思い出したくない昔の話
ロックウェル伯爵家に居候中のアルバート兄様とルイスとウィリアムのお話。
昔の兄様は寝ている最中に触れられようもんなら殺意満々で起きると思うので、慣れてない頃は無意識にルイスへ危害を加えようとしているかもな、という妄想。
「けほっ…!」
「っ、すまないっルイス!怪我はないかい!?痛みは!?」
「だ、大丈夫、です…」
「…本当に、すまなかった…!」
「ぃ、ぇ…」
アルバート宛の郵便が届いたため届けるようにと、ルイスはジャックにそう指示を受けた。
休学していたイートン校に提出する書類や事前課題に追われて忙しくしていたアルバート。
そんな彼とここ数日は食事のときにしか顔を見ることが出来なかったルイスにしてみればとても有難い命令だ。
何せお茶の用意をしようにもタイミングが合わず、他の執務や秘密裏での訓練を実施しているときにばかりアルバートは休憩を取ってしまうのだから。
せっかく兄と呼べるようになったアルバートともう少し多くの時間をともにしたかったけれど、忙しい彼の邪魔をしてはいけないと、ルイスは気にしないよう努めていたのだ。
そんな中で彼の部屋を合法的に訪ねる理由が出来た。
ルイスは浮き足立つ気持ちのまま手紙を手に、アルバートの部屋へと足を運んでいった。
「アルバート兄様、お勉強中のところすみません。兄様宛にお手紙が届いております」
ノックをしてから中にいる兄へと呼びかけるが何の返答もない。
外出の予定は聞いていないし、ならば用を足しに部屋の外に出ているのだろうか。
すぐに帰ってくるだろうとルイスはしばらく扉の外で待つことにするが、五分経っても十分経ってもアルバートは帰ってこない。
もしや彼は今も部屋の中にいて、気分が悪くて倒れているのかもしれない。
ルイスが知るアルバートは健康体そのものだったが、ルイスとて健康だったのに突然病を発症してしまったのだから油断は禁物だ。
最悪の場合を想定したルイスは慌てて部屋の中に入るため、閉められたドアノブに急いで手をかけた。
「あ、アルバート兄様!ご無事で、すか…、……」
ルイスは思わず大事な手紙を握りしめたまま、扉からすぐ向こう側にいたアルバートを見つける。
机に向かう椅子に腰掛け、彼は背もたれに体を預けて瞳を閉じていた。
「に、兄様…?あの…」
苦しくて瞳を閉じて休んでいるのだろうかとルイスが急いでアルバートに近寄るが、聞こえてくる呼吸は至って穏やかな寝息そのものだ。
表情にもはっきりした苦痛は見られない。
強いて言えば眉間に皺が寄っていて、かつて見ていた険しい顔つきのアルバートであることに違和感を覚えるくらいだろうか。
彼の家族を焼いた後は久しくそんな表情を見ていなかった。
ルイスが見るアルバートはとても優しい人でしかないし、非道な人間に向ける冷酷さを全面に押し出す姿もここしばらくは見ていない。
それほど疲れているのだろうかと思えばどうしようもなく心配になってしまう。
ソファに体を預けるアルバートの手は、愛用のペンが握られたまま膝の上に落ちていた。
「……兄様…?」
そのままでは危ないだろうとペンを取ろうとするが既に力は入っていなかったようで、すぐにアルバートの手から奪うことが出来た。
もう一度呼びかけてみても反応はなく、本当に眠っているのだとルイスは確信した。
見れば机の上には指示されているであろう課題プリントが途中のまま置かれている。
疲れているのならベッドで休んだ方が良いけれど、生憎とルイスの力ではアルバートを寝室まで運ぶことなど不可能だ。
ウィリアムにどうしたら良いのか相談した方が良いだろうか。
でも途中で起こしてしまっては結局アルバートの休息を妨げることになってしまうかもしれない。
しばらく悩んでいたがルイス一人では判断することが出来ないため、幼さの残る顔に渋い表情を浮かべてとりあえずは机の上に持ってきた手紙を置くことにした。
そうして改めて寝入っているアルバートの顔を見る。
一つ一つのパーツが整っていて、バランス良くその顔に配置されている姿は誰が見ても美しいのだろう。
美醜にこだわりのないルイスですらアルバートの顔は美しいと思うのだから、きっと誰が見ても彼は美しく格好良いに違いない。
ルイスは綺麗に上げられたその髪から無造作に少しだけ垂れている前髪に手を伸ばす。
そうしてまとまりが良いよう後ろに撫でつけようとした、その瞬間。
アルバートの瞳がすぐさま見開かれ、彼は俊敏な動作でルイスの腕を掴んではもう片手でその首筋に手をかけた。
