命よりも大切なひと
59話60話をベースにした、ウィルイス前提ウィリアムとシャーロックのお話。
「そっくり」なのはその本質なんだろうけど、隠した本音もそっくり同じだということにシャーロックは気付いているんじゃないかな。
無造作に伸ばされた髪は絹のように細く美しいのに、どこか色褪せていて痛ましくも見える。
己のそれとは随分と色の違うその髪を見て、シャーロックはぼんやりと流れる様を意味もなく視界に収めては記憶に残さなかった。
虚無に満ちた表情を見ているよりは良いかと思ったけれど、どうやらそうでもないらしい。
「それ、食わないのか」
「……」
「おい」
「……あぁ。食べたいのならどうぞ」
重苦しい沈黙をひたすらに待っていられるほどシャーロックの気は長くはなくて、早々に急かしてみても反応は芳しいものではない。
用意されたスープは冷めきり、パンも少しばかり乾燥してしまった。
かろうじてベーコンの入ったマッシュポテトだけが良い香りを醸していたが、彼の興味をそそるには不十分だったようだ。
シャーロックは己の分の食事などとうに胃に収めている。
これ以上を食べられないこともないが、かといって二人前の食事を摂れるほどの余裕もない。
大体あれはシャーロックの分ではなく、目の前にいる彼の分なのだ。
「ちょっとでも良いから食え。体力もたねぇぞ」
「……うん」
「…はぁ。コーヒー淹れてくる。ちょっと待ってろ」
「…………うん」
シャーロックはウィリアムとともに水に沈んだ。
落ちた際の着地が至らなかったらしく、いや、そもそも受け身を取ることすら放棄していたのだろう。
ウィリアムはシャーロックとは違って打ちどころが悪く、先日まで随分と長く眠っていた。
ようやく目覚めてからは以前のような覇気もなく、ただただその緋色に虚無だけを映して何もないどこかを見つめるばかりだ。
ウィリアムがしてきたことは決して許されるものではない。
多くの人間に非難されて忌み嫌われようとも、何を言うことも出来ないほどの悪行をしでかしてきた。
その罪悪感に負けて死を選ぶことは、理性と感情ある人間ならばきっと間違ってはいないだろう。
彼の計画は彼の死を持って完成することをシャーロックは知っていた。
だからこそ、その計画を阻止する意味でも彼を死なせるわけにはいなかった。
もうそんな立場でもなかったけれど、ウィリアムの友人として誤った道は正してやりたかったし、私情にまみれてはいるが彼に死んでほしくなかったのだ。
だが、目覚めた日からウィリアムはろくに食事を摂ることもなければろくに眠っている様子もない。
青白い顔には隈が浮かんでいて、やつれた顔はまるで生きることを拒否しているようだった。
それも仕方がないかと、シャーロックはインスタントのコーヒーを淹れてはミルクを多めに足してウィリアムの元へ持っていった。
「ほら、飲め」
「……うん」
「飲めっつってんだろ、おい」
「…………ありがとう」
受け取ったマグを持ったまま静かに見つめるウィリアムを、シャーロックは苛立った様子で飲むよう促しては自らもそれを煽る。
胃に優しいようにミルクを足したけれど、どうせなら砂糖も足せば良かった。
妙に苛立つ気持ちを抑える意味でも物理的な糖分摂取は重要だ。
今からでも持ってくるかと、シャーロックが面倒な表情のままウィリアムを見れば、彼も面倒そうにコーヒーを啜っていた。
「美味しいね」
「嘘つけ。そんな顔で何言ってやがる」
「そんなことないよ、とても美味しい」
「そりゃどうも。確かお前はコーヒーより紅茶派だったな」
「…っ……」
「……」
以前見かけた姿を思い起こして何気なく口にしてみれば、ウィリアムにとっての地雷を踏んでしまったらしい。
途端に表情を硬くする彼を見て、こんなに分かりやすい奴だっただろうかと疑問に思う。
