煙草、ご一緒しても良いですか
思春期でぐらつくルイス(13)と大人モラン(25)の話。
ウィリアムとアルバート兄様が望む弟になりたいのになれないルイスがもだもだしてる。
モランがウィリアムに拾われてからしばらくの間、彼はモリアーティ家の屋敷に厄介となっていた。
彼ら三兄弟は世話になっていたロックウェル家を出たばかりの頃であり、子どもだけでは物騒だろうとモランは考えたのだ。
どうせ行く宛などどこにもないのだから、生きる目的を捧げた相手がいる屋敷でしばしの休息として平凡すぎる毎日を過ごすのも悪くない。
三人で過ごすには広すぎるこの屋敷の中、モランは寝たいときに寝て起きたいときに起きる、そして食べたいときに食べてヤりたいときには街に出るという、自由気ままな生活を送っていた。
「それ、臭いが付くので屋敷の中では吸わないでいただけますか」
「…へぇへぇ」
三兄弟の中で一番下、末弟のルイスはウィリアムの実弟だという。
ウィリアムに忠誠を誓ったときに三兄弟の生い立ちについては一通り聞いていたが、聞かずとも二人の関係についてはそれとなく推察することが出来た。
何せ二人の顔はよく似ている。
少しばかり伸ばされたアシンメトリーの前髪は酷い傷跡を隠すためのものだろう。
ルイスの持つ整った顔に存在する火傷はアルバートの家族を焼いたときに出来たものらしい。
今までに何度もそんな跡は見てきたし経験してきたモランでさえ、幼いながらも綺麗な顔面にある大きな火傷へはついつい哀れみを覚えてしまう。
それが狙いなのだと知ればモランもさぞかし驚くのだろうが、敢えてルイスがそれを伝えることはなかった。
幼い彼は屋敷の中で煙草を吸い始めたモランに対し、憮然とした表情と声で恐れることなく大柄な彼に己の要望を伝えている。
「吸うならどうぞ外で吸ってください。灰は落とさないようお願いしますね」
「分かってるよ」
モランは表情を変えることのない、淡々としたルイスのことがあまり得意ではない。
ウィリアムとアルバートに付き従う影のような存在で、特別秀でたものもなさそうな平凡な少年だ。
出会ったばかりで馴染んでいないせいもあるのだろうが、それでも子どものくせに徹底して己を出そうとしないその精神は気にくわなかった。
人見知りをしているのかもしれないし、臆病なのかもしれない。
年を聞けばモランよりも丁度一回りも下だという。
それすらルイス本人ではなくウィリアムから聞いた情報なのだから、モランにとってのルイスとは自分のことを話したがらない頑なな子どもに過ぎなかった。
けれどもウィリアムの弟であるならば守ってやるしかないかと、モランは元々の面倒見の良さから勝手にルイスを庇護対象に置いている。
その庇護対象である子どもの忠告通り庭に出たモランは吸い始めたばかりの煙草を燻らせて、肺の中を薄汚れている煙で満たしては心を落ち着かせた。
「煙草は体に悪いと聞きます。何故わざわざ吸うんですか?」
日々を気ままに過ごすモランの元に、長く伸びた前髪を揺らしたルイスがやってきた。
彼は勉強の合間に屋敷の仕事をこなしているらしく、小さな体にそぐわない仕事量を担っているらしい。
時折手伝えと言われて手伝うこともあるが、なるべく自分でやりたいのだという気持ちがその体から溢れているのだから、モランも無理に手伝うことはしない。
大方、ウィリアムとアルバートのために頑張りたいのだろう。
短い付き合いのモランにさえ、ルイスが二人の兄へ献身的で依存的なことくらいすぐに分かってしまった。
「吸ったことのないおまえには分からねぇだろうがな、こいつには気分を楽にさせる効果があるんだよ。中毒性があるから体に悪かろうが何だろうが、その快楽目当てに吸っちまうもんなんだ」
「…気分を楽にさせる」
いつものように庭で煙草を燻らせていたモランの少し隣にルイスは腰を下ろした。
あまり近寄ることのない子どもが寄ってきたことに違和感を覚えるが、どうせただの気まぐれだろう。
仕事を終えて手が空いたのに、どちらの兄も忙しくて暇なのかもしれない。
モランは時間潰しには丁度良いかと、気にせず口から紫煙を吐き出した。
「…一本」
「あ?」
「一本、頂いても良いですか?」
赤い瞳がモランの黒い瞳を射抜く。
真剣なその眼差しにはぞくりとするような圧が備わっており、やはりこの子どもはウィリアムの弟なのだと実感せざるを得なかった。
「おまえが吸うのか?」
「はい」
冗談でないことはその赤を見ればよく分かる。
けれど品行方正を絵に描いたような良い子ちゃんの彼が、わざわざ害のある紫煙を求める理由は分からなかった。
