芸術的な猫(?)
アルバート兄様が描く絵についてのお話。
兄様作画の猫ちゃん、最初は疑問に思っていてもすぐに絆される弟達がいる。
孤児であったルイスには芸術というものが分からない。
イートン校で学ぶ機会はあったし、審美眼に優れたアルバートを兄に持ったのだから、その気になりさえすれば豊かな感性を磨くことなど雑作もなかっただろう。
ただルイス自身に一切興味がなかった、というだけの話だ。
古き良き芸術品も首を傾げてぼんやり見ているだけで、胸に響く美しいハーモニーもルイスの心臓を震わせることはない。
ゆえにルイスにとっての芸術とは、兄であるアルバートが全ての指標になっていた。
「兄様、この場所はどこですか?」
「湖水地方にある田舎町だよ。のどかな雰囲気の良いところだ、いつかルイスも連れていってあげよう」
「楽しみにしています」
「兄様、このパンとっても美味しそうですね」
「ありがとう。この前ルイスが作ってくれた目玉焼きを乗せたトーストが美味しかったからね、描いてみたんだ」
「では、明日の朝食に用意しますね。楽しみにしていてください」
「兄様、もしかしてこの人達…!」
「そうだよ、君とウィルと私の三人だ」
「わぁ…!」
目が優れているせいか手先が器用なせいか、アルバートはとても絵が上手い。
風景画から人物画までモデル問わずサラサラと描いてしまうのだ。
芸術に疎いルイスに良し悪しなど分かるはずもないが、アルバートが描いたものならば一流なのだという確信があった。
現に彼が今描いたばかりであるのどかな湖の絵や朝日差し込むモーニングの絵、そして自分達兄弟の絵はまるで写真のように精巧に描かれている。
アルバートの気質的に印象派ではなく写実派というのは納得だ。
これならばルイスにもはっきりと良いものだと理解出来るし、アルバートが描いたのであれば見ていてとても楽しいと思う。
「次は何を描くのですか?」
「さぁ何だろう。当ててごらん」
「ふふ、兄様は絵がお上手なのですぐに分かってしまいますよ」
イートン校を卒業してようやく兄達が待つ屋敷に帰ってきたルイスは、大学が始まるまでの間で許される限りウィリアムやアルバートとともに時間を過ごしている。
大学を卒業しているアルバートは既に軍へ入隊しており、今は研修期間の合間をぬった休暇中だ。
ウィリアムだけが近く助教授を務める予定の大学へ赴いているため、今日は長男と末弟の二人だけがこの屋敷に存在している。
ゆえに今朝の二人は弟と兄を名残惜しげに見つめてから家を出るウィリアムを見送ったばかりだ。
そうして今日は何をして過ごそうかと相談したところ、ルイスがたまたま見つけたイーゼルとスケッチブック、木炭を引っ提げてアルバートに絵を描いてほしいと頼み込んだのである。
可愛い弟の珍しい依頼に驚きつつも、期待に満ちた目で見上げられては断るわけにもいかない。
たまには良いかと木炭を手に取ったアルバートだが、すぐ近くのベストポジションでルイスが楽しげに手元を見てくるのだから悪い気はしない。
それどころか、キラキラした瞳で凄い凄いと褒めそやしてくれるのだからとても気分が良かった。
「兄様は凄いですね、色々なものをすぐに描いてしまいます」
「そうでもないよ。昔はあまりすることがなかったから、一人で時間を潰す方法に長けているというだけさ」
「そうですか…あ、これは薔薇ですね。外の薔薇でしょうか?」
「あぁ。もうすぐ我が家の薔薇も咲くだろう」
「楽しみですね」
綺麗に咲いたら兄さんと一緒に見に行きましょうね。
そう言ってから窓の外に目をやり、ルイスはもう一度アルバートの手元に視線を戻す。
ルイスはアルバートがこのスケッチブックを使っている姿を見たことがない。
引っ越しのときに一応捨てずに持ち出したというだけで、アルバートも特別思い入れがあったわけではないようだ。
ルイスとウィリアムがアルバートの弟になる前、一人きりで孤独だった彼を救ってくれる手段のうちの一つだったのだろう。
ならばこれを使う姿を見たことがないのも当然だし、それはつまり出会ってからのアルバートが孤独を感じることがなかったことの証に違いない。