犯罪卿としてシャーロックを翻弄していたウィリアムは堂々たる姿で計画を実行していただろうに、その仮面を取ってしまえばこんなにも脆い一人の青年でしかなかったのだ。
あんなにも大それたことをしたとは思えないほど、精神的に出来上がっていないようにすら見えてしまう。
それとも完成していたはずの精神を、他の何かによって脆くされでもしたのだろうか。
「…僕の懺悔を聞いてくれるかい、シャーロック」
「……あぁ」
「僕は僕がしてきたことを後悔はしていない。あの方法でしか腐り切った階級制度は瓦解出来なかったと、今でもそう思う」
「…そうか」
「けれど、そのために犠牲にしてきた命に対しては申し訳なく思っている。その気持ちに嘘はない。彼らの命を犠牲に積み上げていく平穏な世界は、本質を見ればどす黒い血に染まっているのだろうね」
綺麗だなんて見せかけだけだ、本当はとてもとても醜いのに。
そう呟く瞳は長い髪に隠れて見えなかったけれど、変わらず虚無を映しているのだろう。
シャーロックはウィリアムの語りを遮ることなく、カップ片手に静かに聞いていた。
「それでも、僕は見せかけだけの美しい世界で良いから作りたかったんだ。綺麗なものだけを見せてあげたかった。綺麗な世界で生きていってほしかった」
「…誰に?」
「僕の弟に」
「……ルイスか」
弟の名を呼ぶことなく、ゆえにシャーロックがその名を呼んでみせれば、ウィリアムは空っぽな笑みを浮かべて振り返る。
彼が目覚めてからようやく表情らしい表情を見たというのに、痛ましいだけの笑みは何故か悲しかった。
「僕はね、シャーロック。あの子に生きていてほしかったんだ。無垢で純粋なあの子が生きていくに相応しい世界を贈りたかった。そのためなら他の何を犠牲にしても良い、醜く蔓延った悪魔は全て僕が始末する。そうすることであの子が平穏な世界で生きていけるなら、僕はどんな罪でも被ろうと決めていたんだよ」
「……重たいな、随分と」
「仲間にもそう言われたことがある。重たいんだろうね、僕の想いは…けどあの子は疑うことなく僕を慕ってくれたから、僕も歯止めが効かなかった。弱者を虐げる人間よりあの子の命の方がよほど大切だったから、殺すことに躊躇することもなかった。やってはいけないと理解していたのに、僕は秤にかけてはいけないものを秤にかけてしまったんだろうね」
手にかけてきた命よりもルイスの方が大事だと、ウィリアムは淀むことなくはっきり言った。
あれほど己の過ちを悔いていたウィリアムが何故途中で踏みとどまることが出来なかったのかを、シャーロックはようやく理解したように思う。
他にも色々な要因はあるだろうが、おそらくこれが一番彼の本質を表す言葉なのだ。
ウィリアムはルイスのために世界を変えたかった。
ルイスが生きていく上で支障のない世界どころか、ルイスが生きていく上で美しいものだけを見せたいと願うほどに、ウィリアムは弟に心酔しているのだ。
重苦しい愛情は到底理解できないけれど、それがウィリアムの本質だというのならば、シャーロックは彼の友人として出来る限りの肯定をしていきたいと思う。
「方法はともかく、大事なもんがあるっていうのは良いことなんじゃねぇか」
「そうかな…あの子のために綺麗な世界を目指していたけれど、それに比例するように僕の手は穢れていく。あの子も誰かの命を奪っているはずなのに僕だけが醜く穢れていくようで、段々あの子のそばにいることが心苦しくなっていたんだ」
「…そうかよ」
「僕がどんなに手を穢そうとあの子は変わらず僕を慕ってくれていたのに、僕はあの子を置いてきてしまった…」
「……そうか」
シャーロックには分かり得ないウィリアムだけの感覚は、きっとルイスにも分からないものなのだろう。
