マイ・ネーム
イートン校入学前に三兄弟で生活していた頃のほんわか日常のお話。
兄さん兄様が大切だと気付いて可愛い主張をする末っ子、あまりにも愛おしいね。
大切なものには、きちんと自分の名前を書いておきましょうね。
各年代の子ども達がともに生活をしている場だからこそ、孤児院の代表たるシスターは子ども同士のトラブルが極力起きないよう幾つかのルールを定めていた。
日用品はほとんどが共有のものだけれど、その中にもいつの間にか各個人の私物となっているものはあるのだ。
それはお気に入りのぬいぐるみだったり、思い出のカップだったり、使い古された鞄だったり、後で食べようと取っておいた特別なお菓子だったり。
大切なものを自分で守る術の始まりを与えるため、シスターは子ども達に最低限、自分の名前だけは読み書き出来るように教育していた。
本を読むことは出来ずとも、自分の名前と友達の名前は読むことが出来る。
それに加えてルイスが世話になった院では兄が皆の先生役を買って出ていたため、孤児でありながら簡単な文章であれば読むことが出来たし、高等な数学すらも凡そ理解出来ていたほどだ。
大切なものには、きちんと自分の名前を書く。
それが共同生活をする中で教わったルールである。
「兄さん、名前ってどんなものに書けば良いんですか?」
「うーん…」
けれどルイスは、自分のものを自分のものだと主張したことがなかった。
短い人生ながら奪われることに慣れてしまったこともあり、まして自分より幼い子どもに「欲しい」とねだられてしまえば与えるのが日常だった。
お腹は空いているけれど、自分より小さな子がお腹を空かせているのならまずはその子が最優先だ。
自分がしている悲しい思いを小さな子どもにまで経験させたくはないし、兄ならばきっと笑顔で譲るのだから、彼とともに生きるルイスがそうしない理由はどこにもない。
そもそもルイスに物欲はないし、唯一大切で手放せないと自覚しているのは最愛の兄くらいである。
その兄も、何かに名前を書いている姿を見たことはなかった。
「誰にも取られたくない、自分のそばにあって欲しいものがあれば、名前を書いておくと良いんじゃないかな」
「じゃあ兄さんは、例えばどんなものに名前を書きたいですか?」
純粋な疑問を問いかける丸く澄んだ赤色を見下ろし、少しだけ思い悩んだように彼は微笑った。
何が大切かも分からない、執着心を抱くことも出来ない弟を少しだけ可哀想に思う。
けれど自分も名前を書きたいほど執着するものなどないのだから、単純でありながら中々難しい問いかけだった。
古書店で譲ってもらった数学書ならば大切ではあるが、古めかしく大衆向けではないその本に価値を見出す人間は少ない。
必然とそれは自分のものになるのだから、わざわざ名前を書こうとも思えなかった。
自分のものだと主張したいほどに大切なもの、物、者。
「…さぁ、なんだろうね。僕もルイスも、いつか名前を書くほど大切なものが出来たら良いね」
「はい」
優しく笑った兄はふくふくしたルイスの頬を擽りながら、意味ありげに答えらしき言葉を返す。
敢えて名前を書かずとも自分のものだと皆が知っているし、知らない人間が自分からこの子を引き離そうものなら地の果てまでも追いかけて取り戻してみせる。
兄が決意深くそう考えていることになど気付かないまま、ルイスはいつか自分のものだと自信を持って主張したいほどに大切なものが出来る未来を期待した。
大切な何かを大切に思いながら、自分の名前で所有を主張してみたい。
ほとんどのことを無自覚に諦めてしまっているだろうルイスにそんな未来を与えるべく、兄は先を見据えてこれからのことを考えることにした。
ウィリアムとのそんなやりとりが数年前にあったと、ルイスはふと思い出す。
アルバートに拾われ、ウィリアムとともに彼の家族になって、新しく建てた屋敷で復学までの期間を過ごす中で、初めて経験することがたくさんあった。
かつて共有していた食器やカトラリーはルイス専用のものが用意され、特にティーカップはウィリアムとアルバートと揃いで誂えた上等なそれだ。
そのカップに紅茶を淹れて、三人だけのティータイムを過ごすことが最近のルイスのお気に入りになっている。
ここでは後で食べようと取っておいたお菓子がいつの間にかなくなっていることもないし、何となく続けて使っていたものがふと気付けばルイスの私物になっていることもしばしばあった。
それどころかアルバートから「これはルイスにあげよう」と物を贈られることも多く、ウィリアムからは「ルイス、一緒に食べよう」とお菓子を多く分け与えられているほどだ。
わざわざ主張しなくても、この家では「ルイスのもの」が数え切れないほどたくさんある。
それがウィリアムとアルバートのおかげだということは今更考えるまでもない。
「名前、か…」
ルイスは手持ち無沙汰に頬へと指を当て、やっとガーゼが外れた歪な皮膚の感触に合わせて首を傾げる。
大切なものには名前を書いて、無くならないよう、誰かに取られてしまわないよう、自分できちんと守るようにシスターから教わった。