「っ、ぅくっ…!」
「ルイスっ!?」
眉間に皺が寄っていた寝顔よりも数段険しいその顔を見たルイスは思わず恐怖で喉が鳴った。
けれどそれ以上に強く掴まれた腕と締められそうになった首に痛みと恐怖を覚え、そのまま身を竦ませてしまう。
ルイスが発した呻き声でアルバートの意識ははっきり覚醒したらしく、驚愕した様子で手を離しては立ち上がって小さな肩に手を添えた。
その姿は分かりやすく動揺していたけれど、ルイスが気付くことはない。
「けほっ…!」
「っ、すまないっルイス!怪我はないかい!?痛みは!?」
「だ、大丈夫、です…」
「…本当に、すまなかった…!」
「ぃ、ぇ…」
ルイスはアルバートに何をされたのかよく分からないまま、恐怖で荒くなった息を整えるため深く息をする。
もう痛みはない。
実際に見てはいないけれど、腕を掴まれたのも首を絞められたのも一瞬のことだから跡にはならないだろう。
だから本当に"大丈夫"なのだが、それは体に対しての言葉だった。
精神的には少しも大丈夫ではないけれど、アルバートに気付かせまいとルイスはあまり得意ではない笑みを意識して彼に向ける。
ぎこちないその笑みを見たアルバートの心にはますます罪の意識が押し寄せていく。
「…すまない、ルイス。君だとは思わず、手荒な真似をしてしまった」
「だ、大丈夫です、兄様。僕が不用意に近付いてしまったのがいけなかったんです」
「いや…すまない」
「気になさらないでください、アルバート兄様」
「…っ……」
アルバートは強く握ってしまったルイスの右腕を両手に取り、僅かに赤くなっている細い手首を静かに見つめる。
暗い表情は自分がしてしまった失態について後悔しているせいなのだろうか。
白くか弱い腕を慰めるように優しく触れ、続いてルイスの首元に目をやった。
そこにも赤く圧迫された跡がついている。
苦痛そうに自分を見つめるアルバートを見るのがつらくて、ルイスは逃げるようにその手から離れていった。
「邪魔をしてしまってすみません。兄様宛に郵便が届いていたので机の上に置いておきました。お時間があるときに目を通してください」
「…あぁ、ありがとう」
「では失礼します」
いつも優しい手つきで自分を撫でてくれるその手が、まるで別物のようで怖かった。
大切な彼にそう感じてしまう自分が嫌で、ルイスはアルバートの部屋を出てから無作法を承知で廊下を駆けていった。
「に、兄さんっ…!」
「ルイス?どうしたんだい、そんな顔をして」
「…に、兄さん…うぅ~…」
今にも泣きそうな顔をして書斎に飛び込んできたルイスを見たウィリアムは、慌てて弟に駆け寄ってはその体を抱きしめる。
抱きしめた体は少しだけ震えていて、よほど恐ろしいことがあったのだろうと推察出来た。
それに加え、白い首筋には先ほどまでなかったはずの赤い跡が付いているのだ。
可愛い弟に何かがあったということは明白だった。
この屋敷でルイスに危害を加えるような人間がいるだなんて信じたくはないが、事実ルイスは身も心も傷付いている。
ウィリアムは真剣な眼差しでルイスと顔を合わせて静かに言い聞かせた。
「ルイス、何があったのか話せるね?」
「……じ、実は…」
そうしてルイスから告げられた事実はウィリアムをも驚かせた。
「アルバート兄さんが…」
「……」
驚いたように彼の名を呼ぶウィリアムを見て、ルイスは頷くように首を下げてからそのままウィリアムの胸に顔を埋めて抱き着いた。
眠っているところにいきなり触れようとした自分が悪い。
神経質な一面を持つアルバートに警戒されるようなことをした自分が悪いのだ。
ちゃんとそう分かっているのに、彼の部屋では純粋な恐怖だけを抱いていたはずなのに、今のルイスは恐怖以上にただただ悲しいのだ。
仲良くなれたと思っていたのに実はそうではないのだと無意識下のアルバートに突きつけられたようで、ルイスはひたすらに悲しく思う。
だがルイスとて眠っているところにいきなり触れられようとしたらきっと警戒を露わにするだろう。
だからアルバートは何も悪くないと、分かっているはずなのに。
「…ルイス、アルバート兄さんはね、今までずっと誰のことも信用出来なかったんだよ」
「……知っています…兄様はずっと独りだったって、ご家族がいたのに気が休まることはなかったって、知っています…」
「眠るときにも警戒を怠ってはいけないと、先生にも教わったよね。兄さんはルイスを傷付けるつもりはなかったと思うよ。ルイスをルイスではない誰かだと思ってしまったから、咄嗟に体が動いてしまったんだろうね」
