愛に飢えた子ども


知らなかったことを教えてくれたルイスを愛しく思うウィリアム。
ルイスは無意識にウィリアムの心を救ってきたんだろうな。

父親に捨てられ、母親に疎まれ、それでも懸命に手を伸ばして付いていこうとした。
一人では生きていけなかったから、付いていくことで生き延びようとしたのだ。
そうまでして生きたかったのかと尋ねられれば疑問が残る。
けれどあの頃あの時代、本能的に生き延びようとしていたのは事実だった。

「にぃに?」
「なんでもないよ、ルイス」

転びながらもようやく走れるようになった。
これでやっと母親に追いつけると思っていた矢先、彼女が連れ帰ったのは自分の弟だという小さな小さな乳飲み子だった。
記憶のある限り自分のことを一度も抱いてくれなかったというのに、自分が欲しくて欲しくて仕方がない彼女の腕の中を、いとも簡単に占領している赤い瞳の赤ん坊。
自分の弟。
けれどそんなことはどうだって良くて、ただただ自分の目に映るその光景が許せなくて、いつのまにか兄になっていたらしいその子どもは、自分の母親と自分の弟を知らず睨みつけていた。
愛されたことのない自分よりも先に愛されている弟が憎い。
子どもらしくそう思ってしまったのだ。
だが自分の憎しみと妬み嫉みが全て勘違いだったと知るのはこのすぐ後だ。
母親は抱いていた赤ん坊の名前を吐き捨てるように呟き、「あんたが育てなさい」と兄である子どもに全てを託してどこかへ行ってしまった。

「…にぃに?」
「あぁ、ごめんね。なんでもないんだ、ルイス」
「…うん」

自分が貰えなかった愛情を与えられるのかと絶望した弟の名はルイスで、自分の絶望などおよそ意味がないものだったのだ。
この子も母親に捨てられたようなものだった。
腕の中で不思議そうに自分を見つめるルイスと焦点が合うことはなくて、生まれてからまだほんの一ヶ月か二ヶ月しか経っていないのだろう。
ふわりとした金髪は触れていて気持ちが良い。
赤い瞳は自分のものとよく似ている。
鏡すら存在しないこの部屋の中、まるで写し身を見ているような気持ちになってしまった。
この子は間違いなく自分の弟だ。
自分と同じ、父を知らず母親に見捨てられた、そっくりそのままの境遇を持つ自分の半身だ。
湧いた感情をどうしたら良いのか分からないまま、兄になった子どもは弟であるルイスの体を弱々しく抱きしめる。
不思議そうな顔のまま自分を見つめる弟に、すてられたんだよ、と心の中で呪うように呟いてしまった。
そうして母親など滅多に帰ってくることはない部屋の中、時折届けられる小さなパンと薄いミルクで幼い兄弟は何とか飢えを凌いで生きていく。
育児など手探りで、それどころか自分も育児される側の年齢にすぎないため、同じ立場の大人が手伝ってくれたおかげで二人は5年を生きることが出来た。

「にぃに、どこにいくんですか?」
「…じつはね、ルイス。あのいえには、もうもどらないでいようかとおもうんだ」
「おうち、かえらないんですか?」

兄と弟は手を繋ぎ、いつものように物乞いをしに路地裏へと足を進めていった。
普段と様子の違う兄を見上げ、ルイスは大きな瞳を丸く見開いて自然な疑問を問いかける。
自分達以外の誰かが帰ることはほとんどないけれど、それでもあの家は自分達の家だ。
年に数回だけ母親が帰ってきてくれる場所でもある。
母親の顔どころか声すら靄がかってよく思い出せないが、あの家を出てしまっては帰る場所がなくなってしまうのではないだろうか。
ルイスは悲しげに眉を下げ、兄が何を考えているのかを幼いなりに理解しようと耳を澄ませた。

「あそこにいつまでいたって、きっとかあさんはぼくたちといっしょにくらしてくれない。ただまっていてもだめなんだ」
「でも…」
「ぼくたちみたいなこどもをほごしてくれるしせつがあるときいたんだ。そこでぼくといっしょにがんばろう、ルイス」
「…はい」

