可愛いあの子がやってきた
ルイス以外を可愛いと認識していないウィリアムの話。
ウィリアムはルイスに関して色々拗らせているし、それに気付いてないと思う!
弟が生まれた瞬間から、ウィリアムにとって可愛い存在は弟ただ一人だった。
ウィリアムという一人をただただ追い求め必要としてくれて、たくさんの愛を教えてくれたルイスこそが世界で一番尊く可愛らしいと思う。
事実、ルイスの容姿はとても整っていた。
美しいものを好む生来の貴族たるアルバートも傷の残るルイスを綺麗だと認めているし、白磁の肌と透明感ある赤い瞳はまるで人工的なビスクドールのように美しい。
人攫いに狙われるのも一度や二度では済まないし、ウィリアムとセットで付け狙われることも多々あった。
いつも身近にそんな弟がいて、かつ純粋に自分を慕い付き添ってくれるのだから、その見た目だけではない可愛らしさがウィリアムの脳にも焼き付いてしまう。
ウィリアムにとってルイスとは世界で一番可愛い存在で、「可愛い」という賛辞はルイスのためにある語句だった。
大学での講義を終え、陽の高いうちに屋敷への帰路を歩く。
今日は大学側の都合により午前中のみの講義だったため、いつも以上に時間がある。
どこかに寄って最愛の弟への土産でも買って行こうかと、ウィリアムは馴染みの菓子店や花屋を横目に小さな町を歩いていた。
以前よりも活気のある町は小ささゆえの温かみを感じられる。
自らが手掛けた後ろ暗い計画の結果、この町に潜在していた温もりが表に出るようになったのなら、心を殺して手を穢した甲斐がある。
ウィリアムは明るい表情を浮かべる住民を見て安堵したように口元を緩めていた。
「うぅ」
「どうしたんだい?」
そんな中、幼い子どもが街路樹の下で困ったように佇んでいるのを見つけてしまう。
大きな瞳が今にも泣きそうなほど潤んでいて、その涙を落とさないためなのかしきりに上を向いている。
思わず駆け寄ったウィリアムが小さなその肩に手を添えて声を掛ければ、驚いた子どもはそれでも好機だと上を指差してくれた。
「き、きぞくさま?」
「そうだよ。どうして泣いているのか、僕に教えてくれるかな?」
「あ、あのね、ふうせんとんでっちゃったの」
「風船?あぁ、あれだね」
「とろうとおもったけどとどかなくて、どうしようっておもってたの」
ふくふくした指が示していたのは、街路樹の葉にかかっている色鮮やかな黄色い風船だった。
どうやらこの子は涙を落とさないためではなく、大事な風船を諦めきれない気持ちで上を向いていたらしい。
ウィリアムは理解したように頷き、落ち込んでいる子どもを安心させるためににっこりと微笑んだ。
「大丈夫だよ、僕に任せて」
「きぞくさま…?」
ウィリアムは持っていた杖を伸ばして風船に括り付けられている紐を絡めとり、大事な風船をそっと引き寄せた。
そうして付いてきた葉を取り除いてから、持ち主である幼い子どもに風船を手渡してあげる。
「どうぞ、リトルレディ。もう手を離してはいけないよ」
「あ、ありがとう、きぞくさま!」
「どういたしまして」
細い手首に紐を巻きつけてあげてから手を離せば、その子はもう離すまいと風船を抱きしめて満面の笑みでお礼を言ってくれた。
溜まっていた涙が雫として溢れたけれど、それから続く様子もないしじきに乾くだろう。
大急ぎで駆けていく後ろ姿を見守りながら、ウィリアムはルイスが好んでいる菓子を取り扱っている店へと入って行った。
「お帰りなさい、兄さん」
「ただいま、ルイス。お茶菓子を買ってきたから一緒に食べよう」
「このケーキ…わかりました、すぐにお茶の用意をしますね」
帰宅したウィリアムから紙袋を渡され、その中身を確認したルイスの顔には思わず笑みが浮かぶ。
