君がいるから頑張れる
ウィリアムの疲労に効果抜群のルイスのお話。
ルイスに依存しているウィリアムなので、ルイスがいなければただ息をしているだけの味気ない人生になるんだろうな。
疲れたな、と感じることがウィリアムにはなかった。
休息の必要性は重々理解しているし、寝なくとも体と脳を休めるだけでも活動の効率が良くなることは身をもって分かっているのだが、それでも事前に疲れたと感じることがないのだ。
夢中になって作業をこなしてしまうことに苦はないし、ゆえに気付いたときには気絶するように眠ってしまう。
昔は何かの病気だろうかと文献で漁った知識を使い己を診察したこともあったけれど、おそらく体のどこにも異常はない。
医者にかかる伝手はないからしばらく経過を見ていたが、結局は疲れを自覚していないことが要因なのだろうとウィリアムは結論付けた。
疲れを感じていないけれど実際には疲れているから、体力の限界が来て眠ってしまう。
つまりはそういうことなのだろうと、ウィリアムは己の性質をそう評価していた。
「兄さん、お茶の用意が出来ましたよ」
「ルイス、ありがとう」
「今日は新しい茶葉を僕がブレンドしてみました。お口に合うと良いのですが」
「へぇ、それは楽しみだね」
最近の弟はようやくアルバートに合格点をもらえた紅茶を淹れることが楽しいらしく、ウキウキしながらお茶を用意してくれる。
秋にはウィリアムとアルバートがイートン校に行ってしまうから、ともに過ごせる時間を一瞬一瞬大切にしたいのだという健気な姿が愛おしくて堪らなかった。
ウィリアムもルイスとともに過ごせなくなることは心配で仕方ないけれど、この屋敷には悪魔もいないし元兵士のジャックがいるのだからまずは安心だろう。
一年待てばルイスもイートン校に来るのだからしばしの辛抱だと、ウィリアムは期待を込めた様子で自分を見てくるルイスの視線を感じつつ紅茶を味わう。
フルーティーで甘い香りが鼻を通っていき、乾いた喉をゆっくり潤していった。
「ん、美味しい。桃の香りが柔らかくて素敵だね」
「ホワイトダージリンに桃の紅茶を合わせてみたんです。気に入っていただけて嬉しいです」
「ルイスの淹れる紅茶はいつもとても美味しいよ。いつかルイスオリジナルのブレンドティーを飲んでみたいな」
「では先生に習っておきますね」
「楽しみにしているよ」
甘い香りは砂糖を入れずとも十分に風味豊かで飲みやすい。
添えられた焼き菓子と一緒に食べても満足感が高く、夢中で書き物をして知らずと張り詰めていた緊張感が一気に和らいでいくのを感じた。
美味しい、と無意識にもう一度呟けば隣に座るルイスが嬉しそうに寄り添ってくる。
「兄さん兄さん」
「なぁに?」
「兄さんは何のお勉強をしていたんですか?」
「これは数学の勉強だよ。今まで知らなかった考え方が載っている本を教えていただいたんだ。今度ルイスにも教えてあげるからね」
「楽しみにしています」
きゅ、とウィリアムの左腕が控えめに抱き寄せられる。
もどかしいほどの僅かな力は、ウィリアムの邪魔をしてはいけないというルイスなりの遠慮と、もう少し近付いていたいというルイスの甘えが合わさった結果なのだろう。
そのいじらしさが可愛くて、遠慮なんてしなくて良いんだよと思いながらひと回り小さな手を握りしめる。
指を絡めて握りしめれば、ふわりと幼い笑みを浮かべて握り返してくれた。
「兄さん、朝からずっと勉強されていますね。とても楽しそうです」
「色々なことを学べるのは素晴らしい時間だからね、凄く楽しいよ。ルイスにも僕の気持ちが分かるだろう?」
「僕は兄さんほどではありませんよ」
ルイスは先程までウィリアムが読んでいた文献をちらりと覗き込んでから、難しい数式と言葉の羅列に首を傾げてそのまま兄を見た。