あの家にも母親にも未練はない。
何度希ったとて、望んだ愛情をくれることは二度とないのだ。
たまに帰ってくるのだって、せいぜいが死んでいないかどうかの確認程度なのだろう。
死んでいたらいたで帰ってきて住めば良いのだし、生きているのなら勝手に死ぬのを待てばいい。
聡明な兄はそのことに気付いていて、どう転んだとしても自分と弟には一切の利点がない。
協会や孤児院に行って過ごす方が、毎日物乞いに出るよりもよほど良い生活が待っているはずだ。
一応は慣れ親しんだ家ではあるが思うことなど何もないし、ルイスとともに新しい人生を歩んでいくのも悪くないと、幼い兄は幼い弟の手を引いてにっこりと笑った。

「ぼくがついているからね、ルイス」
「にぃにといっしょなら、どこでもうれしいです!」
「…ありがとう」

ただ純粋なまでに慕ってくれる弟の存在が、兄にとってたった一つの希望だった。
刷り込みのようなものなのだろう、ルイスは兄に対して唯一と言っていいほど執着しては離れようとしない。
今もぎゅうと手を握り返して、ふわりと舞う髪の毛を遊ばせながら駆けるように兄の隣を歩いている。
滅多に会わない母親よりも兄の方がよほど大事で優先すべき存在なのだと、その表情を見るだけでもよく伝わってきた。

母親を必死に追いかけても追いつけなくて、苛立ちとともに浴びせられるため息は今でも覚えている。
泣いても喚いても疎まれるだけで、せめて笑っていれば多少空気が和らぐことを学んでからは、張り付いた笑顔が自然と身についてしまった。
笑いたくもないのに愛情求めて笑う毎日を過ごし、子どものくせに疲れていたのは事実だ。
そんな日々の中でいきなり現れた弟は、親に貰えない分の愛情まで兄である自分に求めているようだった。
与えられたことのない感情を自分に求める様子を見て滑稽だと思ったし、どんなに求められようが知らないものは与えられないと、不意に戸惑う自分も哀れで仕方がない。
なんと可哀想に飢えた兄弟なのだろうと、他人事のようにそう思った。
けれど、求めているのならば与えたいと思うのは兄としての本能なのだろうか。
甘えてくる姿を見てどうして良いか分からず、淡々と笑顔を返して当たり障りのない言葉と行動を取っていただけなのに、ルイスはそれで満足だったらしい。
抱きつかれて抱きしめ返せば声高く笑ってくれて、祈りのように額へとキスをしてあげれば嬉しそうに返してくれる。
一人で眠っていた薄汚れた毛布も、ルイスと一緒に包まって眠れるのならばシルク以上の価値があった。
初めて自分のことを呼んでくれた日も、初めて自分に向かって歩き出した日も、初めて自分に「だいすき」と言ってくれた日も、全てが大事な記憶で大切な宝物だ。
母親に満足な愛情を貰えなかった自分にとって、ルイスだけがたくさんの愛情と感情をくれた。
持っていないはずのものを本当は持っているのだと、ルイスが教えてくれたのだ。
だからこの兄にとってルイスとはかけがえのない存在であり、唯一無二の愛しい弟だった。
欲しくて堪らなかった愛情を無意識に与えてくれたのはルイスだ。
知る機会すらなかった感情を当然のように教えてくれたのもルイスだ。
思い悩んでいた自分の苦悩をさも簡単に解決してしまった弟のことを、まるで奇跡のように思う。
ルイスがいなければ、自分は生涯満たされることのないまま死んでいたかもしれないのだから。
自分とそっくりな顔を持つ愛しい半身。
この子のためなら何でもしてあげたいと素直に思えるほど、大切な人だった。

「兄さんは凄いですね。とっても物知りで頭がいいです」
「そうかな」
「はい。だってこんなに難しい本を読んで、僕にも分かりやすく教えてくれるなんて…とっても凄いです!さすが兄さんですね」
「ふふ、ありがとう」

