負けられないかくれんぼ
学生時代の三兄弟がかくれんぼをするほのぼの話。
予防接種が嫌いなおでこちゃん VS 絶対に予防接種は受けさせたい兄さん兄様。
僕はモリアーティ家末子、ルイス・ジェームズ・モリアーティ。
次の誕生日が来ると15歳になる、実に元気な学生です。
普段であればイートン校の寮にいるのですが、学期が終了した今は兄達とともにクリスマス休暇を過ごすため自宅に帰省中です。
寮では中々一緒に過ごすことが出来ないウィリアム兄さんとアルバート兄様と気兼ねなく過ごすことの出来る貴重な期間…とても楽しみにしていました。
兄様の大きなベッドで三人一緒に夜遅くまでお話をしたり、兄さんの好物であるスターゲイジーパイをテーブルいっぱいに並べて一緒に食べたり、勿論勉強にも手を抜かずに予習復習をきちんとこなして休憩と称しつつ一緒にお茶を楽しんだり、そんな休暇を過ごすつもりだったんです。
兄さんと兄様のいる空間から一歩も出ないぞ、と心に決めているくらいでした。
「ルイス、どこにいるんだい?」
「出ておいで、ルイス」
そんな僕は今、兄さんと兄様の声が遠く聞こえる一室に声を潜めて隠れている最中です。
「ルイス、もうすぐお医者様が来てしまうよ」
「何も怖いことはないさ、私達が付いているよ」
二人が先程から僕のことを探していることはよく分かっています。
だって僕を呼ぶ声が絶え間なく聞こえてくるのだから。
僕だってせっかく何の縛りもない環境、二人とずっと離れず過ごしたいと思っていました。
けれど、それとこれとは話が別なのです。
「……」
言葉を出さないまま、声の聞こえる方へと少しだけ顔を向けてみます。
ウィリアム兄さんの姿もアルバート兄様の姿も見えないけれど、きっと二人は懸命に僕のことを探しているのでしょう。
寮に入る前、随分昔にかくれんぼという遊びをしたときを思い出します。
確かあのときは、隠れていた僕が兄さんに名前を呼ばれた直後に出てきてしまって、かくれんぼにならないね、と同じく隠れていたはずの兄様に笑われてしまったのです。
それ以来、何度かくれんぼをしても二人に名前を呼ばれた僕が反射的に出てきてしまうから、僕は隠れる方ではなく見つける役をしていたような気がします。
頑張って二人を見つけて、見つけたらご褒美のように抱きしめてもらえるのが嬉しかったので、僕はかくれんぼがだいすきでした。
あの頃の僕が今の僕を知ったら、隠れるのが上手くなったのだと尊敬されるかもしれません。
だってこれは見つかってはいけない勝負なのだから、決して自分から出ていくなんて迂闊な真似をするわけにはいかないのです。
「ルイスー早く出ておいで」
「もう日が暮れてしまう。ルイス、かくれんぼはおしまいにしよう」
「……」
日が暮れてしまえばお医者様はきっと帰るはず。
それまで凌げば良いと、僕は窓の外を見ました。
まだ陽は高くて夕焼けにも程遠いけれど、いつまで隠れれば良いのか目処が付いただけでも精神的に余裕が出来ます。
僕は、よし、と一人で握り拳を作って気合いを入れなおしました。
けれどその直後、
「みーつけた」
すぐ後ろ、耳の近くで、ウィリアム兄さんの楽しそうな声が聞こえてきたのです。
「っ、ぅわぁ!?」
「さぁルイス、お医者様が待っているよ。急ごうか」
「え、ぇ、や…あぁ〜!」
僕が驚いて真横に飛び退いていると、すかさずアルバート兄様に腕を引かれてそのまま抱き上げられてしまいました。
縦に抱えられてしまったからそのまま兄様の肩に手を置くと、ショコラみたいな色の髪の毛の合間につむじが見えます。
最近の兄様は成長期という期間に差し掛かっているらしく、どんどん背が伸びているのです。
すぐに服が小さくなってしまう、とお下がりをよく貰うので兄様の成長期は僕が誰より知っているはずだったのに、こうも簡単に抱えられるとさすがにびっくりしてしまいます。
兄様のつむじ初めて見た、と感動するのと同じくらい、しまった見つかってしまった、と絶望を感じてしまいました。
「ルイスは良い子だから、もう逃げたりしないよね」
ね、ルイス。
アルバート兄様に抱えられていると、すぐ隣からウィリアム兄さんの声が聞こえてきました。
笑っているのに笑っていない、むしろどこか怒っているような声にギクリとしてしまいます。
僕は逃げようなんて思っていなかったけれど、それはただこの状況を理解出来ていなかっただけです。
きっとすぐに逃げるだろうと、兄さんはそれを見越して僕を牽制したのでしょう。
兄さんの声をサポートするように、僕の背中を支えている兄様の腕の力が強くなりました。
