 かみさまよ
 このこにひとつ
 みんなにひとつ
 いつかはめぐみを
 くださいますように
何度か歌ってくれるその子守唄を聞いて、ルイスの意識は完全に落ちた。
重たくなった小さな体を抱きしめて、兄は愛おしげにその髪に頬をすり寄せてから「おやすみ、ルイス」と甘く甘く囁いて、もう少しだけ読書を続けようと弟を抱きしめたまま本を手に取った。



親に捨てられたルイスは兄の子守唄を聞いて育ってきた。
むしろルイスに歌を贈ってくれる人間は彼しかいなかったのだから、必然的にルイスにとっての歌とは兄の子守唄以外には存在しない。
酔った浮浪者が奇妙なリズムで言葉を発しているところを見たことはあるが、ルイスは歌として認識していなかった。
そんな最下層の孤児であるルイスに歌を贈ってくれる人間が増えたのは、もう随分と大きくなった頃のことだ。
モリアーティ家の屋敷を住人ごと焼いて、アルバートという兄が一人増えたことにようやくルイスが慣れた頃。
ウィリアムは秋から通う学校への手続きで数日家を空けることになった。
寂しい気持ちを押し留め、ルイスは出来うる限りの満面の笑みを浮かべて「行ってらっしゃい、兄さん」と聞き分けの良い弟を演じて見送った。
本当は一緒に行きたかったし、置いていってほしくなかった。
けれどそれはただの我がままで、言ってしまえばウィリアムもアルバートも困ってしまうだろう。
だから気持ちを押し殺して、「早く帰ってきてくださいね」と懇願するように声をかけ、馬車に乗りこむウィリアムの姿が見えなくなるまで屋敷に戻らなかった。
そんな自分に付き合って長い時間外で待っていてくれたアルバートの手を取り、寂しさを紛らわすように力強く握りしめる。
ルイスの気持ちを理解してか、アルバートは何も言わず小さな手を握り返してから屋敷の門をくぐった。

「眠れないのかい?」
「に、兄様」

ウィリアムが屋敷を空けて三日ほど経った頃、ルイスは部屋を抜け出して応接室のソファに座り込んでいた。
灯りをつけてはアルバートが気にするからと、小さな燭台に蝋燭の火を灯してただただそれをじっと見ては自分の膝を抱えていたら、不意に扉が開いて暗い廊下から四つ上の兄が顔を出す。
戸惑うような表情を浮かべたアルバートの顔を見て、ルイスは気まずそうに瞳を伏せて俯いた。

「…眠たくありません」
「ウィリアムが出てからあまり寝れていないのかな。目元が暗いよ」
「…眠たくならないんです」
「そう…」

ソファに座って膝を抱くルイスの隣に、アルバートは静かに腰を下ろした。
そうして僅かな灯りの中で浮かぶ小さな顔に手を寄せて、暗く色付いた目元に指を添える。
色が白いこの弟は隈が出来てしまうと随分と目立ってしまう。
この分ではウィリアムがいなくなってからほとんど眠れていないのだろう。
跡になってしまってはせっかくの可愛らしい顔立ちが台無しだと、アルバートはどうするべきか思案する。
寂しげに瞳を揺らす小さな弟。
彼が求めているのはウィリアムなんだろう。
自分ではないことに一抹の寂しさが過ぎるけれど、仕方のないことではある。
アルバートだって初めて弟に対して庇護欲だの愛情だのを自覚したのだから、こんなときにどうしてあげればいいのか分からなかった。
きっとウィリアムならば良いように立ちまわるのだろうと考えて、彼の真似をするようにアルバートはルイスの髪に触れた。
ふわふわと指に絡むそれを好ましく思いながら、驚いたように顔を上げた弟の顔を見て極力優しく微笑んだ。

「眠れないなら眠れるまで付き合ってあげよう。独りは寂しいだろう?ルイス」
「で、ですが…アルバート兄様は眠くないのですか?」
「大丈夫。君が眠くなるまで一緒にいるよ」
「兄様…」

多分この子は孤独に弱い。
今までずっとウィリアムに守られて生きてきたこの子どもは、一人という状況にたまらなく弱いのだ。
自分でその孤独を解消してあげられるとは思わないけれど、ルイスの兄という立場として、アルバートは甘やかすように髪を撫でては名前を呼ぶ。
揺らいでいた赤い瞳が少しだけ凪いでいくのに気付いて、気持ちが僅かに明るくなった。

「ルイスは眠れないとき、いつも一人で起きているのかい?」
「いえ、そもそもあまり眠れないということがないので…」
「そう。あと二日もすればウィルが帰ってくる。もう少しの辛抱だよ」
「…はい」