別に吸う分には構わないけれど、記憶を探る限りはアルバートもウィリアムも煙草を好んでいる様子はない。
モランが吸っていても咎めることはないが、彼らが吸っている様子を見たことは一度もないのだから愛煙家ではないはずだ。
だというのに、何故この子どもは煙草に興味を持ったのだろうか。
「…やめとけ。おまえ、昔は心臓悪くしてたんだろ。煙草は心臓に良くないって聞くからな」
「もう完治しています。ウィリアム兄さんとアルバート兄様が過度に心配しているだけで、主治医にも完治を言い渡されました。問題ありません」
「だからってな…」
渋るモランの指にある煙草は消えることなく火を灯している。
ゆらり立ち上る煙を嫌がる様子もなく、ルイスはただモランの反応を待っていた。
無理矢理に奪うことはせず、ただ相手の出方を待つ姿勢はモランには考えられない品の良さだ。
真っ直ぐに自分を見つめる小動物のような存在に、モランの方が折れるしかなかった。
本人が構わないというのならば、たとえその兄がどう考えていようとモランに拒否する理由はない。
「…ほらよ」
「ありがとうございます」
「火は自分で付けられるか?」
「貰えると嬉しいです」
胸ポケットから一箱取り出し、中身を取るよう促した。
細い指で一本拝借したルイスはモランが付けるライターに煙草を近づけ、先端が明るく灯ったのを確認して口元に持っていく。
初心者らしく不恰好なその姿は様になっていないのだろうが、容姿が幼いためにある意味では様になっていた。
まるで今のルイスは背徳感の塊のような子どもだ。
瑞々しい果実のような唇が害悪の塊である白い棒を咥えている様子は少しばかりモランの良心を咎める。
軽く吸ってからくすんだ息を吐き出しても、ルイスが浮かべる淡々とした表情には何も変化がなかった。
「…気分が楽になるのはいつでしょうか」
「さぁな。個人差があるから、おまえに絶対合うってもんでもねぇよ。吸い続けてみたら分かるんじゃないのか」
「そうですか」
淡々と、何も映していない赤い瞳を庭の景色に向けながらルイスはモランと並んで煙草を燻らす。
苦いだとか煙たいだとか、そういった一般的な感想は一切出てこなかった。
まだまだ子どものくせに楽になりたいなど、随分と穏やかでないことだ。
モランはそのとき初めてルイスという子どもに興味が湧いた。
この小さな体にはちゃんと相応の感情を備えているらしい。
ただぬくぬくとウィリアムとアルバートに保護されているだけの弟というわけではないようだ。
もう短くなった煙草をケースに押し付けて、モランは口角を上げてルイスが一服し終わるのを待っていた。
それから数回、モランが煙草を吸っているときにルイスが寄ってきて、彼の真似をするように煙草を燻らせることがあった。
美味いとも不味いとも気分が良いとも悪いとも言わず、ただただモランの隣で静かに紫煙を吐き出すルイスの姿には、普段の品行方正で良い子な雰囲気など一切ない。
どこか不安げで寂しそうな、孤独を携えた年相応の子どもに過ぎなかった。
家族がいて、その兄に大事にされているであろうこの子どもにどうしてそんなことを思うのか、モラン自身よく分からない。
けれど、モランは己の直感が外れているとは思わなかった。
過去とはいえ孤独の闇に身を投じていた経験からして、ルイスという子どもはまず間違いなくモランと同じ思いを抱えているはずだ。
全く、小さな体のくせしてどんだけ重たい感情を抱えているんだか。
モランは何を言うでもなく、煙草を渡して火を灯してあげるだけを繰り返していた。
「…モランさんは、煙草を吸って楽になりますか?」
「ん?あぁ、そう感じるときもあるな」
「そう感じないときもあるんですか?」
「まぁな。習慣付いてるせいで、吸ってる方が落ち着くときもある。意味なく吸うときもあるし、単に気楽さを求めて吸うだけじゃねぇよ」
「…そうですか」
初めてのときよりもずっと様になる仕草で煙草を吸うルイスの姿は容姿に見合っていない。
けれども僅かに滲む憂いには十分似合っていて、もう手慣れたものだった。
短くなったそれをモランの持つケースに押し付け火を消して、ルイスは膝を抱えながら会話を続けている。
「吸えば楽になれるかと思ったのですが、そうでもないようですね」
「そうか」
「いくら吸っても少しも気は楽にならないし、落ち着くこともない。虚しさばかりが募っていきます」
「虚しさ、な…おまえ、何考えてんだよ」
「…」
「話したくないなら良いけどよ、ウィリアムにもアルバートにも話せないなら俺が聞いてやる。あいつらにバラしたりはしねぇよ」
「…」
「話せよ、ルイス」
