好物はバウムクーヘン。
モリミュバクステを見た瞬間からルイスの好物にバウムクーヘンが追加されました。
19世紀末英国にバウムクーヘンが存在したか怪しいことは百も承知です。
「…これ、美味しいです」
真っ白い頬を淡く染め、あまり表情を乗せない顔にはにかんだような笑みを浮かべる弟の存在は、それはもういとも簡単に二人の兄の心を射抜いてみせた。
ロックウェル伯爵の屋敷を離れたモリアーティ家の三兄弟は、ようやく家族三人だけの新しい生活を始めることが出来た。
まだ年若いアルバートが伯爵という地位を引き継ぐことに難色を示す貴族は大勢いたが、そんな悪評をのらりくらりと躱して堂々たる様でアルバートが爵位を受け継いだのは先日のことである。
優雅で気品漂いながらも、その身から溢れ出る伯爵然とした気高いオーラは周囲の人間を圧倒した。
若く美しいアルバートが伯爵という地位を手に入れ、多少の我が儘も押し通せるだけの権力を得て始めに実行したのは、弟であるウィリアムとルイスの二人とともに新しい生活を築いていくことだった。
実の両親とも実の弟とも馴染めず、それどころか血の繋がりすらも穢らわしいと考えていたアルバートにとって初めての家族、初めての弟が彼ら二人だ。
今後の計画のためにも余計な介入が入らない、機密性に優れた空間で互いを理解したかった。
そんなアルバートの気持ちは言わずともウィリアムには簡単に知れていて、ルイスだけがただ単純に三人だけの生活を喜び嬉しんでいる。
そうして伯爵としての地位を引き継いだアルバートの元には様々な贈り物が届けられ、その中に街で評判の菓子を詰めたギフトがあった。
まるで大木の年輪のような形をしたそれはバウムクーヘンという名のケーキだという。
「変わった形をしていると思いましたが、とても美味しいです。こんなに美味しいお菓子、初めて食べました」
仄暗いけれど鮮やかな赤い瞳を煌めかせ、ルイスはカトラリーを握りしめて兄を見る。
すきも嫌いも表に出すことのないルイスがはっきりと好意を表現する様をアルバートは初めて見たし、ウィリアムにとっても記憶に古くて思い出すのも億劫なほどだ。
ルイスが執着するのは兄であるウィリアム以外に存在しない。
ウィリアムが是と言えばルイスにとって正しいことで、ウィリアムが否と言えばルイスにとって悪そのものである。
強いて言うならばウィリアムのすきなものがルイスのすきなもので、ウィリアムが嫌いなものはルイスの嫌いなものだった。
ルイスはあまりにも自己のない、移ろいやすい性質を持っている。
特にアルバートに拾われる以前、孤児だった頃には己の欲求を出したところで煩わしいのだと早々に理解してしまったらしく、ウィリアムはルイスの口から我が儘らしい我が儘を聞いたことがない。
裕福な暮らしではなかったし、己の悲願のためにも節制できるところは切り詰めたいと考えていたこともあり、深く追求することもなく盲目的に付いてくるルイスの手を引いて生きてきたのだ。
移ろいやすく染まりやすいルイスが今はっきりと好意を示しているのは、異国で生まれた菓子である。
カトラリーを握りしめている小さな手からその熱意が伝わってくるようだった。
「そう、良かったね。確かに珍しい形をしているけれど、とても美味しい」
「しっとりしているのにふわふわした食感がします。甘くて美味しいです」
「本当だね。こんなに美味しいもの、僕も初めて食べたよ」
「はい!アルバート兄様、ありがとうございます」
「僕から贈ってくれた方に御礼の手紙を書いておこう」
無邪気に喜んでいるルイスを見て、ウィリアムは心から安心したように微笑みかけて同意を返す。
常に気を張って自分の後ろに隠れて周りを警戒していた弟が、今この場所と瞬間でこんなにもうち解けた様子で過ごしていることが嬉しくて堪らないのだ。
ルイスの世界には自分だけがいれば良いと思っていたが、アルバートという存在と出会ってからは彼にもルイスの世界に入っていて欲しいと願っていた。