蜂蜜とドライフルーツをふんだんに使ったケーキはルイスのお気に入りで、自分で買うことはないけれど、ウィリアムやアルバートがよく買ってきてくれるものなのだ。
自分で買わずとも兄が買ってきてくれる、というのは彼らにとっての特別を実感するようで気分が良い。
今日は早く帰ると言っていたのに思っていたより遅いなと、そう心配していた気持ちの分だけ嬉しさが増していくようだった。
「せっかくなのでケーキに合うようアッサムのミルクティーを用意しました。兄さんのカップには粉砂糖をひと匙入れているので、講義で疲れた頭を休ませてくださいね」
「ありがとう、ルイス。いい香りだね」
「兄さんこそありがとうございます。このケーキ、とっても美味しいです」
「良かった」
熱いミルクティーとしっとり食感のケーキ。
合わせて食べるとこの上なく極上の美味であることは過去の経験から知っていて、ウィリアムは美味しそうにケーキを口に運ぶルイスを見る。
自分と似た顔を誤魔化すために表情を見せないよう徹底している弟が、安全を約束された空間で好物を幸せそうに頬張る姿こそ、ウィリアムが長年夢見ていた奇跡だ。
美味しいです、と笑ってくれるルイスはとても可愛くて、兄として、いや彼を愛しく想う者として嬉しい限りである。
「たくさんお食べ」
「はい」
どれだけ経っても細いままだけれど、昔に比べたら肉付きも顔色も良くなった。
自分が用意したケーキを愛しい弟が頬張る姿を見るだけで胸もお腹もいっぱいになりそうだ。
けれどそれではルイスが心配するだろうと、ウィリアムは甘めに用意してくれたミルクティーで喉を潤してから自らもケーキを食べていった。
そんな穏やかな午後を過ごしたのがつい一昨日のことである。
困っている人を助けるのはウィリアムにとっての日常で、愛しい弟とのティータイムをしたという記憶はあれど、風船を取ってあげたことはさして気にすることでもなかった。
だから教え導く生徒が自分を呼びに来たとき、その言葉から想像出来るのはたった一人しかいなかったのだ。
「モリアーティ先生、可愛い子が先生に会いに来てますよ」
「え、そうなのかい?」
「はい、門のところで待っているので早く行ってあげてください」
「分かった、すぐに行くよ。教えてくれてありがとう」
相手に伝言を頼まれたのだろう学生の一人は、ウィリアムに声をかけてすぐに数学準備室を去っていった。
面倒を惜しむでもない姿に好感を覚えると同時に、その相手がここまで来ずに伝言を頼むなんて珍しいなと疑問に思ってしまった。
ウィリアムが教鞭を務めるダラム大学にルイスが来ることは滅多にない。
うっかりしたウィリアムの忘れ物を届けに来るくらいでしか足を踏み入れないのだが、今日は忘れ物をした覚えがないというのにどうしたのだろうか。
生徒に伝言を頼むのではなく、いつものように事務へ声をかけて直接会いにくれば良いのに。
ウィリアムは過ぎる疑問に首を傾げつつ、それでも予想せずに愛しい弟と顔を合わせられるのなら構わないかと、浮き足立つ気持ちで校門へと足を運んでいった。
「あ、モリアーティさま!」
「えーと…」
校舎を出て校門へと向かいながら見慣れた金髪を探してみるが、どれだけ目を凝らしてもあの落ち着いた金色は見つけられなかった。
門を背に隠れているのだろうか。
驚かせようとしているのなら我が弟ながら可愛いことをすると、ウィリアムは訝しげに思うことなく門を潜り左右を見た。
ここは童心に返ってわざとらしく驚いてあげるのも良いかもしれない。
そう考えたウィリアムは笑みを浮かべたまま、いつルイスの声が聞こえてくるのかを楽しみに待つ。
けれど右を見ても左を見ても目当ての人物はおらず、その代わりに自分の膝程度の身長しかない小さな子どもに声をかけられた。