ぽつりぽつりと短い会話を続けていると、大きな赤い瞳が期待するようにアルバートを見上げていた。
おや、と思う前にルイスは戸惑いながら口を開く。

「兄様の声は優しいですね」
「…初めて言われたな、そんなこと」
「そうですか?とてもお優しいと思います」
「ありがとう、嬉しいよ」

微笑むように頬を緩めるルイスからの突然の褒め言葉に、アルバートは一瞬だけ驚いたように目を見開いてから穏やかに微笑み返す。
あまり自分の声に対する客観的評価を聞いてこなかったからいまいちピンとこないが、可愛い弟に褒められて悪い気持ちはしない。
優しいと評された声に意識して優を乗せて、アルバートはもう一度その名を呼んだ。

「…昔、兄さんが子守唄を歌ってくれたんです」
「子守唄?マザーグースかい?」
「いえ、どうやら何かのファンタジーに出てきたもののようです。マザーグースの歌ではありませんでした」
「そう。優しいね、ウィリアムは」
「兄様は子守唄を聞いて眠ることはありましたか?」
「乳母が歌っていたのをぼんやり覚えている程度かな。一般的な、ありふれたマザーグースの歌だよ」
「そうですか」

突然の会話の切り替えにアルバートが違和感を覚えていると、変わらずルイスは期待するように兄を見上げていた。
大きな瞳がきらきらとしていて、先ほどまでの孤独に揺らいでいた色はどこにもない。
何を言いたいのだろうかと考えるまでもなく、この末っ子が望んでいるのはたった一つだ。

「…歌おうか、子守唄」
「!本当ですか?」
「あまり歌は得意ではないけれど、それでも良いのなら」
「嬉しいです、兄様!」

声を褒められて、最愛の兄が子守唄を歌ってくれたと話しているのだから、ルイスがアルバートに求めているのは子守唄だ。
眠りに就くためではなく、心の安寧のための子守唄。
普段は背伸びしているくせに、まだまだ子どもらしい甘えを見せてくれるところがおかしくも可愛らしい。
学生生活で最低限の歌唱は学んでいるが、果たしてこの子どものお気に召すものだろうかと、アルバートは少しばかり緊張しながら口を開いた。
そうして昔聞きかじった程度の歌を声に乗せてルイスに贈る。
 Rock-a-bye baby, on the treetop,
 When the wind blows, the cradle will rock,
 When the bough breaks, the cradle will fall,
 And down will come baby, cradle and all.
変声期を迎えてやや低くなったばかりのアルバートの声は、とても優しくルイスの耳に届いた。
どこかで聞いたことがあるようなないような、あまり馴染みのないメロディーと歌詞だった。
けれどとても心が落ち着く。
ルイスは瞳を閉じて、アルバートの声だけに意識を集中させるようためソファに凭れた。
こんなにも優しい歌なのに、乳母に歌われただけで記憶はおぼろげだという。
ならばこの歌はアルバート自身が本来持つものなのかと、ルイスは改めて彼の持つ優れた一面を実感した。
余韻を残すように歌い上げたアルバートは、僅かに滲んだ羞恥を誤魔化すようにルイスの額に手をやって、かかる前髪を掻き上げる。

「どうだったかな」
「とても素敵でした、兄様。兄様はお歌も上手なんですね」
「それはありがとう」
「マザーグースの歌を僕に歌ってくれたのは兄様が初めてです」
「そう。有名な歌ではあるけれど、ルイスにはウィルが贈ってくれたものがあるからね」

大事にすると良い、とアルバートはそう言ってルイスのふわふわ髪を何度も撫でる。
撫でながら鼻歌のようにリズムを贈ってくれて、ルイスはほっこりとした優しさで満たされた。
ウィリアムがおらず孤独を感じていたことが嘘のようだ。
今はアルバートがいるのだから一人ではない。
子守唄を贈ってくれる人が二人もいるのだから、寂しさを感じている暇はないのだ。
アルバートの傍で満たされる自分に気付いたルイスは、先ほどまでは少しも感じていなかった眠気を実感した。
心地よい睡魔がルイスの体に襲い掛かってくる。

「…ふぁ…」
「おや、眠くなったのかい?」
「…ん、はい…」
「それは良かった。僕の子守唄も中々の効果だね」
「…また歌ってください、兄様」

暗い部屋の中、優しい兄に向けてルイスは子どもらしい表情で次を約束しようと口を開く。
また聞きたいと、懇願するようにアルバートの服を握っていると、「勿論。いつでも構わないよ」としっかり約束してくれた。
あぁ、やっぱり優しい人なのだ。
二人目の兄が彼で良かったと、そう思いながらルイスはアルバートと共に部屋を出て寝室に向かって行った。


アルバートの歌唱力はさすがイートン校の学生として学んでいる分、芸術に疎いルイスですら完璧と思わざるを得ないものだった。
イートン校の主席は芸術面においても秀でているらしい。
さすが兄様です、とルイスが誇らしく思うのもつかの間、記憶の中のウィリアムの子守唄を思い出す。
貸本屋から孤児院に移り、自分よりも年下の子と接する機会が増えてからは、ルイスも兄貴分として振舞うことが多かった。
ウィリアムの子守唄を聞く機会もめっきり減ったし、モリアーティ家に引き取られてからは一度も聞いていない。
過去の思い出だから記憶が曖昧なのかもしれないと思ったのだが、あれだけ何度も聞いた歌なのだから間違っているとも思えない。
何となく、本当に何となくなのだが、ルイスの記憶の上ではウィリアムの子守唄は所々音程が怪しかったような気がするのだ。
気のせいかもしれないが、ウィリアムはあまり歌が上手くないのかもしれない。
完璧な兄に相応しくない現実に、ルイスは一人で首を傾げていた。

