あめあめ、ふれふれ
雨の中、アルバート兄様を迎えに行くウィリアムとルイスの話。
傘にカッパに長靴で完全防備しているちんまりしたウィリアムとルイス、絶対かわいい。
英国という国で雨はさほど珍しくない。
しかもどうやらこの国の空はまめな性格をしているようで、晴れと雨とをはっきり分けるよりも、晴れているのに数時間だけ雨が降ったり、薄曇りの日に霧雨が降るというような空模様が多かった。
降っていても近くのカフェでお茶を飲んでいる間にやんでしまうか、歩くのに支障はない程度の雨ばかりで、ゆえに雨具を持ち歩く習慣のない人間ばかりである。
まとまって降るような大雨の日は年に数回ほどなのだから、それも当然のことだった。
「雨、やまないですね」
モリアーティ邸の広いリビングの中、まだ幼い子どもが二人きりで留守番をしていた。
この屋敷の次男であるウィリアムと三男であるルイスだ。
長男かつ次期当主たるアルバートは所用で朝から出かけており、今もなお不在だった。
「そうだね。降り始めた頃は空が明るかったけれど、もう随分と薄暗い。夜まで振り続けるかもしれない」
「夜まで…」
ルイスは大きな窓に近寄り、分厚いカーテンをほんの少しだけ開けてそろりと外の様子を伺う。
視界には重たそうな雲から大粒の雨が止めどなく降り続いており、反射したガラスには大きな瞳に不安をいっぱいに浮かべたルイスが映る。
季節を考えれば寒くはないのだろうが、雨に濡れたところから体が冷えてしまうのは確かだろう。
朝早くにアルバートが出て行ったときは快晴だったというのに、今日の空は随分と機嫌を損ねてしまっているらしい。
「兄様、濡れていませんよね?」
「まだ用事が済んでいない頃だから、外にはいないはずだよ」
「帰ってくる頃までにはやむでしょうか」
「うーん、どうだろう」
ウィリアムもルイスの隣に立ち、同じように重たい空とたくさんの雨を見る。
そこかしこに水溜まりが出来ており、考えるだけでも外に出るのが億劫になってしまう。
だがそんな中、アルバートは外に出ているのだ。
用事を済ませた後で帰宅する際、濡れてしまっては大変なことだとルイスは考える。
弟のそんな考えに同調するようにウィリアムも眉を下げるが、この空模様を見る限りはアルバートが帰宅するだろう時間にも雨は続いているはずだ。
歯切れの悪いウィリアムの返答にその真意を察したルイスは、空を見上げていた顔を下げて肩を落とした。
「兄さんが帰ると言っていた時刻までまだ時間はある。ルイス、そう心配しないで」
「…はい」
朝は快晴だったのだから、アルバートは傘を持って行かなかった。
これほどの土砂降りでなければ雨など気にせず帰ってきただろうし、そもそも彼ならば馬車を使って帰ってくるだろう。
だが、予想していなかった大雨に足止めされてしまう人間は他にもきっと大勢いる。
駅には馬車を待つ人がたくさんいて、待ちきれずに諦めて濡れて帰ろうとする人もいるかもしれない。
そんな未来が目に浮かぶようで、ルイスにもウィリアムにも、せめてアルバートが帰宅する頃には雨足が弱まっていることを願うしか出来なかった。
「兄さん、あと少しで兄様が帰る予定の時間です。もしかするともう駅にいるのかもしれません」
「そうだね…雨がやむ様子はないし、どうしようか」
しばらくの時間を読書と勉強、食事の用意に費やしていたが、ふと時計を見ればアルバートが宣言した時間が一時間後に迫っている。
雨足は強まってはいないが弱まってもいない。
こんな土砂降りの中、傘もなしに歩いて帰ってくるのは現実的ではないだろう。
「今頃、兄さんは馬車を待っている頃かな」
「足元が濡れてしまうと寒いですよね…大丈夫でしょうか」