顔は見えないし声も出ていないのに、兄様はまるで、絶対に逃さない、と言っているようでした。
それに加えて兄さんに手を取られてもう一度、ねぇ、と念押しされるように言われてしまえば、もうどこにも逃げられません。
僕から始めたこのかくれんぼに、僕は負けてしまったのです。
「……うぅ」
観念した僕をようやく許してくれたのか、兄さんは笑っていなかった笑顔をいつもの笑顔に戻してくれました。
そうして兄様はそのまま僕を抱えたまま歩き出して、隠れていたリネン庫から三人一緒に出ていきます。
安定した浮遊感に揺られながら、僕は往生際悪く縋るように懇願しました。
「…………注射、いやです…僕、こんなに元気なのに」
はいはい、と聞き流されてしまったけれど、兄さんも兄様も僕の気持ちをちゃんと受け止めてくれているのでしょうか。
いつもならもっときちんと返事をしてくれるのに。
「僕、元気なのに」
「そうだね、ルイスが元気なままいられるための注射だからね。元気がなくなってからでは遅いんだよ」
「ずっと元気なままだったら、その注射は意味がないじゃないですか」
「注射をしたから元気でいられる可能性が高くなるんだろう。去年も風邪を引いたのを忘れたのかい?」
「そう、そうですよ。去年も注射したのに、結局風邪を引きました。注射は意味がないと思います」
「そうだね、いつもなら一週間寝込むのに去年は三日で済んで良かった。注射のおかげだね」
「うぐ…」
僕が何を言おうと、僕より数段頭が良い二人には完封されてしまいます。
二人が言っていることは本当で、確かに去年の風邪はその前の年よりもグッと軽く済んでいたのです。
僕も健康になったんだなぁと嬉しかったのに、それがまさか注射のせいだなんて思っていませんでした。
一年越しの効果を伝えられたところで感謝は出来ません。
もう反論すら出来なくて、僕は兄さんと兄様に連行されたまま、応接室で待ち構えていたお医者様の前でようやく下ろされました。
「それではルイス坊ちゃん、早速今年の予防接種を済ませてしまいましょう」
見慣れた主治医の顔を、こんなにも疎ましく感じるなんて。
いつも僕を診てくれている頼りになるお医者様なのですが、今だけは唸りたくなるほど見たくない顔です。
僕は、予防接種という名の医療行為が、大嫌いなのです。
「……」
「ルイス坊ちゃん、すぐ終わりますからね」
「…………」
僕は今こんなにも元気いっぱいなのに、わざわざ痛い思いをするなんて理不尽だと思います。
昔から病気がちの僕は、苦い薬を飲むのも採血をするのも点滴の針を入れるのも慣れています。
でもそれは具合が悪くて「これをこなさなければ良くならない」「良くならないと兄さんと兄様の役に立てない」という必要に駆られてするからであって、しなくて良いのならしないに越したことはありません。
ましてこの予防接種、風邪を引きにくくする、風邪を引いても悪化しないようにする、という何とも効果が曖昧な代物です。
医療は日々進歩しているそうですが、それなら「絶対に風邪を引かない」予防接種の薬を作ってから出直してきてほしいものです。
「…坊ちゃん、そう睨まないでくれますか」
「すみません、先生。ほらルイス、腕を出して」
「……」
「すぐに終わるよ、大丈夫。さぁ勇気を出しなさい」
「……」
何も言わずにお医者様をジト目で睨んでいたら、兄さんに怒られてしまいました。
渋々腕を出したら兄さんに袖を捲られて、兄様が頭を撫でて応援してくれます。
何故わざわざ痛い思いをしてまで、風邪をひくかもしれない未来のために、今頑張らないといけないのでしょう。
風邪を引いたときに頑張れば良いのに。
未来の僕はきっと頑張ってくれるのに。
思わず頬を膨らませていると、兄さんが気を紛らわすようにその頬をむにむに触ってくれました。
「頑張って、ルイス。僕と兄さんが付いているからね」
「そうとも。ルイスは良い子だし強い子だから、少しの痛みくらい耐えられるだろう?」
「そうですよ、ルイス坊ちゃん。坊ちゃんなら耐えられます」
「……」
三人分の応援を聞いていると、腕にちくりと刺すような痛みが走りました。
その後で何かが入ってくるような染み渡る感覚がして、思わず眉を寄せてしまいます。
皮膚の下という見えない部分をいじられるのがどうしても不快で、そもそも痛くて不愉快極まりない限り。
でも確かに予防接種はすぐに終わって、お医者様が絆創膏を貼ってくださいました。
「はい、終わりです。あとは少し様子を見て、問題がなければ私は帰りますので」