一度だけじゃなく、もう何度もともに煙草を燻らせた間柄だ。
モランとルイスの間には親愛もなければ信頼もない。
けれどお互いが抱えるものは似通っていて、そういう意味では同士といって差し支えないだろう。
一回り下の子どもが僅かとはいえ苦痛に表情を歪めているのを黙って見過ごせるほど、モランは冷酷な人間ではなかった。
大きな赤い瞳がモランを見上げて、戸惑うように口が開くのを辛抱強く待つ。
「…ウィリアム兄さんと、アルバート兄様は、お二人とも完璧主義なんですよ」
「そうだな。何となく分かる」
「お二人自身が完璧で、だからこそお二人とも完璧なものを求めておられる。だから僕も、そうありたいと思っているんです」
「そうか」
モランを見上げていた瞳はまたも伏せられて、ルイスは抱えた膝に顔を乗せて虚ろな瞳で前を見る。
声にはいつもの張りはなく、今にも消え入りそうな弱々しい音だった。
「お二人が望む完璧で、手のかからない良い子でいようと、頑張ってきました」
「あぁ」
「…でも最近、少し、疲れてしまって」
掠れた声に滲む悔しさは、思い描く自分になれないことへの焦燥感からくるものだろうか。
いや、兄達が思い描くだろう自分になれないことが、ルイスにとっては苦痛なのかもしれない。
今にも消えてしまいそうなほど小さく背中を丸める子どもは、愛情に飢えている子どもと何ら変わりなかった。
「どれだけ頑張っても、僕はお二人が求める弟にはなれないんじゃないかと思うんです。…お二人はいつまで経っても、僕のことを認めてくださらない」
「…そんなことねぇだろ」
「いいえ」
口吃ったモランの言葉を、ルイスは頭を振って否定する。
ウィリアムにもアルバートにも大事にされていると思う。
嘘偽りなく、二人からはたくさんの感情をもらっているのは間違いない。
けれど、ルイスが求めるのはそんな関係ではないのだ。
二人の庇護下に置かれている関係ではなく、ルイスはウィリアムとアルバートとも対等にありたいと思っている。
守られているだけではなく彼らを守ることが出来る人間になりたいと、ルイスはそう考えているのだ。
だがそんなルイスの思いは二人に届くことはなくて、いつだって彼らは彼らの中で話を終わらせてしまう。
ルイスを仲間に入れてくれることはない。
始めは仕方がないことだと思っていた。
心臓を患い臥せていた時期があったのだから、追いかけていけばいずれ二人の間に入れてくれるだろうと思っていたのだ。
けれど、どんなにルイスが健康をアピールしても懸命に勉学に励もうと二人のために在ろうと努力しても、彼らにそれが伝わることはなかった。
結局ウィリアムとアルバートの中で自分は守るべき対象で、言うなれば弱みに過ぎないのだと実感させられるだけだった。
「ならばと思い、せめてお二人の邪魔にならない良い子であろうと、お二人の弱点にだけはなるまいとしてきたんです。でも、そうしなければ彼らの側にいられないことが、少しだけつらくて」
「…」
「ウィリアム兄さんにもアルバート兄様にも必要とされない僕は、生きていても仕方がない」
モランは今初めて、ルイスという子どもが抱えている感情を知ることが出来た。
子どものくせに子どもらしくないと考えていたが、やはり中身は年相応の子どもに過ぎなかった。
迷って考えて悩みながら行動して、それでも自信が持てない不安定な年頃だ。
胸ポケットから新しい煙草を取り出し火をつけて、モランは大きく息を吸った。
「あいつらがいなかったら、おまえは生きてても意味がないって言うのか」
「…」
「本当にそう思ってんだな?」
「…ウィリアム兄さんとアルバート兄様がいないなら、僕が生きている意味なんてない」
「…なるほどな」
想像以上に依存的で、己の意思がないような言葉だった。
けれど実際に、ルイスは彼らがいなければこの英国で生きていく意味などないのだろう。
それだけの重さがこの子どもからは感じられる。
何ともまぁ滑稽で、哀れなことだった。
「良い子でない僕でも、お二人は必要としてくれるのでしょうか」
虚ろな目でぽつり呟いた声は一際小さくて、風に吹かれてすぐに消えた。
疑問ではなく、ルイスの中でははっきりと答えが出ているのだろう。
「…必要としてくれるわけがありませんよね。良い子であろうとしている今の僕でさえ、ウィリアム兄さんにもアルバート兄様にも必要とされていないんですから」
空っぽな表情で乾いた笑いをこぼして独り言のように呟くルイスの姿は、モランの目には居場所を探している愛に飢えた子どものように映る。
仲睦まじく見えた三兄弟の末っ子がこんな感情を抱いていることを、二人の兄は知っているのだろうか。