家を捨てて母も捨て、ひとまずの仮宿にしたのは潰れた貸本屋だった。
そこにはたくさんの本が山のようにあり、兄弟はまるで飢えていた知識欲を満たすかのようにあらゆる書物へと没頭した。
弟が絵を中心に据えた本を読んでいるとき、兄は既に文字の羅列ばかりを読んでいる。
読み進めていくうちにある種の法則性に気がついたのか、独学で字を学んでは弟にも読み書きを教えてあげた。
極々自然に出来てしまったことが普通ではないとルイスからの助言でやっと気が付いた兄は、それでも自分よりルイスの方がよほど素晴らしい存在だと感じている。
自分のことを誇らしく思ってくれているのは素直に嬉しいし、嬉しそうに笑みを見せるルイスも可愛らしい。
もし本当に自分の頭が良いのであれば、後ろめたいことをして生きていくよりも真っ当な方法で食べていけるかもしれない。
そう気付かせてくれたルイスに感謝の意味を込めて優しく抱きしめた。
腕の中の細い体は照れくさそうに、けれど楽しそうに微笑んでいる。
純粋に自分を慕うルイスが表舞台を歩んでいけるような人生が必要だ。
独りぼっちだった自分を救ってくれたこの子は、いつまでも闇の中を生きていて良い存在ではない。

「兄さん、今日もみんな喜んでくれましたね」
「あぁ。みんな困っていることはあるのに、それを解決する方法については知らないことが多いみたいだね」
「調べ物をする機会なんてないのかもしれません」
「そうだね…そんな余裕もないくらい、日々の生活が苦しいんだろう」

並よりもうんと優れていると分かった頭脳を駆使して、幼い兄弟は町の人々にありとあらゆる助言をして生活するようになる。
元より誰かの迷惑になるようなことはしてこなかったから、盗みや悪事を働くことのない真っ当で健全な生活だ。
自分にそんな才能があったのかと驚くばかりだが、一人ではなくルイスがともにいると思えば俄然やる気に満ち溢れてくる。
可愛い弟にちゃんとした生活を送らせるためならば持ちうる全ての知識を総動員して、たくさんの悩みを解決してあげたいと思う。
困っている人に手を差し伸べられる人間は、きっとルイスの兄として相応しい存在になれることだろう。
この子に相応しい兄となり、この子に相応しい世界を作り上げることが今一番の目標だ。
ルイスとは自分にとって「全て」だと言って良いほどに尊い存在である。

二人きりの兄弟は今日の報酬に貰った三つのパンのうち一つずつを手にとって、遅めの昼食代わりにゆっくりと食べていく。
冷めたミルクスープだけど十分に旨味が出ていて美味しい。
そうしてパンを食べ終えて、一つ余ったパンを当然のように弟へと分け与えようとする兄を見て、ルイスは首を振って手を伸ばした。

「これは半分こです」

兄さんのおかげで貰えたパンだから、本当は兄さんが食べるべきですけど…と言うルイスの口を片手で塞ぎ、それは有り得ないことだと教えてあげる。
ルイスを差し置いてお腹を膨らませることに意味なんてない。
まだお腹が空いているだろうに兄を思いやる優しい心根に、今までどれだけ救われてきたかこの子が理解することはないのだろう。
兄は大人しく弟の提案通りパンを二つに分け、仲良く残りを食べて一息つくように隣り合わせに座った。
誰よりも愛しい存在が、同じくらいに自分を必要としてくれている現実がとても眩しく思う。
柔らかな温度を感じさせる小さな手を握りしめ、僕の弟として生まれてきてくれてありがとう、と淡く小さく囁いた。



(ルイスのこと?奇跡みたいな存在だと思っているよ)
(マジか)
(勿論。ルイスほど眩しい存在を僕は知らない。彼こそ美しく浄化された英国に相応しい人間だよ)
(…ガチだな、ウィリアム)
(ふふ。まぁ君のおかげでルイスがそれを願っていないことが分かって、もう叶わない僕の夢でしかないけどね)
(何だよ、恨んでんのか?)
(まさか。ルイスが僕と一緒にいることを望んでいるならそれはそれで喜ばしいことだ。僕のエゴを抜きにして、純粋に嬉しいことだと思っているよ)
(なるほどなー…本当に似た者兄弟だな、おまえらって)
(褒め言葉として受け取っておくよ、モラン)

のらくらり。

「憂国のモリアーティ」末弟中心ファンサイト。 原作者様および出版社様、その他公式とは一切関わりがありません。

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