兄と弟の仲が段々と縮まっていく様子を見ているのは存外楽しくて、初めてルイスが「アルバート兄様」と呼んだときはもしかするとアルバート本人よりもウィリアムの方が感動していたかも知れない。
ルイスが安心して過ごせる対象が増えるのはウィリアムにとっても心強い。
甘くて美味しいバウムクーヘンという菓子の存在を素直に喜べるほどルイスの心が解けているのかと思えば、これほど愛しいこともないだろう。
あっという間に食べ終えてしまった空っぽの皿を見て、ウィリアムは自分のケーキを彼の前に差し出した。
「はい、僕の分も食べていいよ」
「え…でもそれは兄さんの分です。頂けません」
「ルイスが用意してくれた昼食のおかげであまりお腹が空いていないんだ。少し手伝ってくれると嬉しいな」
「で、でも…」
「良いじゃないか。ウィルがそう言うのだから受け取っておきなさい、ルイス」
「…では」
ありがとうございます、とルイスは己に差し出されたフォークに乗ったケーキのかけらにパクリと食べ付いた。
もぐもぐと口を動かす様子はまるで小さく愛らしい愛玩動物のようで、知らずと心が癒される。
美味しいと笑っていた表情もさることながら、普段は甘えなど見せず自律した弟が不意に見せる年相応の甘やかさにはウィリアムもアルバートもとても弱いのだ。
加えて、アルバートからすれば他の人間の手ずから物を食べるなど卑しいことでしかないはずなのに、それが仲睦まじく可愛らしい弟たちによるものだと思えば途端に肯定的になってしまった。
雛鳥のように疑いもせず差し出されたウィリアムのケーキを食べるルイスには庇護欲を刺激され、慈愛に満ちたウィリアムの表情は幼さを残しながらもとても美しい。
見ていて飽きることはない自慢の弟だと、短い付き合いだというのにすっかり二人の保護者気分だ。
短いけれど濃厚な時間を過ごしてきた結果なのだろう。
「機会を見てまた用意してあげよう。楽しみにしておいで」
「ありがとうございます、アルバート兄さん。良かったね、ルイス」
「…はい。ありがとうございます、兄様」
アルバートの申し出に一瞬戸惑ったようにウィリアムの顔色を伺い、にっこりと笑う彼を見てやっとアルバートの言葉を受け入れて良いのだと理解した。
孤児だった頃もアルバートに拾われた当初も菓子の類は滅多に食べられなかったし、これほど上質なものは初めて食べた。
また食べられるのは単純に嬉しいし、自分に優しくしてくれるアルバートの好意もとても有り難い。
バウムクーヘンという菓子は好みがなかったルイスの中に極々自然に落ちてきてくれて、敬愛する二人の兄とともに食べられたことと併せて嬉しかったのだ。
もう一度同じような時間を過ごすことが出来るのならば願ってもない幸福だ。
ルイスはアルバートの顔を見て、ありがとうございます、とはにかみながらもう一度礼を言った。
ルイスの好物はバウムクーヘンだと認識してからの兄は極端だった。
成人した今でも出張の帰りや学会のついでに買ってくる土産には決まってバウムクーヘンである。
さほど種類があるわけでもないというのに、わざわざショコラでコーティングしたものや蜂蜜を使ったものなどを見つけてきては飽きることなくルイスへと贈っていた。
その度にルイスは整った顔をわずかに幼く緩め、ありがとうございます、と嬉しそうに受け取ってくれるのだ。
ケーキ以上に甘い表情と心からの言葉に、ウィリアムとアルバートは何度癒されたか数え切れないほどである。
そうしてルイスの手で切り分けられたバウムクーヘンとルイス特製の紅茶によるティータイムは、三兄弟にとってとても大切で思い出深い時間になっていた。
「ルイス、何持ってんだ?」
「モランさん、フレッド。これはウィリアム兄さんが買ってきてくださったバウムクーヘンですよ。召し上がりますか?」
「バウムクーヘン…この前、アルバートさんも同じものを持ってきていませんでしたか?」
「えぇ。兄様が以前バーミンガムへ出張に行った際に、手土産として持ってきてくださいましたね」
「ウィリアムもアルバートも、何でわざわざ同じもんを買ってくるんだ?」