おそらくは知ることなく、ただただ本能的に庇護下へと置いているに違いない。
モランにだけ吐き出されたルイスの本音を知ればあの二人、一体どんな反応をするのかは想像に容易かった。
何故なら同士になって日の浅いモランでさえ、ルイスのことを庇護対象に置いていたのだから。
「それ、あいつらに言わないのか」
「言えるわけありません。お二人の手を煩わせることになる」
「おまえはそれで良いのか」
「…」
「…少しくらい、本音で語り合っても良いんじゃないのか。おまえもウィリアムも、アルバートの奴もよ」
「…本音を話して、疎まれたら?もしアルバート兄様に捨てられたら。ウィリアム兄さんに置いていかれたら。…それこそ、もうどうにもならないでしょう」
「…そうかよ」
捨てられたくない、置いていかれたくない、そのためなら自分を偽ってでも二人の側にいてみせると、孤独に満ちた表情には確固たる決意が見えた。
関係の浅いモランが下手に首を突っ込んでも良い方向には解決しないだろう。
三人のことは三人で解決するのがベストだ。
モランはいつのまにか短くなっていた煙草をケースに押し付けて、その代わりに空いた手で小さな頭を乱暴な仕草で撫で回した。
ふわりとくすぐる髪は柔らかくて、まるで猫を撫でているような心地にさせられる。
「っ、な、何ですかいきなり…」
「よく話したじゃねぇか」
「え?」
「そんな心配しなくても、あいつらはおまえのことをちゃんと必要としてくれるさ」
「…何を根拠にそう言うのですか」
「おまえがあいつらの弟だからだ」
「…弟」
「少しくらい本音ぶちまけてもあいつらは受け止めてくれるはずだ。そこまで器が小さいはずねぇよ、あのウィリアムとあのアルバートだぞ。安心しろ、ルイス」
「…」
「話せねぇってんなら俺んとこに来い。煙草くらいいつでも分けてやるし、愚痴くらいいつでも聞いてやる」
「…モランさん」
ウィリアムよりもアルバートよりも大きな手は、ルイスにとって初めて経験する大人の手だった。
大きな身長に見合った手には普段からは感じられない包容力を感じられる。
知らず知らずに膨らんでいた感情はルイス一人で抱えるには重すぎて、楽になりたくて大人の真似事として煙草を吸ってみたけれど、何も変わることはなかった。
けれど何も言わずにルイスが煙草を吸い終わるまで待ってくれて、とりとめもない話をちゃんと聴いてくれて、ルイスの心は確かに落ち着いたのだ。
モランが持つそれはウィリアムともアルバートとも違う、不思議な心地をルイスに与えてくれた。
「…モランさんは、まるでお父さんみたいですね」
「おまえ、そこはお兄さんだろ。そこまで歳食ってねぇよ」
「僕にとっての兄はウィリアム兄さんとアルバート兄様以外にいません」
父の記憶も母の記憶もないルイスにとって、兄以外の家族を知ることはない。
けれど静かに自分の思いを聞いて寄り添ってくれたモランを例えるならば、きっと父という存在になるのだと思う。
包容力があって必要なときにはきちんと支えてくれる人間を、人は父と呼ぶのだろう。
「…ありがとうございました。少しだけ楽になった気がします」
「そうか。そりゃ良かったな」
「また煙草、ご一緒しても良いですか」
「あぁ」
寂しげな表情はそのままだが、少しだけ明るくなったルイスの顔を見てモランは新しい煙草を取り出した。
深く吸って勢いよく紫煙を吐き出したモランを横目に、ルイスは一人屋敷の中に帰っていく。
いつかはちゃんと自分の気持ちを話せるようになれば良いと、モランは青い空に混ざる薄汚れた煙を見つめている。
そろそろモリアーティ家を出るつもりだが、それまでの間は子どもらしい子どもと並んで煙草を燻らすのも悪くないだろう。
そうしてウィリアムの計画が完成して、いつかまたこの屋敷に帰ってくることになったそのときには、三兄弟が三兄弟らしく過ごしていれば良いと思う。
結局あの子どもに煙草は似合わないのだし、こうして煙草をともに吸うことも最後になれば良い。
モランはそんな願いを込めて、ただ静かに煙で肺をいっぱいにした。
(モラン、最近ルイスと仲が良いみたいだね)
(そうか?…まぁ、そうかもな)
(…何か、ルイスが迷惑をかけていることはないかな?)
(別にねぇよ。最初はいけすかねぇガキだと思ってたけど、あいつも案外普通の子どもなんだな)
(…そう。それなら良いけど)
(安心しろ、何もおまえの弟を取ったりしねぇよ)
(モラン、ルイスに何かあればまず僕に報告してほしい)
(分かってる、心配すんな)
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