子どもが持つ大きな瞳はくりくりと輝いていて、自分を見ては嬉しそうに両手を上げている。
「君は確か、風船を逃がしてしまったレディだったかな?」
「はい!ふうせんのおれい、またいいたかったの!」
「モリアーティ様、いきなりすみません。先日は娘がお世話になったようで…本当にありがとうございました」
「いえ、良いんですよ」
ウィリアムは驚いたようにその子どもの顔を見たけれど、よくよく見ればつい先日助けてあげた子に間違いなかった。
背後にいる女性は母親のようで、恐縮したように頭を下げている。
「モリアーティさま、ふうせんありがとう!いまもおうちでだいじにしてるのよ」
「そう、風船もきっと嬉しいだろうね」
「ちょっとしぼんできちゃったけど、ずっとだいじにするからね。ありがとう」
「どういたしまして。そんなに喜んでくれるなんて、僕も取ってあげた甲斐があったよ」
「本当はお屋敷にお伺いしようと思ったのですが、娘が少しでも早く会いに行きたいと言って…果物屋さんから、この時間はまだ大学にいると聞いたものですから」
「わざわざ来ていただきありがとうございます。僕も彼女からのお礼を早く聞けて嬉しいですよ」
そうして二つ三つ言葉を交わし、ウィリアムは元気良く歩く幼女と頭を下げて帰っていく母親を見る。
何気ない人助けだったのに、丁寧に二度もお礼を言われたことで随分と心が明るくなった。
嬉しい限りだとウィリアムはほっこりした気持ちのまま手を振っていたが、今は彼女に会うためここへ足を運んだわけではないのだ。
さて目当ての可愛い子はどこにいるのだろうと、ウィリアムはもう一度周囲を見渡し探していく。
けれどどこにも可愛い子はおらず、もう帰ってしまったのだろうかと考えれば胸が締め付けられるようだった。
ここにいるはずのルイスは一体どこにいるのだろうか。
「……」
予想外にルイスと会える期待に胸を膨らませていたはずのウィリアムは、その期待を裏切られた結果に気を落としてしまった。
何か急ぎの用があって、ウィリアムを待つ時間すらもなかったのだろうか。
ルイスがウィリアム以上に何かを優先するなど想像出来ないが、事実見晴らしの良いこの通りにルイスはいないのだ。
帰ってしまったことは間違いない。
すぐに追いかけて訪ねてきた理由を聞きたいところだが、生憎と今日の講義はまだもう一つ残っている。
ウィリアムは仕方なくルイスを諦め、気落ちしたまま準備室へと帰っていった。
「あ、先生。可愛い子ちゃんには会えました?」
「いや…それが、もういなかったんだ」
途中、伝言を届けに来てくれた生徒とすれ違った。
目当ての人物には会えなかったことを苦笑しながら伝えると、驚いたように目を見開く彼に申し訳が立たなくて、もう少し急いで向かえば良かったと後悔してしまう。
せっかく校内でもルイスと会えるチャンスだったのに、とんだ結末を経験してしまった。
「え、そうなんですか?おかしいな、すぐ呼ぶから待ってるよう言ったのに」
「きっと急いでいたんだろうね。また後で用事は聞いておくから。わざわざ伝言を頼まれてくれてありがとう」
「気にしないでください。それにしてもモリアーティ先生、あんな小さい子どもにもモテるだなんてさすがですね!」
「うん…ぅん?」
ウィリアムは聞こえてくるまま素通りしそうになった言葉に慌てて顔を上げるけれど、生徒は感心したように腕を組んでは一人納得したように頷いていた。
「何の用事かは聞いてないですけど、小さい女の子が先生を探してました。あの子、きっと先生のファンですよ!」
「え、あ、そう…小さい子」
「可愛かったですよ、モリアーティ先生どこですかって緊張しながら聞いてきたんです」
「そう、それは可愛いね、うん…」
「じゃ、また講義で!」