その瞳にはしっかりと「こんなに難しいのに兄さんは凄いです」という尊敬の色が見えているのだから優越感に浸ってしまう。
別に見栄っ張りというわけではないはずなのに、ルイスの前ではやはり兄として格好良い姿を見せていたいのだ。
ウィリアムは己の知識欲を満たすこと以上に、ルイスに教えてあげられることが増える勉強という行為がすきだった。
そのためなら何時間でも没頭していられるし、食べることも寝ることも忘れて夢中になってしまう。
だが思えば、孤児だった頃から適当な時間になったらこうしてルイスがやってきて、二人一緒に休憩するのが常だったような気もする。
「このクッキー、僕と料理長が一緒に焼いたんですよ。僕がチョコチップを砕いたんです」
「そうだったんだね。このクッキーもとても美味しいよ、紅茶によく合うね」
「ふふ」
何気ないことを話しながら一緒に紅茶を飲む時間だけは疎かに出来なくて、どれほど勉強に集中していても必ずルイスとお茶を飲むのがウィリアムの習慣だった。
ウィリアムとしてはルイスがそばにいても勉強は出来るのだが、ルイスは邪魔してないけないと考えているらしい。
だからこのお茶の時間には存分に甘やかして、自分もルイスを補充するべく構い合うのだ。
「ルイス、おいで」
「兄さん」
ふわふわ笑っているルイスの額にキスをしてから小さな体を抱きしめる。
ジャックに鍛えてもらっているせいで昔よりもしっかりした体格になってきたように思う。
幼いままだったルイスの成長を感じられて嬉しいことだと、ウィリアムはぎゅうぎゅうと抱きしめては癒されていた。
そんな生活をずっと送ってきたせいで、ウィリアムは己が疲れを感じにくい性質の理由について深く考えたことがなかった。
疲れを感じるのは面倒だと思っていたし、病気ではないのなら構わない。
どうせ限界が来たら勝手に眠るのだからいっそ便利なくらいだと、その程度にしか考えていなかったのだ。
だからイートン校でルイスがいない環境になり、初めて感じた「疲労」というものにウィリアムは驚いた。
「…アルバート兄さん。最近やけに体が重たいというか怠いというか、気分が冴えないというか落ち込んでしまうことが多いのですが、これは何か病気の症状でしょうか?」
「いや、ただ疲れているんじゃないかな」
「疲れ?これが疲労なんですか?」
「おそらく。慣れない環境で過ごしていることだし、精神的にも肉体的にも疲れてしまうだろう。僕も妙に気疲れしているから、新入生である君は特にストレスも多いはずだ」
「…ですが、僕は今まで疲れたと感じることはなかったのですが」
「ふむ…今まではルイスがいたから自然と疲れは癒えていたんだろうね。ここにはルイスがいないから」
「……」
「ゆっくり休むと良い、ウィリアム」
妙に重たい体と晴れない気持ちをアルバートに相談してみれば、納得しかない回答を出されて目から鱗が落ちる気分だった。
この気怠さが周りの人間の感じていた疲労なのかと思えば衝撃だ。
アルバート含め、ウィリアム以外の人間はこんな状態を抱えながら生きていたらしい。
それは随分と辛く苦しいことではないだろうか。
なるほど、これならば自主的に休むことが必要なはずだと理解が進んだところで、同時にルイスのいない人間は可哀想だとも思う。
ウィリアムはルイスとともに過ごすことで疲れを感じずに生きてきたというのに、他の人間にはそんな存在がいないから、自ずと疲れを抱えたまま生きなければならないのだ。
可哀想だと哀れむ気持ちと同じくらいに、ルイスという尊い存在がいてくれて良かったと思う。
だからといって、他所の誰かにルイスを渡すつもりは毛頭ないけれど。
「…疲労って、心も体もしんどいんだな」
アルバートの教えに従って生まれて初めて自分から休むことを選択したウィリアムは、自室のベッドに一人横たわる。
今まではずっとルイスがそばにいたから疲れを感じることがなかった。