大切なものとは誰かに取られたくない、いつも自分のそばにあって欲しいものだとウィリアムから教わった。
孤児院にいたあの頃は分からなかったけれど、今ならルイスにも名前を書いて守りたいものがあるような気がする。
誰にも取られたくない、自分だけの人でいてほしい。
少し先の未来で離れて暮らすことが決まっている兄達を思い浮かべ、ルイスはきゅうと唇を引き結ぶ。
そうして細いマジックと小さなシールを手に取り、Louisと二回に渡り綴っていく。
ウィリアムに教わりアルバートに鍛えられたその文字は、小さいながらも整っていてバランス良く美しかった。
「ウィリアム兄さん、勉強は順調ですか?」
「ルイス。あぁ、もう少しでキリのいいところまで行くから、そうしたら一緒に本を読もうね」
「分かりました。では待っていますね」
近頃のウィリアムは入学準備のため勉強に追われている。
決して難しいわけではないのだろうが、過去の傾向を探りつつ試験に慣れるというのは博識なウィリアムにも経験がないせいか、とても楽しそうに勉強していた。
そんな兄を見るのがルイスはすきで、邪魔にならないよう時間を決めて様子を見ては構いに行ってもらっているのだ。
今日は後で一緒に読書をする約束を取り付けた。
嬉しそうに笑みを浮かべたルイスはウィリアムの袖を軽く引き、隠し持っていた名前シールを気付かれないようこっそりそこへ貼っていく。
「あと少し、頑張ってください」
引かれた袖を可愛らしく思いながら、ありがとう、と返したウィリアムを見上げ、ルイスは満足したように部屋を出て行った。
「アルバート兄様、もう長い時間経っていますが、お疲れではないですか?」
「やぁルイス。問題ないよ、様子を見に来てくれたのかい?」
「はい。そろそろお茶の用意をするので、一緒に飲みましょう」
「そうだな…ここを片付けたらすぐに行こう」
続けてアルバートの部屋を訪ねたルイスは、ウィリアムのときよりも緊張した心持ちでゆっくりと彼に近付いては手元の資料を覗き見る。
異国の言葉は難しく、ルイスの理解の範疇外だ。
それを読み解いているアルバートはさすが聡明で素晴らしい兄だと、密かに自慢に思いながら同じように衣服の袖を軽く引く。
音を立てずに貼り付けたシールに彼が気付く様子はなくて、ルイスはホッとしたように小さく息を吐いては幼くはにかんだ。
「兄さんもすぐに来てくれるそうです。三人でお茶にしましょうね」
すぐに行くから用意して待っていてくれ、という声を聞いてから、ルイスは頭を下げて部屋を出る。
パタン、と小さく聞こえた扉を背に小走りになったルイスは、自然と弛む頬に両手を当てて微かな笑い声をこぼしていった。
「ふふふ」
初めて、大切なものに名前を書いてしまった。
今までは大切なものが何かよく分からなかったけれど、誰にも取られたくない、いつも一緒にいてほしいというのであれば、ルイスにとって名前を書くべきは二人の兄以外にありえない。
己の名前を書いて、二人は自分のものだと、他の誰でもない自分の兄なのだと主張することの、なんと心満たされることだろうか!
「なるべく気付かれないで、長く貼られたままだと良いな」
ウィリアムはずっと昔からルイスを守ってくれた人だ。
アルバートは新しくルイスの家族となってくれた人だ。
この二人だけがルイスの全てで、二人のためなら何でも出来るし何でも差し出せる。
二人に相応しい弟で在れるようこれからも精進するとして、ひとまずは魅力的で心優しい兄達が誰かに取られてしまわないよう名前を書くことにしたのだ。
大切な彼らは物ではないので、直接名前を書くことは出来ない。
だからシールで代用したけれど、そのうちルイスの名前が書かれたそれも剥がれてしまうことだろう。
誰に見られることもない名前シールなどルイスの自己満足でしかないのだけれど、それで十分ルイスは気持ちが明るくなった。
あの頃には分からなかった名前を書きたいほどに大切なものと、それが自分にもあるのだと知れたことが嬉しいのだから。
「兄さんと兄様は僕のもの。僕の兄です」
ふふふ、と笑い声をこぼしながらティータイムの用意をするルイスは、ここ数日で一番に機嫌が良かった。
(あれ、兄さん袖口に何か付いていますよ)
(何だろう、ゴミかな。…これは)
(ゴミ…ではないですね。ルイスの字です)
(そうだな、ルイスが書いたもので間違いないだろう。おや、ウィリアムにも同じものが付いているが)
(え?…本当だ。何でしょうか、これ)
(ウィリアムに分からないのなら私にも分からないな。何かの悪戯だろうか)
(ルイスがこんな悪戯するとは…もしかして、記名のつもりかな)
(記名?まさか、私達があの子のものだと言いたいのかい?そんな可愛いことをするなんて)
(ルイスならありえます。あの子は可愛いので)
(…言葉の重みが凄いな、ウィリアム)
(だってルイスは可愛いでしょう?)
(……あぁ、そうだな)
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