「兄さん、今日は一緒に寝ても良いですか?」
「良いよ。今晩、僕の部屋においで」
「はい」

出ていたウィリアムが帰ってきた日の夜、ルイスは大層喜んでウィリアムから離れなかった。
可愛い弟に懐かれて悪い気持ちになるはずもなく、ウィリアムも久々の弟を堪能するように構い倒してはゆったりと微笑んでいる。
そうして出たルイスの甘えにウィリアムは喜んで返事をした。
期待していた通りの言葉を聞いて、ルイスは白い頬を染めて喜んでいる。

「兄さんが昔よく歌ってくれていた子守唄、覚えていますか?」
「覚えてるよ」
「歌ってくれますか?」
「…懐かしいね。いいよ」

ベッドに横たわった状態で抱きしめられ、背中をぽんぽんと叩かれる。
その仕草は記憶の通り穏やかなもので、ルイスは懐かしさと愛しさで頬が緩む。
昔と同じようにウィリアムの首に顔を埋め、瞳を閉じて耳に馴染むウィリアムの声に集中する。
そうして歌われる、ルイスのためだけの子守唄。
綺麗な声で歌われるそれは記憶のままで、とても懐かしくてこそばゆくなる。
愛おしさを込められた歌にはたくさんの思い出が詰まっている。
良いことも悪いことも思い出すけれど、そのどれもにウィリアムがいたからこそルイスは今まで生きてこられたのだ。
だからルイスにとって特別で、きっとウィリアムにとっても特別なものだろう。
めぐみをくださいますように、と歌い上げた声に聞き惚れながら、ルイスはぼんやりと確信した。

「(…兄さん、あまりお歌が上手じゃありませんでした)」

世界にたった一つ、自分のためだけに歌われるウィリアムの子守唄。
とても優しい声で、愛おしさを存分に込めたその歌い方には歌唱力が伴っていなかったらしい。
先日聞いた、完璧に近いアルバートのマザーグースを聞いたばかりなのも要因の一つだろう。
記憶の通り所々違和感のある音程は、敢えてずらしているのではなくただそう歌ってしまうだけなのだ。
初めて聞く人間が聞けばおそらくその違和感に眉を顰めるだろうこの歌は、それでもルイスにとっては大事な大事な一曲だ。
ウィリアムが懸命に歌う音程のずれたこの歌こそ、ルイスのとっての思い出の子守唄なのだから。
耳障りなどと思うはずもない。

「また歌ってくださいね、兄さん」
「あぁ。おやすみ、ルイス」
「おやすみなさい」

ずれた音程を指摘すればウィリアムは気を悪くしてしまうかもしれない。
完璧主義の彼のことだから、照れてもう歌ってくれなくなるかもしれない。
そう考えなくもないが、ルイスにはとんと甘い兄だから、気を悪くすることも歌わなくなることもないだろう。
精々が気恥ずかしそうに笑うくらいだ。
ルイスはウィリアムの首に顔を埋めたまま寝入ろうとゆっくりと深く息をした。
秋からはイートン校へ入学してしまう兄。
聖歌の授業があると聞いたから、もしかすると歌が上手くなってしまうかもしれない。
それこそ壇上で一人高らかに歌い上げるほど歌唱力を上げて、より完璧に近い人になってしまうのだろう。
そうなってしまっては少し寂しい。
完璧とは言えない歌声を持つ今のウィリアムが、ルイスはすきなのだ。
完璧に近づいたウィリアムも勿論だいすきだろうが、今のままの彼でいてほしいという気持ちは無くしきれない。
出来ればこの子守唄だけは少々ずれた音程のまま歌い続けてくれないだろうかと、ルイスは寝落ちる寸前の思考回路で考えた。


(…ウィルは中々個性的な歌声を持っているね)
(アルバート兄様、ウィリアム兄さんの歌を聞いたのですか?)
(ルイスに歌う子守唄を教えてもらおうと思ってね。あの見た目からは想像も出来ない歌唱だった)
(僕にとってあの歌が一番安心出来ます。…音程が怪しいのは確かですけど、でもあれはあのままが良いんです)
(そう。僕にはとても真似できそうもないから、正真正銘、ウィリアムからルイスに贈るためだけの歌だね)
(兄様にはマザーグースの歌を歌っていただきたいです。あの歌も兄様が歌ってくださるなら僕にとって特別です)
(ほう…可愛いことを言うね、ルイス)

のらくらり。

「憂国のモリアーティ」末弟中心ファンサイト。 原作者様および出版社様、その他公式とは一切関わりがありません。

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