明かりを付けた部屋の中、窓から薄暗い外の様子を覗く二人。
帰宅したアルバートがすぐに食べられるよう食事の準備は済んでいるし、玄関先には大きいタオルを何枚も用意している。
いつでも帰ってきて良いのだが、それはいつになるだろうか。
ルイスは過去、店仕舞いした本屋の軒下でウィリアムと二人で雨宿りをして凌いだことを思い出す。
あのときもしばらく雨はやまなくて、ウィリアムはルイスの体調を考えて傘もなしに孤児院へ戻るようなことはしなかった。
けれどどれだけ待っても雨はやまず、このままではろくな毛布もないまま軒下で野宿することになると、ルイスがウィリアムの腕を引いて雨の中を帰宅したのだ。
当然のように翌日のルイスは熱を出したけれど、それまでずっと雨は続いていたのだから、あのまま軒下にいたところで体調を崩していたことだろう。
むしろ一晩ずっと外にいたらルイスだけでなくウィリアムも体調を崩していただろうから、ルイス一人が風邪を引いて済んだのならそれが最善だったとすら思う。
「…兄様が風邪を引いたら嫌だな」
あんなに寒くてつらい思いをするのは可哀想ですと、ルイスは窓の外を見て小さく呟いた。
照明の関係で先ほどよりもガラスに映ったルイスの顔が鮮明に見える。
ウィリアムは弟の顔を見やり、そうしてまた窓の外へと視線を向けた。
「…よし。ルイス、兄さんを迎えに行こう」
「え…でも、もしかしたらすれ違いになってしまうんじゃ」
「今ならまだ駅で馬車を待っているはずだよ。兄さんの傘を持って、僕とルイスで兄さんを迎えに行こう」
「は、はい!」
アルバートの出掛け先と朝伝えられた帰宅時間から逆算して、今頃ようやく駅に着いた頃だろう。
駅は馬車を待つ人で混んでいるはずだが、動向も分からないままこの雨の中を歩いて帰ってくるとは考えにくい。
すぐに家を出ればきっと駅で待つアルバートと会えるだろうと、ウィリアムはルイスの手を引いてリビングを出た。
けれど向かった先は浴室で、中の様子を確認してから玄関へと向かっていく。
「ルイス、お風呂の用意もしていたんだね」
「はい、兄様が帰ってすぐお風呂に入れるよう準備していました。お湯を溜めればすぐに入れます」
「さすがだね。さぁルイス、これを着て」
玄関近くに備えられたクローゼットから二着のレインコートを取り出す。
そしてまずはルイスにそれを着せてから、ウィリアムも自分のコートに袖を通した。
真新しいコートは以前あった大雨のとき、「念のため」と称してウィリアムとルイス用にアルバートが買い与えたものだ。
だがそれほど頻繁に大雨になるわけでもなく、幸いにも今日まで使う機会がなかったため、今になってようやく初めて袖を通した。
少し大きめのデザインはルイスの指先近くまで袖が余り、丈も足首がかろうじて見えるくらいだ。
コートに着られている感が強いけれど自分も似たようなものだろうと、ウィリアムはこぼれそうな笑いをどうにか抑えてボタンを止めた。
「あとはこの靴を履いて、フードを被ればいいね」
「兄さん、ポケットにタオルも入れていきたいです。兄様が濡れてたら渡してあげないと」
「そうだね。もし冷えていたら体力を使っているだろうし、飴もいくつか持っていこうか」
「僕、取ってきます!」
パタパタとコートを翻して慌ただしく部屋の中に戻り、両手いっぱいに飴を乗せたルイスがウィリアムの元へ戻る。
溢れんばかりの飴を見たウィリアムは、こんなにたくさんはいらないよ、と笑いながらも、ルイスの気持ちを汲んでその全てをコートのポケットに入れてあげた。
ルイスのポケットにはタオル、ウィリアムのポケットにはたくさんの飴がある。
そうして揃いのレインブーツを履いてから一番大きな傘を二本手に取り、大雨の中を一緒に歩き出した。
