ハンカチ二枚、結局捨てた
居候時代のおでこちゃんが手を怪我する話。
自分の怪我に無頓着な末っ子を叱りつける兄さん兄様がおる。
血というものは厄介だなと、ルイスは思う。
真っ赤に流れて行くそれが時間とともに黒く変色して固まっていく様は見ていてとても気味が悪い。
拭いたところですぐには取れないし、そもそも拭ったタオルが汚れてしまう。
血で汚れた布は中々綺麗にならないのだ。
「…どうしよう」
どうでも良いことをぼんやり考えていたルイスは、持っていた包丁を置いて血の滴る左手を見た。
切れ味の良い包丁は料理長のこだわりゆえなのだろう、丁寧に研がれていて刃面が鋭い。
使用する際は十分気をつけるようにと忠告を受けていたのに、厨房の手伝いにも慣れてきたせいかつい油断してしまった。
幸い今ここに料理長及び他の使用人はいないし、ルイスの失態を咎める人間はいない。
だが止血もせずに下手に動き回っては辺りが血で汚れてしまうし、タオルで押さえても汚れが付いてシミになる。
血で汚れた布は中々綺麗にならないのだと、孤児だった頃の経験からルイスは知っているのだ。
そのため調理場に置いてある真っ白い布巾には触れられなくて、シンクの中で垂れていく赤を睨みつけていた。
「よし」
怪我をそのままにしておくと雑菌が入って治りが悪くなるから、薬や包帯がなくてもとにかく傷口を洗うんだよ。
そう言っていたウィリアムの言葉を思い出したルイスは目の前の蛇口から水を出して血を洗い流していく。
思っていたより深く切ってしまったようで、赤く染まった水は色が薄くなることなく排水溝へと流れていった。
そうして傷を洗っていたルイスだが、水が勿体無いとばかりにすぐに蛇口を閉めて水気を払うために軽く手を振ってみる。
痛みよりもシンクに散ったいくつもの薄赤い水滴の方にギクリとして、慌ててもう一度水でシンクを綺麗に洗っていった。
変わらず左手からは血が滲んでいて、見ればぱっくりと中の肉が見えている。
ルイスは先ほどと同じように、どうしよう、と困った様子で眉を下げて肩を落とす。
「僕のハンカチ、ここにはないし…調理場の布巾を汚すわけにもいかないし」
このロックウェル家においてルイス個人のものなどないけれど、それでもルイスだけが使うものは存在する。
衣服や寝具、勉強道具などがそれに当たるのだが、ロックウェル伯爵から贈られたロゴ入りのハンカチはルイス専用のものだろう。
普段使い出来るよう使い勝手の良いサイズで複数枚を置いてあるから、それを使って止血しなければならない。
手当てはその後だと、ルイスはひとまず着ていたシャツの裾で左手を覆い圧迫していく。
このシャツはアルバートにもウィリアムにもサイズの小さい、ルイス専用のものだ。
シミが残ったところで困らないと、じわじわ赤く染まっていく布地に狼狽えることなくルイスは調理場を出た。
目指すは自分の部屋である。
歩いている最中に血が垂れないようしっかりと左手を押さえていたけれど、薄いシャツではすぐに染みて右手も血で汚れていく。
でもまぁ、床を汚さなければそれで良い。
ルイスは誰もいないのを確認してから小走りで部屋へと向かっていった。
「あれ、ルイス?」
「どうしたんだい、そんなに急いだ様子で」
「兄さん、兄様」
ルイスが廊下を駆けてリビング近くの部屋を横切るとき、中にいたウィリアムとアルバートに声をかけられた。
家庭教師の授業を受けていたはずの二人は丁度授業が終わったらしく、手元に教本とペンケースを持っている。
それならばお茶を用意して一緒に休憩したいと、ルイスは期待に瞳を輝かせた。
最近はようやくアルバートにも美味しいと思ってもらえる紅茶を淹れられるようになったのだ。
腕によりをかけて最高の紅茶を用意しようと、その腕を上げようにも上げられなかった瞬間にルイスは今の自分の状態を思い出した。
まずは紅茶よりも止血が先である。
「兄さん兄様、僕ちょっと用があるので後で一緒にお茶にしましょうね」
「…ルイス、その腕はどうしたんだい!?」
「真っ赤じゃないか!」
「これは…」
慣れていない、けれどルイスらしいはにかむような笑みを見せたルイスは丁寧に頭を下げてその場を去ろうとした。
しかしそれを引き止めたのはウィリアムで、アルバートも驚いたように赤く染まっているルイスの腕とシャツを見る。