それはとても納得のいく正解で、勉強や執務で各々離れて過ごしたとしても頃合いを見て必ずルイスがウィリアムのそばに来てくれるから、自然と疲労が癒えていたのだろう。
イートン校に入学して以降ルイスがいなくて寂しいと思っていたけれど、そもそも自分はルイスがいないとすぐに疲れてしまうらしい。
ルイスがいるからこそあんなにも頑張れていたのだと、最愛の弟のいない場所でしみじみ実感してしまう。
どうやって疲れを取るのかもよく分からないまま、ウィリアムはひとまず目を閉じて眠ることにした。
「兄さん、お帰りなさい!」
「ただいま、ルイス!」
初めての疲労を感じた後も結局眠れることはなく、疲労を抱えたままイートン校で過ごしたウィリアムにも限界が来た。
このままここにいても疲れは溜まる一方だし何より寂しい。
きっとルイスも寂しいはずだと、入学して一月も経たずに早々にルイスの元に帰ってきてしまったのだ。
嬉しそうな笑顔を見せるルイスは記憶の中の弟と少しも変わっておらす、心の底から安心する。
ともに過ごせない間に自分の知らないルイスがいることは許せないけれど、それでもこの笑顔を見るだけで十分すぎるほどに疲れが癒えていくのを実感した。
「兄さん、イートン校での生活はどうですか?楽しいですか?」
「うん、とても疲れたよ」
「疲れた?」
小さな体を抱きしめながら言葉を交わせば、兄から聞いたことのない単語を聞いて不思議がるルイスがもぞもぞと顔を動かしていく。
そうしてウィリアムと顔を見合わせるように額を合わせてくれる。
「本当だ…兄さん、どこか疲れたようなお顔をしています。よく眠れないのですか?」
「…そうだね。ルイスがいなくて寂しいな」
「ぼ、僕も兄さんがいなくて寂しいです!会いたかったです、兄さん」
「僕も会いたかったよ、ルイス。君に会えて嬉しい」
「兄さん」
低い体温と甘い匂いと声変わり前の澄んだ声。
腕に馴染む感触と頬に触れた柔らかい髪の毛が、ウィリアムの精神的な疲れを取り除いていく心地がした。
こんなにも大切で愛おしい存在なのだから、そばにいないことで疲労を感じてしまうのも無理はないだろう。
ウィリアムはルイスがそばにいることで疲れを感じない性分になっているのだ。
「ルイスに会えたおかげで元気になれたよ。ありがとう」
ウィリアムはルイスがそばにいないと途端に疲れを自覚してしまう。
絶対にないと確信してはいるけれど、これから先の人生で万一にでもルイスと離れて生きるようなことがあれば、きっと彼は生きた心地がしないのだろう。
ルイスがいなければ食事も面倒だし、気持ちも落ち着かない。
すぐに疲れを感じる人生など厄介そのもので、何のために生きているのかも分からなくなってしまう。
もはやルイスはウィリアムの生きる目的どころか生命維持に必要な存在になっていることに、当の本人達ではなくアルバートだけが密かに気が付いていた。
(先生、ご存知ですか?人と心を通わせた動物は弱っている人間の元に行き、その疲れを癒そうと懸命に努力するそうです)
(ほう、そうなのか)
(ルイスは動物ではありませんが、疲れを感じて弱っているウィリアムを癒そうと無意識に行動していたんでしょうね。ルイスのおかげで今までウィリアムは疲労を知らなかったのでしょう)
(通りでウィル坊はいつも疲れた顔を見せていなかったわけか。だが、そんなことが実際にあり得るのか?)
(ウィリアムとルイスの二人ならばあり得ます。あの子達ほど信頼し合っている美しい兄弟はいませんから。ほら、二人の姿は見ていて心洗われるほどに麗しい光景でしょう?)
(なるほどなぁ…)
(互いのために生きている二人はとても綺麗です。あの子達こそ、まさに理想の兄弟なのでしょう)
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