一人黙々と画力を磨いていた過去は悲しいけれど、こうして穏やかに絵を描くアルバートをすぐそばで見ていられるのは嬉しいと思う。
ルイスは丁寧に濃淡を付けていくアルバートの手を見やり、描かれていく見事な庭園がまるで魔法のように思えてしまった。
「凄いですねぇ」
ほう、と感心するようにアルバートの絵を見てから、続けて芸術に秀でた兄の横顔を見る。
彼はきっと頭の中にあるものなら何でもそっくりに描けてしまうのだろう。
素晴らしい才能だと、ルイスは次々と生み出されるその絵に魅了されていった。
アルバートはにんまりと緩んだ表情で視線を向けてくる弟の存在に心癒されながら、至極充実した時間を過ごす。
あまりに穏やかで幸せしかない今が恵まれすぎていて、こんな時間がずっと続いていけば良いのにと、信じてもいない神とやらに祈ってしまいそうだった。
「ルイス、何かリクエストはあるかい?」
「え?…何でも良いんですか?」
「あぁ。私に描けるものであればルイスにプレゼントしよう」
気の赴くままに描いていたアルバートは手を止めて、うっとりしたように見つめてくれていたルイスの希望を聞くべく笑みを向けた。
途端に目を見開いて真剣に悩みだすルイスが可愛くて仕方がない。
あれだけ楽しそうに、しかもただの時間潰しだった行為をこうも嬉しそうに見てくれていたのだから、アルバートとしても嫌な記憶が晴れていくようだった。
うぅむ、と悩むルイスを静かに待つ。
そうして可憐な唇からリクエストされたそれを脳裏に思い浮かべたアルバートは、再び木炭を手に取り動かしていった。
大きな用紙の隙間を使って十数分で描かれた、ルイスリクエストのモチーフ。
それを見たルイスは首を傾げながら赤い瞳を丸くさせていた。
「…猫?」
「そうだよ。可愛いだろう?」
「……はい」
はて、僕がリクエストした猫とはこんな姿をしていただろうか。
ルイスがそんなことを考えているとはつゆ知らず、アルバートは一際丁寧に描いた猫(?)を満足げに見ては深く頷いている。
我ながら可愛らしい白猫が描けた。
アルバートがそんなことを考えているとはつゆ知らず、ルイスはじっと猫らしき生物を見てはひたすらに首を傾げている。
「……」
「何だい?」
「いえ」
ふとアルバートの顔を見れば穏やかに微笑んでいて、とても自信に満ちているようだった。
ルイスの記憶の中の猫はこんなにも胴体が不安定ではなかったし、先程まで写真かと見紛うほど写実的な絵を描いていたアルバートなのに、この猫(?)はどちらかといえば絵本のようにデフォルメされている。
そういえばアルバートは風景も食べ物も人物も植物も上手に描いていたけれど、彼が描く動物の絵はこれが最初だ。
もしかすると動物を描くのはあまり得意ではないのか、それともアルバートの目には猫がこう見えているのだろうか。
ルイスは、可愛いですね?と疑問符を浮かべて答えながら、今度は犬を描いてほしいと頼み込む。
そして描かれたのは、猫(?)とさして変わらない犬(?)だった。
「可愛い猫と犬ですね。ありがとうございます、兄様」
「どういたしまして」
なるほど、これが芸術なのだ。
ルイスはそう判断し、浮かべていた疑問を捨ててにっこりとアルバートに笑いかけた。
芸術に秀でているアルバートの目には猫や犬がこのように見えているのだろう。
ならば芸術に秀でていないルイスの理解が及ばないのも納得で、これが芸術なのだと知ることが出来て勉強になって良かったと思う。
よくよく見れば可愛らしいし、これならばルイスにもいつか芸術というものが理解出来そうな気さえしてくる。
何となく敷居が高くて遠い世界のように感じていたけれど、芸術とはアルバートが魅せてくれるものなのだから、それほど気構えなくても良かったのだろう。
「大事にしますね、この猫と犬」
「ありがとう、嬉しいよ」
「ふふふ」
ルイスは切り取られたスケッチブックの紙を大事に抱きしめてからもう一度見る。
つぶらな瞳がとても可愛らしいし、見ているとまるで吸い込まれてしまいそうな謎の吸引力があるのだ。