シャツの裾から腹部にかけてが血で止まっているけれど、出血源はそこではない。
ウィリアムは左手を押さえているその右腕を取り、シャツで覆われていたそこを見た。
「どうしたんだい、この怪我…!もしかして、包丁で切ったのかい?」
「よく分かりましたね。少し失敗してしまって」
「少しどころではないだろう、この傷の深さは」
ウィリアムとアルバートの目には深く割れた肉が見えており、そこからじわじわと血が滲んでくる様子がよく分かる。
出血の勢いから太い血管を切ったわけではないだろうと判断はつくけれど、それでも出血が止まらない様子に眉を寄せた。
ルイスは失敗したことを気まずそうに言うけれど、そんなことはどうでも良い。
ウィリアムは持っていたハンカチで割れた傷口を合わせるように圧迫していき、アルバートも同じく持っていたハンカチでルイスの右手を拭っていく。
当然、二人のハンカチはルイスの血で汚れていった。
それを見たルイスは驚いたように肩を跳ねさせ、両手を振り解いて宙に上げる。
幸いにも出血の勢いは落ちていたため、周囲に血が飛ぶことはなかった。
「こらルイス!」
「だ、駄目ですお二人とも!ハンカチが汚れてしまう!」
「だから何だと言うんだ、早く腕を出しなさい!」
「で、でもっ」
ルイス、と怒った声で名前を呼ぶウィリアムに無理矢理腕を掴まれ、抵抗しきれずに腕をそのまま明け渡す。
そうしてハンカチがまだ汚れていない部分でルイスの左手を圧迫し、血で汚れていた右手は少し強めに擦られていく。
血が固まりかけていたのだろう、赤い色がこびり付く手にアルバートの目つきはより一層険しくなった。
そんなアルバートを気配で感じていたウィリアムが恐る恐る当てていたハンカチを取り、もう一度傷の具合を確認してみれば、幸いにも神経を傷付けるような部位ではないことが分かって安心する。
「指が動かしづらかったり痺れる感じはないかい?」
「何ともないです。少し痛いだけ」
「少し痛いだけ?こんなにも深い傷なのだから、相当痛いはずだろう」
「血もかなり出ているね。どうして放っておいていたんだい、ルイス」
「放っていたわけじゃ…」
ちゃんと傷口は洗ったし、止血しようと部屋にハンカチを取りに行こうと思っていたのだと、ルイスは二人へ弁明する。
夕食の手伝いをしようと厨房に行っていただけだから、二人のようにハンカチを持ち合わせていなかったのだ。
怒っている二人相手だとどうにも声が小さくなってしまうけれど、ルイスはルイスなりに対処しようとしたのだから、そんなに怒らなくても良いのにと思う。
だがそんなことより、今は自分のせいで汚してしまったハンカチの方が問題だ。
きちんと綺麗に洗えるだろうか。
いやきっと真っ白に洗ってみせると、ルイスは密かに決意してから顔を上げた。
「あの、ハンカチありがとうございました。僕がちゃんと綺麗に洗うので安心してください」
「安心?たかがハンカチだろう、気にしなくて良い」
「でも、これは兄様のものです。大事なものですから」
「ねぇルイス。調理場で怪我をしたんなら布巾くらいあっただろう?どうしてシャツなんかで押さえてたんだい?」
「え、だって…汚れてしまうから」
血で汚れた布は中々綺麗にならなくて、布巾を汚すわけにはいかなかったから。
だから汚れても良いシャツで押さえて、自分のハンカチを取りに行こうと思ったんです。
ルイスの言い分にウィリアムは視線を伏せながら項垂れて、アルバートは驚愕で垂れた瞳を見開かせた。
自分の怪我よりもたかが布を優先するという発想が信じられなかったのだ。
ともに生きてきたウィリアムは呆れながらも怒ったように顔を顰めているが、ルイスが持つ一面に初めて遭遇したアルバートは怪訝な顔を隠せない。
ルイスくらいの年ならばいっそ泣いてもおかしくはない切り傷を、「少し痛いだけ」と表現しては平然としている姿にも違和感を覚えたけれど、どうやらそもそもの認識が違うらしい。
アルバートは血塗れの小さな手を拭っていたのを止めた後、両手で強く握りしめる。
「…ルイス、怪我をしたときは何よりもまず治療が優先だ。服が汚れてしまうことなど気にしなくていい、先に止血をしなさい」
「でも」
「聞きなさい、ルイス。この怪我だって相当痛いはずだろう。我慢することはないし、本当に痛くないのであればそれこそ問題だ」
「これくらい平気です」
「ルイス」