「…分かっています…でも…」
「そうだね。寂しかったんだよね、ルイスは」
「…はぃ…」
「寂しくて悲しかったんだよね、アルバート兄さんに警戒されてしまうことが」
「……は、ぃ…」
そう、寂しくて悲しかったのだ、ルイスは。
せっかく彼の弟になれたのに、本質ではまだ気を許せる対象ではないのだという現実が寂しかった。
だが眠っていても触れられる前に覚醒して相手を警戒出来るその姿は彼らしく頼りになるとも思う。
今後の計画を考えればいついかなるときも警戒を怠らない様子こそ喜ばしいはずなのに、ルイスにはまだこれから先のことが具体的にイメージ出来ていなかったのだろう。
それはウィリアムにとっては都合の良いことだった。
ルイスにはまだまだ本質的に無垢で無邪気なままでいてほしいのだから。
けれどそれを気付かせたのがアルバートで、それによってルイスが傷付いてしまったのは誤算でしかなかった。
ウィリアムはアルバートを責める気持ちなど到底ない。
アルバートがルイスを大切に想う気持ちは疑いようもない真実で、それはウィリアムの優れた観察眼を持ってしても間違いのない事実だ。
きっと彼も自分の行動に驚き、ルイスへ危害を加えたことに落胆しているのだろう。
彼の姿は自分達にとって在るべきもので、いずれ自分もルイスもそうならなければいけない姿だ。
現状はルイスの前でしか眠れないウィリアムも、ウィリアムの隣でしか熟睡出来ないルイスも、アルバートのように一人かつ短時間でも警戒を無くさないよう眠らなければならない。
それを知っていて尚ルイスは寂しくて、ウィリアムもこうなってしまった現実を憂いていた。
「…でも兄様、前に一緒に眠ってくれたときはあんなことなかったのに」
「それはルイスだと認識していたからだろうね」
「……」
「ルイスだと分かっているのなら兄さんは君を傷付けるようなことはしないよ。大丈夫、兄さんに嫌われているわけじゃない」
ウィリアムの胸にぐりぐりと顔を押し付けるルイスは、声に出さずとも「そうであってほしい」と懸命に訴えかけていた。
今のルイスの世界はウィリアムだけでなくアルバートとの二人で構成されている。
その二人に嫌われてしまうこと以上にルイスが恐れることはないし、いつだってウィリアムに置いていかれることとアルバートに捨てられることがルイスにとって一番の恐怖だ。
絶対に、何があってもそんなことが起きてほしくない。
だからアルバートに嫌われてしまわないようルイスは自分なりに距離感を考えて接していたのだが、今日は失敗してしまった。
アルバートは何も悪くないのに、怖がる自分のせいであんな顔をさせてしまった。
後悔と苦痛に加えて己への嫌悪に満ちた、あの頃のような顔をさせてしまった。
「…兄様、もう僕のこと、撫でてくれないかもしれない…」
「大丈夫だよ、ルイス」
「でも僕が怖がったから、兄様にあんな顔をさせてしまいました…あんな、自分を嫌うようなお顔…」
「ルイス…」
「兄様は何も悪くないのに、僕が勝手に怖がってしまっただけなのに…兄様が僕のこと、弟だと思ってくれなくなったらどうしよう…」
「大丈夫だよ、大丈夫。ルイスのことを弟だと思ってるからこそ、アルバート兄さんは自分がしたことに後悔しているんだから」
「兄さん…」
確かに怖かったし悲しかったし寂しかったけれど、アルバートの無意識下の行動に対し怒ることなど出来ない。
けれどその行動をきっかけにアルバートが自分と距離を取ってしまうのは嫌だと、ルイスがそう本音を吐露してもウィリアムは優しく否定するばかりだ。
いつだって自分の味方でいてくれるこの兄の言葉はルイスにとって麻薬のように思う。
ゆったりとした余裕にまみれた音を聞くと全てを無条件に信じてしまいそうになるのは、ルイスにしてみれば昔からの習慣だった。
「ルイスが構えてしまってはアルバート兄さんも気を遣ってしまうんじゃないかな。ルイスは今まで通り変わらず、兄さんの弟として振る舞えば良い」
「…はい」
ありふれた言葉だろうに、ウィリアムの声を通して聞くと他の何よりも説得力がある。
ルイスは少しだけ安心してはその体に縋り付いた。
「でも、ルイスは兄さんに触れるくらい近くに行けたんだね」
「…?兄様が持っているペンも取りました。眠ったままでは危ないと思って」
「そうなのかい?凄いね」
「すごい?」