アルバートの描いた猫(?)の絵は不思議な魅力があるのだから、やはり芸術なのだろうと確信してしまう。
早くウィリアムにも教えてあげたい。
ルイスがそう思っていたところ、タイミング良くウィリアムが帰ってきてくれた。
「兄さん、おかえりなさい!」
「ただいま、ルイス」
「おかえり、ウィリアム。今日もお疲れ様」
「アルバート兄さん、ありがとうございます」
急いでウィリアムを出迎えようとするルイスの後を追い、アルバートは帰宅早々楽しげに抱きしめ合う弟達を見る。
仲睦まじい姿は見ていて心癒された。
「兄さん、これを見てください!兄様が描いてくださったんですよ!」
「どれどれ…わぁ、これは凄いね。全て兄さんが描いたんですか?」
「あぁ。ルイスが褒め上手なものでね、ついつい筆が乗ってしまったよ」
「凄いでしょう、兄様の絵!とってもお上手ですよね!」
ウィリアムの手を引いて先程まで絵を描いて過ごしていた部屋へと連れて行き、大きなスケッチブックに描かれているいくつもの絵を見せていく。
自分が描いたわけでもないのに誇らしげに紹介するルイスの頭を撫でながら、ウィリアムはパラパラと用紙を捲っては描かれているいくつもの作品に感嘆する。
確かな審美眼と芸術に秀でた人だとは思っていたけれど、想像以上にその才能は豊かだったらしい。
顎に手をやりながら木炭のみで描かれたその絵を堪能していると、ふとルイスが別に持っている紙が目に入る。
そこにもアルバート作のさぞかし美しい絵が描かれているのだろう。
ウィリアムは早く見せたいとそわそわしているルイスの期待を裏切ることなく、それは何だい?と興味津々といったように声を掛けた。
「これはですね、僕がリクエストした猫と犬の絵です!」
「へぇ、猫…と、犬…?」
「とっても可愛いですよね、さすがアルバート兄様です」
「う、ん。可愛いね、可愛い…猫と、犬」
「あまり褒められると照れてしまうな。そのくらいにしてくれるかい、ルイス」
「でも兄様、兄様の絵は本当に素晴らしいですよ!」
「ありがとう、嬉しいよ」
ウィリアムは今まで見ていた写実的で精巧な絵と、その猫(?)と犬(?)の絵が見せるギャップに思わず二度見してしまった。
とても同一人物が描いた絵とは思えないのだが、弟と兄の言葉を聞く限りは同一人物たるアルバートが描いたことは間違いないはずだ。
芸術に秀でた兄の目には猫と犬がこのように見えているのだろうか。
思わずアルバートを見てしまったけれど彼は照れ臭そうに微笑っているだけで、ルイスは描いてもらったという猫(?)と犬(?)の絵を嬉しそうに抱きしめている。
何とも不思議な光景ではあるが、二人が幸せそうだからまぁ良いだろう。
ウィリアムは考えることを放棄して、つぶらなのに吸い込まれそうな瞳をしている猫(?)の絵を見て笑みを深める。
「可愛い猫ですね、兄さん」
自分が認識している猫とは大分違うけれど、デフォルメされていて可愛いと言えなくもない。
不思議な魅力がある絵だと、ウィリアムは芸術への認識を一つも二つも改めながら自分達兄弟が描かれている一枚を見た。
(ん?モリアーティ先生、お弁当ですかな)
(はい、弟が用意してくれたものです)
(ほほう、それは良いですね。美味しそうなサンドイッチだ…んん?)
(事実、とても美味しいんですよ。弟の料理は絶品なので)
(そうですか。して、それは何ですか?)
(ご自分で言っていたじゃありませんか。サンドイッチですよ)
(いえそうではなく…その、形と言いますか、随分と独特な形をしているようなので)
(あぁ、これは猫の形をしたサンドイッチです)
(猫?猫なんですか?)
(最近の弟は猫にハマっていましてね、色々と猫の形にしたいようなんですよ。昨日はオムレツにかけるソースが猫の形をしていました)
(ははぁ猫、猫ですか…個性的な猫ですね)
(可愛いでしょう?)
(…そうですねぇ、可愛い猫だ)
(新しく来たモリアーティ先生…その頭脳は今の教授達を軽く凌駕するんだが、センスも凡人には理解出来ない領域にあるものなんだなぁ)
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