アルバートが懇切丁寧に言い聞かせても、ルイスは渋るように眉を寄せて反論する。
いつもならば素直に聞き入れてくれるし、最近は随分懐いてくれているからこそ、こんなにも聞き分けのないルイスの姿に苛立ってしまう。
まだまだ小さな体をしている上にすぐ体調を崩してしまうせいか、ルイスは自分の体に頓着がない。
それを気にかけていたウィリアムを見てはいたけれど、こんな形でウィリアムの苦労を知ることになるとは思ってもみなかった。
アルバートは垂れた瞳を釣り上げて、怒られていることにしょんぼりと落ち込みながらも負けじと反抗してくるルイスを見下ろす。
もしやこれが反抗期かと、ついこの前まで家族に反発していた挙句に焼いてしまった反抗期のプロフェッショナルはまたも驚愕した。
「アルバート兄さんの言う通りだよ、ルイス」
「…兄さん」
「自分なりに血を止めようと頑張ったのは偉かったよ。でもそんなシャツじゃ止血できるはずもないし、他に適した素材があるのに選ばなかったのは君の落ち度だ」
「でも、シミになったら大変です」
「ルイスの怪我の方が一大事だよ。僕は布巾を犠牲にしてルイスの怪我を早く治療できるなら、迷うことなくそれを選ぶ。ルイスだってそうだろう?」
「…それは」
「僕が怪我をしたら何を差し置いても真っ先に治療してくれるだろう?僕だってそうしたいと思っているし、ルイスもそれを知っているじゃないか」
「……」
ウィリアムはルイスの傷口を圧迫して止血しながら、じっとその目を覗き込む。
血よりも明るくて、けれど血よりも深い色味をしたその瞳は気まずそうにウィリアムから視線を逸らす。
それはまるでウィリアムの言葉が真実であると肯定しているようなもので、つまりは自分の立場の悪さを自覚していると言っているようなものだった。
兄優勢のやりとりをすぐそばで見ていたアルバートは、ウィリアムが持つ説得力と迫力に素直に感心してしまう。
アルバートのときとは違い、きっとルイスの心にも響いていることだろう。
ルイスの様子を見てもう一押しだと確信したウィリアムは、ルイスの手を両手で強く握り締めてから言い縋る。
「僕が大事にしているルイスを、ルイス自身が蔑ろにしないでほしいんだ」
「……」
「ルイス」
「………………はぃ………」
長い沈黙の末、ルイスは目を潤ませて返事をした。
怪我をするという失態の恥ずかしさと、その対応について怒られてしまった悲しさと、心配をかけてしまったことへの申し訳なさと、自分なりに考えて最良だと判断した対応を真正面から否定されてしまった悔しさと、言いくるめられてしまった情けなさと。
色々な感情が渦巻いているのだろう、ルイスは両眼を閉じて絞り出すように唸り出した。
「ぅう〜…」
「ほら、早く治療しに行こう。もう怒ってないから顔を上げて」
「う、うぅ…僕、タオルを取りに行ったらちゃんと先生のところで手当てしてもらうつもりでした」
「そうだったんだね、引き止めてしまってすまない。僕達も着いていくから早く行こう」
「僕、包丁の扱いも慣れてきたんですよ。今日はちょっと、たまたま怪我をしてしまっただけで」
「そうなんだね、次からは気をつけようね」
「う〜…」
コクリと頷いたルイスは居心地の悪いまま、左手をウィリアムのハンカチで圧迫されながら、右手をアルバートのハンカチとともにその手で覆われながらジャックの元へと向かう。
真っ赤になったハンカチを見て、シミになっても知らないですからね、と思うけれど、きっと二人はどんなシミが残ろうと気にすることはないのだろう。
それが嬉しくも気恥ずかしくて、それ以上に自分の失態が情けなく思う。
不注意ごときで怪我をしないよう、これからはますます気をつけなければならない。
むくれたルイスは決意を新たにするけれど、兄達と両手を繋がれた状態で連行されている姿に威厳はかけらもなかった。
(兄さん兄様、ハンカチありがとうございました。洗ってお返ししますね)
(ねぇルイス、まさか今日すぐにでも洗うつもりじゃないだろうね?)
(?はい。すぐ洗わないとシミになります)
(先生に包帯を巻いてもらったばかりのその手でどうやって洗うというんだい?治るまで大人しくしていなさい)
(え、そんな…!)
((ルイス))
(…はい、大人しくしてます)
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