「以前先生が兄さんを起こしに行ったとき、確実に眠っていたはずなのにベッドへ近付いた瞬間に目を覚ましたそうだよ。大したものだと感心していたけど、子どものくせに悲しい性質だと哀れんでいたから」
「……兄様、僕が何度か呼んでも目を覚ましてくださいませんでしたよ」
「ギリギリまでルイスには気を許しているんだろうね。ルイス以外にはそんな真似をするよりも前に目を覚ます人なんだよ」
「兄様が…」
今まで知らなかったアルバートの姿を知り、ルイスの気持ちははっきりと浮上していく。
危険ある敵だと勘違いされて首を絞められそうになったけれど、他の人間相手ではそうなる以前に気配だけでアルバートの意識は覚醒するらしい。
確かに子どもらしからぬ悲しい性質だが、それならば先ほどの出来事はウィリアムの言う通り、アルバートがルイスに対し気を許している証拠になる。
そう考え直したルイスの体には、感じていた寂しさ以上の歓喜が溢れていった。
アルバートはルイスの首を絞めたことを後悔しているかもしれないが、それは彼がルイスを特別な立ち位置に置いている何よりの証だ。
自分は間違いなく彼の家族で弟なのだという確信は、首筋にまとわりついた感覚すらもルイスに愛おしく思わせてくれた。
「…僕じゃなく兄さんでもきっとそうだと思います」
「そうかな。そうだと嬉しいけど」
「きっとそうです。アルバート兄様は兄さんのことをとても信頼しているので」
アルバートはルイス以上にウィリアムを信頼している。
ウィリアムもアルバートのことをルイスとは別の意味でとても信頼している。
ルイスはそんな二人の関係が羨ましくて、その間に自分も入れてほしいとずっと願っていたのだから。
「僕、兄様に謝ってきます。怖がってごめんなさいと言って、兄様のことがだいすきですと言ってきます。そうしたらきっと兄様は僕のことを避けたりしませんよね。ご自分のことを嫌いになったりしませんよね」
「…そうだね、良い方法だと思うよ。僕も付いて行こうか?」
「お願いします、兄さん」
怖がってしまった過去は消せないのだし、彼が自分の行動を責めて嫌ってしまうのならば、彼の分までアルバートのことをすきになれば良いだけの話だ。
ルイスにはアルバートの弟としてそれを伝える義務がある。
一人では上手く伝えられないだろうからウィリアムが付いてきてくれることを心強く思ったルイスは彼の手を引いてアルバートの部屋へと戻り、大きく深呼吸をしてからその名を呼んで中に入っていった。
(兄様、アルバート兄様)
(…ん、んん)
(早くにすみません。ですが今日は朝から大切な会議があると伺っています。そろそろ起きて食事を召し上がっていただかないと遅れてしまうかと思いまして…)
(…もうこんな時間か。ありがとう、ルイス。手間をかけさせたね)
(いえそんな。ウィリアム兄さんはもう席についているので、一緒に食事にしましょう)
(あぁ、すぐに行く)
(……)
(何だい?そんなにじっと見られていると着替えにくいが)
(あ、と…すみません、兄様)
(何か気になるところでもあるかい?寝癖でも付いているとか)
(付いていませんし、兄様に寝癖が付いていてもきっと格好良いと思います)
(ふ、それはありがとう。ならばどうして?)
(…昔の兄様は僕が起こしたとき、こうではなかったなと思い出していました)
(……ルイス、それはもう忘れてくれないか。お前に申し訳が立たない)
(僕は気にしていませんが)
(お前が良くとも私が気にする。首は今も本当に何もないな?)
(何ともありませんよ、ほら)
(ルイス、いくら私相手とはいえ無防備に急所を晒すのは褒められたことではない。注意しなさい)
(…兄様の前で警戒しても意味がないのに)
(ルイス)
(すみません、兄様)
結局、ウィリアムが目指していた現実は叶わなかった。
アルバートもウィリアムもルイスも、眠っている間に近付く人間全てへの警戒が出来ないのだ。
近付く人間が己の兄弟であるならば、一切の警戒心を無くしてそのまま寝入ってしまう。
ウィリアムに至っては兄弟どころか警戒するに値しない人間ならば構わず寝てしまうほどに堕落してしまった。
ルイスはそれに頭を悩ませているのだが、あのアルバートに気を許されているのだという事実がそれ以上に嬉しい。
今日も珍しく寝過ごしたアルバートを起こすことが出来て、多少の小言を言われたとしてもルイスの気持ちはたっぷりと満たされるのだった。
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