「ありがとうございます、先生」
「お茶を用意しましょう」
「いえいえお構いなく。お茶は是非、またの機会にご一緒させてください」
「それは残念。ではいつか必ず」
「……あの、ありがとうございました」
お医者様にお礼を言う兄さんと兄様に倣って、僕もペコリと頭を下げます。
仕事とはいえ、お医者様も僕のためにやってくれたのですから、お礼を言うのは当然のことです。
嫌がってごめんなさいの意味を込めて少し長めに頭を下げていると、誰かに頭を撫でられました。
この手の感触はきっと兄様でしょう。
顔を上げて見てみればやっぱり兄様で、顔にかかった前髪を綺麗に整えてくれました。
「ルイスもよく頑張ったね、偉いじゃないか」
「…はい」
「頑張ったご褒美にいちごのアイスを用意しているよ」
「いちご…!」
この前食べて以来気に入っているお菓子を引き合いに出されて、憂鬱だったはずの気持ちが少しだけ浮き上がります。
温かい暖炉の前で食べる冷たいアイスクリームはとても美味しいのです。
気を取り直した僕を見て、食欲があるのなら心配ないでしょう、と言ったお医者様は帰っていきました。
「それにしても、ルイスのかくれんぼの技術は年々上がっているね」
「昔はあんなに下手だったというのにな」
「ふふ。昔のルイスはかくれんぼのルールが分かっていないのかと疑うくらいでしたからね」
「今もあんな一面が少しでも残ってくれていれば、探すのも楽なんだが」
暖炉の前、三人並んでいちごのアイスクリームを食べていると、左右からそんな会話が聞こえてきます。
昔のことを話されるというのは何だか恥ずかしいものです。
僕は兄さんと兄様の会話には参加せず、黙々とアイスクリームを食べていました。
すぐになくなってしまうのは悲しいので、スプーンでちまちまと食べ進めていたはずなのに、あっという間に最後の一口です。
溶けてしまう前に最後まで食べてから、僕はようやく顔を上げました。
「僕、予防接種は嫌いなんです」
「うん?突然どうしたんだい、ルイス」
「それはよく理解しているが」
覚悟を決めて告白すれば、二人は目を丸くして僕の言葉の真意を探るかのように首を傾けました。
そんな必要はないと、僕はすぐに二人に答えを教えます。
「だから、来年は予防接種を受けたくないんです」
重苦しい雰囲気を意識して低い声を出すと、ウィリアム兄さんもアルバート兄様もますます目を丸くさせました。
自分で言うのもなんですが、僕は日頃からわがままを言ったりしません。
兄さんと兄様を困らせてしまうのは僕の本意ではありませんし、僕は二人の足手纏いにはなりたくないのです。
でもこれは僕個人の問題です。
予防接種を受けなくて困るのは僕だけだから、これはわがままにはなりません。
いくら態度で示していても、嫌なことはちゃんと言葉に出して言わないと相手に伝わらないのです。
だから僕はきちんと言葉にして、もう予防接種は嫌なのだと二人に伝えました。
「それは駄目だね」
「来年も予防接種は受けてもらうよ」
「…!!」
今この瞬間、来年のこの時期にも僕達はかくれんぼをすることが確定しました。
必ず兄さんと兄様から逃げ切ってみせると、僕は密かに決意したのです。
来年のかくれんぼこそ、ウィリアム兄さんでもアルバート兄様でもなくこの僕が勝ってみせます…!
(来年の僕はあと10センチは背が伸びていると仮定して、物置のスペースにはきっともう入れないはず。いくら広い屋敷とはいえ、大きくなった僕でも隠れられるスペースはそんなにない…そうなるとやっぱり庭に隠れるか、いっそ朝から町に出るのも一つの手かもしれません。いつお医者様に予約の連絡をするか把握しておかなければ。兄さんのことだから休暇初日に呼ぶ可能性もあります。そのときはどうするべきか…)
(ーーなんてことを考えているのでしょうね。ルイスに往診の日にちを教えないことは絶対だとしても、休暇初日はルイスも一番警戒しているでしょうからリスクが高い。この日は敢えて往診を避け、帰省したその日から一日中ルイスに張り付き一緒にいるのが普通だと認識させましょう。夜は僕か兄さんのベッドで眠らせます)
(なるほど。往診の日だけではなく、初日から常に逃がさないというわけだな)
(えぇ。さすがに町へ行かれては探すのも一苦労ですからね。油断させてから狩りに行きます)
(おや、物騒な物言いだね、ウィリアム)
(物騒でも何でも絶対に逃すわけにはいきませんからね。ルイスが少しでも苦しまなくて良い未来のためなら手を抜きません)
(ふ…それでこそウィリアムだ)
0コメント