「お二人とも別の店のものを買ってきてくださっていますよ。飽きはこないかと思いますが」
「そうじゃなくて、何で出かけるたびに同じ菓子を買ってくるかって話だよ」
「…僕がバウムクーヘンを気に入ってるから、でしょうか」
「ルイスさんが?」
ケンブリッジにある大学へ出張と称した会合に参加してきたウィリアムから手渡されたのは、綺麗にラッピングされた菓子の箱だった。
落ち着いたらお茶の用意をお願い出来るかな、という言葉とともに受け取るが、封を開けずともその中身には予想が付いている。
きっとこの中には大木を思わせる、変わった形のケーキが丸々収められているのだろう。
ルイスにとって兄がバウムクーヘンを用意してくれることに何の疑問も持っていないが、再開して久しいモランとフレッドには不思議な光景として映るのかもしれない。
赤い瞳を丸くして、けれどすぐに元通り澄ました色を取り戻した。
「ルイスさん、バウムクーヘンがすきなんですか?」
「…えぇ、そうですね」
「何だ、違うのか?」
「昔は好んで食べていました。今も勿論すきですよ」
フレッドの問い掛けに改めて自分の気持ちを確認するが、初めて食べたときほどの衝撃はない。
好物は好物だが、成人した今は子どもの頃ほどそれを好むわけでもないのだ。
どちらかと言えば昔の自分がすきだったものをウィリアムとアルバートが記憶していて、事あるごとに用意してくれることの方がよほど嬉しく好ましい。
二人の中での自分は昔と変わらず存在しているのだと実感しているような心地さえある。
だからルイスは今でもバウムクーヘンがすきだし、自分のためにこれを用意してくれる二人の兄が愛おしい。
ルイスの味覚ではなく記憶を激しく揺さぶるものがこのバウムクーヘンという菓子なのだ。
「昔からの僕の好物だと覚えてくださっているから、今でも贈ってくださるんでしょうね」
ウィリアムとアルバートの中で、ルイスはいつまでもバウムクーヘン一つで笑顔を見せてくれる子どもなのだろう。
そう考えると少しばかり複雑ではあるが、その気持ちは至極純粋なものなのだから疎ましく思うのもおかしな話だ。
ルイスは苦笑しながらも誇らしげに二人と向き合い、手に持っている箱を掲げてみせた。
「さすが…」
「あいつららしいな、ったく」
「お二人とも、召し上がりますか?これからウィリアム兄さんとお茶にしようと思っていたので、一緒に準備してしまいますが」
「…いや遠慮しとくわ。余ったら食わせてくれ」
「僕も遠慮しておきます。ごゆっくり」
「そうですか」
ルイスの誘いをきっぱりと断り、モランとフレッドはその場を去る。
特に引き止める必要もないためルイスはそのまま足を厨房へ向けて、昔からの習慣になってしまったバウムクーヘンを茶請けにしたティータイムの用意をするのだった。
(お待たせしました、ウィリアム兄さん。お茶の用意が出来ました)
(ありがとう、ルイス)
(今日のバウムクーヘンは随分と大きいサイズですね。モランさんとフレッドも誘ったのですが、生憎と断られてしまいました)
(ふふ、そうかい。ついいつもの癖でアルバート兄さんの分も、と思ってしまってね。後で二人にも持って行ってあげようか)
(分かりました。…兄様は週末にこちらへ来る用事があると言っていましたが、さすがにそこまで日持ちはしませんね。残念です)
(そうだね…でも兄さんのことだから、手土産として持ってきてくれるんじゃないかな)
(まさか。ひと月前に用意してくださいましたし、さすがにないでしょう)
(どうだろうね、まさかがあるかもしれないよ)
(アルバート兄様、お帰りなさい。お体に変わりはないですか?)
(ただいま、ルイス。特に大事ない)
(それならば何よりです。…これは?)
(土産だよ。今話題だという店に寄ってきてね、限定のバウムクーヘンを手に入れてきた。ウィルはいるかい?お茶にしよう)
(は、はい。今すぐに)
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