「酷い雨ですね、夏なのに肌寒いくらいです」
「あんなに晴れていたのに、今日の空は随分と気紛れみたいだ」
「明日は晴れますか?」
「晴れると良いね。雨上がりの空気はとても澄んでいて綺麗だから」
ウィリアムが差した傘の下に二人は一緒に収まっており、ルイスの手にはランプとアルバートの傘があった。
雨粒がレインコートに当たる感触がして、窓から見ているよりもずっと土砂降りだったことを実感する。
ともすれば雨音で互いの声が聞こえなくなってしまいそうだったけれど、一つの傘に収まっているおかげで問題なく会話が出来た。
駅までは二人の足で二十分ほど、この雨の中でも三十分とかからないだろう。
アルバートが馬車に乗ることが出来て先に帰宅するのならそれで良い。
だが、もしアルバートがまだ駅にいて、諦めて濡れたまま帰るような可能性がある以上は、早く迎えに行ってあげなければならない。
「兄様、まだ駅にいるでしょうか」
「きっといるよ。急な雨だからお店の傘は売り切れているだろうし、立ち往生しているだろうね」
「早く迎えに行ってあげないと」
「そうだね。ルイスのタオルもこの飴もちゃんと渡してあげないとね」
「兄様にはりんご味の飴が良いと思います」
「ふふ、それはルイスがすきな味じゃないか」
雨の中、ウィリアムとルイスは面倒そうな表情一つ浮かべず笑いながら駅へと向かう。
天気の悪い日に出かけるという非日常に気持ちが浮ついてしまうことと、アルバートの助けになれるかもしれないという少しの期待が、二人の心の奥底にある億劫な本音を覆い隠してしまった。
困っている人を助けるのは心が救われる。
その対象がアルバートならば、尚更張り切ってしまう。
レインブーツを履いているルイスの足が勢いよく水を弾いた。
「兄さん、馬車を待っている人達があんなにいますよ」
「こんな日なのに馬も御者も大変だね。あの行列が解消されるのはまだまだかかりそうだ」
「兄様はどこでしょうか。並んでいるのかな」
「とりあえず、前の方から探していこう」
駅に着いた二人は想像以上に並んでいる馬車待ちの人達に圧倒される。
周りには同じように傘を持って迎えに出ている人もおり、小柄なウィリアムとルイスは人と傘でほとんどの視界が遮られてしまう。
これほどの雨なのだから、まさか聡明なアルバートが濡れることを選ぶはずがない。
ウィリアムは行列の先頭に足をやり、待っている人達の顔を順に見ていった。
「ん…?」
「あ、兄様!兄さん、兄様がいました!」
「アルバート兄さん」
「ルイス、ウィリアム!」
四つの赤い瞳に見上げられて首を傾げる大人を何人も見送っていると、ようやく目当ての人を見つけられた。
体格の良い大人に紛れた、成長期らしい細身のスラリとした体型の少年。
列から少しだけ顔を出して前の様子を伺っているアルバートを見つけたルイスは、傘を持っているウィリアムの手を掴んで視線を誘導する。
併せて名前を呼び掛ければ、驚いたようにその翠色の瞳が丸くなった。
「どうしたんだい、二人とも」
「良かった、すれ違いにならなくて」
「お迎えに来ました、アルバート兄様!」
アルバートはそのまま列から抜け出し、二人の元へと足を進める。
屋根のある空間から出てくる彼のために、ルイスは持っていた傘を開けてアルバートを雨から覆い隠した。
「この大雨の中を迎えに来るのは大変だったろう?私は馬車を待つから大丈夫だったのに」
「でも、こんなに行列だと兄さんの番が来る頃には日付が変わってしまいますよ」
「そんなに長い時間、この雨の中で待っていたら兄様が風邪を引いてしまいます」
「それはそうかもしれないが…」
「僕達なら平気です。ルイスと話しながら来たのであっという間でしたよ」