「ありがとう、ジェイク」
友人の姿を見つけて急いで向かおうとした生徒を見つつ、その後ろ姿が見えなくなるまでウィリアムはその場に佇んでいた。
しばらくその場に立ち竦み、数分経ってからのそのそと数学準備室へと向かうべく足を動かす。
たっぷりと時間をかけて目的地に辿り着き、無意識に鍵をかけてからその扉に背を預け、ここ三十分の間で起こったやりとりを全て振り返る。
そうして気付いたのは、自分の認識と生徒の認識が見事なまでにすれ違っていたことだった。
「…可愛い子って、ルイスじゃなくあの子のことだったのか」
ウィリアムにとって「可愛い」という語句はルイスのために存在する。
他の何を見ても可愛いと思ったことはない。
いや、一般的な可愛い存在を慈しむべき対象だと思ったことはあれど、可愛い可愛くないという目で見たことがそもそもなかったのだ。
だから可愛い子が自分を待っていると聞いたとき、ルイスが自分を待っているのだと何の疑いもなく受け入れた。
けれどよく考えてみれば伯爵家の人間、しかも教授職に就くウィリアムの弟を一介の生徒が可愛い子と称するなど無礼にも程がある。
彼は最初からルイスではなく、幼いあの子のことを呼んでいたのだ。
なるほど、世間一般からすれば年端もいかない幼女は可愛い子だろう。
ウィリアムとてそう評価することは間違いない。
ただ、咄嗟の判断では可愛いと認識出来ないというだけで、あの子は確かに可愛かった。
「あー…しまった、これは…」
大分蝕まれている。
可愛い可愛いルイスという存在に、己の価値観そのものを。
それを疎ましく思うはずもないけれど、他者と感覚を共有出来ずに意思の疎通に不具合が生じるならば問題だろう。
これがアルバートならば、きっとウィリアムと同じ立場だから少しの不都合もない。
これがモランやフレッドならば、そっと話を合わせてくれるからやはり何の支障もない。
だが他の人間が相手ならばその常識が通じないということを、ウィリアムは今この瞬間に初めて気が付いた。
いや、気が付いたのが今というだけで、過去知らないうちに誰かに対して違和感を与えていたのかもしれない。
今回はたまたま「可愛い」というワードが引っかかったけれど、他にも何か揺るがぬ固定観念が自分の中にあったとしたら、いつか面倒なことが起きるかもしれない。
自分ではない誰かの気持ちに共感することは人として生きる上で重要な行為であるのに、無意識にそれを台無しにしてはいないだろうか。
ウィリアムは過去の記憶を掘り返したけれど、そもそも無意識なのだから自分で気付くはずもなかった。
「…とりあえず、可愛いのはルイスだけじゃないということは覚えておこう」
ウィリアムには共感出来ないけれど世間一般の認識はそうなっているのだから、知っていて損はないだろう。
可愛い弟のために国すらも変えて捧げようとする重たい愛を持つ兄は、そもそも弟に抱く感情そのものが異質なのだということに少しも気が付いていなかった。
(お帰りなさい、兄さん。今日もお勤め、お疲れ様でした)
(あぁ、ただいまルイス…ねぇルイス)
(何ですか?)
(世間には可愛いが溢れているそうだよ)
(はぁ…?)
(今まで意識していなかったけれど、可愛いものはたくさんあるらしい。ルイス以外に可愛いものがあるなんて、僕は今まで知らなかったんだ)
(そっ…う、ですか…)
(それでも僕はルイス以外を可愛いとは思えないんだけど、知っておくことは必要だよね)
(……僕には何を申し上げることも出来ませんが)
(僕はこれから色々学んでいかないといけないみたいだ。頑張るよ、ルイス)
(はぁ…)
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