「兄様に貰ったコートとブーツを使う機会になって良かったです」
似合いますか、と両手を広げてコートをアピールするルイスに頷いてあげれば、末の弟は満足そうに口角を上げた。
ウィリアムにも同じように似合っていると声を掛ければ、彼も照れくさそうに笑っている。
アルバートはルイスの手から見慣れた傘を受け取り、まずはこの人混みから離れようと自宅方面かつ空いている場所へ歩き出した。
その後をウィリアムとルイスもついていく。
「わざわざ迎えに来てくれてすまないね。ありがとう、助かったよ」
過去ならば、使用人が馬車で迎えに来てくれていたのだろう。
アルバートもそれを当然のものと享受していたし、だから改めて礼を言うこともなかった。
けれど今のモリアーティに使用人はいないし、三兄弟揃って御者の真似事どころか馬に乗ることも出来ない。
ゆえに迎えに来るとなれば徒歩以外に選択肢はないのだが、こうして濡れることを顧みずに歩いて迎えに来てくれた弟達を前にすると、感謝と慈しみ以外の感情が見つからなかった。
アルバートはふんわり温かい思いでいっぱいになった心のまま、二人に向かって穏やかに笑って見せる。
「兄さんのお役に立てたのなら良かった。家では食事の用意もお風呂の用意も出来ていますよ」
「思っていたより寒いので、先にお風呂が良いと思います」
「そうだね、三人で一緒に入ろうか。ルイス、すきな入浴剤を入れて良いよ」
「本当ですか?」
屋敷に帰るべく雨の中を歩きながら、雨音に負けないよう大きな声で会話をする。
明かりはルイスが持っているランプのみで、夜間かつ天気が悪いこともあって視界は良くない。
それでも三人ともにいるせいか、恐怖心は一切存在しなかった。
「そうだ、疲れているかと思って飴を持ってきているんです。兄さん、お一ついかがですか?」
「用意がいいね。では貰おうか」
「兄様、りんごの飴がおすすめですよ」
「ではりんごを頼むよ」
「はい」
両手で傘を持っているウィリアムに変わり、ルイスは彼のコートのポケットから掴めるだけの飴を取り出す。
そうしてりんごの絵が描かれた包みを開けて、アルバートの手に渡してあげた。
「兄さんはどの飴にしますか?」
「ルイスのおすすめでお願いするよ」
「じゃあ、いちごの飴で」
「うん、ありがとう」
続けていちごの飴の包みを開けて、そのままウィリアムの口の中に放り込む。
雨音に紛れて聞こえないけれど、きっと二人の口からはからりころりと飴玉を転がす音がしているのだろう。
ルイスはりんごといちごが抜けて残った飴の中で、悩みつつもぶどうの飴を選んで口に入れた。
「美味しいですね」
「雨の中で飴を食べるというのも良いね。初めての体験だよ」
「舐め終わる頃には家に着いているでしょう。せっかくですし、ゆっくり歩きましょうか」
「そうしようか」
視界は悪く、雨で濡れて、気温が下がって薄寒い。
それでも急がなくても良いだろうと、ウィリアムとアルバートはゆっくりを歩いていく。
傘を持たないルイスは二人に合わせるしかなくて、けれど少しも不満を感じないまま楽しそうに水溜まりの水を弾いていた。
(雨の日はあまりすきではなかったんですけど、なんだかすきになれそうです)
(三人一緒なら雨も平気だからね。僕もすきになれそうだよ)
(すきなものが増えるのは良いことだ。私も二人を見習わないといけないな)
(兄様は雨はお嫌いですか?)
(得意ではないかな。でも、二人が迎えに来てくれるなら少しはすきになれそうだ)
(いつでも迎えに行きますよ、僕達二人で)
(任せてください)
(ふ、それは頼もしいな)
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