きっとルイスが知ったら憤慨するに違いない。
厳しい時間の合間を縫ってシャーロックに"依頼"をしてきたルイスのことを、ウィリアムは知っているのだろうか。
あの"依頼"があったからこそシャーロックは使命感に駆られて、最後までウィリアムを助けるために行動に移すことが出来たように思う。
それほどまでに大事に思っている弟からの願いを彼が知らないはずもないけれど、教えて損はないだろう。
探偵には守秘義務があるけれど今のシャーロックはもはや探偵ではないし、依頼人のことを喋ったところで常識がないと言われるだけで咎められることもない。
「置いてきたんじゃねぇだろ。リアムはルイスを選んだんだ」
「…え?」
「一緒に死ぬ方が簡単だったはずなのに、それでも連れていけなかったってことは、お前がルイスを選んだ何よりの証拠だろ」
「…そう、なのかな」
「そうだろ。…自分の命よりルイスの命の方が大切なんだな、リアムは」
「……う、ん」
薄々感じてはいたが、ウィリアムはどこか根本的な部分が抜け落ちている。
ウィリアムとルイスの人生や今までのやりとりなどカケラほどしか知らないシャーロックではあるが、気高いほどに真っ直ぐだったはずの信念を曲げてしまうほどの存在がルイスなのだろう。
悪に対する死は平等であるべきだという考えをたったひとりのために覆してしまう人間が、置いてきてしまった人間のことでこれほど頭をいっぱいにしているのだ。
彼の作った組織は血が通っていると評価していたが、やはりその中心を担うウィリアムにも温かい血が流れている。
安心したと、そう思うと同時に彼の弟であるルイスのことを思い浮かべる。
最後に見た彼の顔は思い詰めたように覚悟を決めており、けれど何かに怯えたように唇を噛み締めていた。
「そっくりだな、お前ら兄弟」
「……」
「自分の命よりも相手の命を優先するところが特に似てる。知ってるか?ルイスの奴、自分はどんな罰も受けるからリアムを助けるよう俺に"依頼"してきたんだぜ」
「……そうだろうね。あの子ならきっとそう行動する」
「予想の範囲内って訳か、つまんねぇの」
「……僕があの子の立場なら同じように行動するだろうから。驚くことでもないよ」
ウィリアムは強靭なる精神をルイスによって脆く儚く作り替えられた。
ルイスがいなければ、こんなにも弱く人間味あふれるウィリアムは存在しなかったのだろう。
もしかするとウィリアムという人間の本質はルイスによって完成されたと言って良いのかもしれない。
一見すればルイスこそが兄に依存しているのかと思っていたがそうではなかったのだと、シャーロックは自分のプロファイリングを修正しつつ上書きしていった。
「俺はルイスの"依頼"をこなせて良かったと思ってる。お前が生きていて良かったと、友人として心からそう思う。ミルヴァートンの件も含めてしなきゃならねぇことはたくさんあるが、それも含めて俺は生きていて良かった。お前は少しもそう思ってないのか?」
「…どうだろう」
「…まぁ、俺とお前じゃ背負うものの大きさがだいぶ違うから比べられたものでもねぇけどよ。ルイスはきっと、良かったと思うんじゃねぇのか。お前の兄貴のアルバートって奴も」
「……そうだね」
言葉では肯定しているのに煮え切らない声色だ。
おそらく英国にいるであろう兄弟を思ってはまたも心苦しくなっているのだろう。
生きていて良いと安易には言えないし、それが正しいとも思えない。
どう考えても生きている方がよほど苦しくつらいのだから、ウィリアムは自分で生きることを選ばなければならないのだ。
シャーロックはウィリアムという犯罪者を友人として肯定することは出来るけれど、生きたいと望む理由にはなれないだろう。
その理由になり得るのは、彼を構成する人間にしかあり得ない。
「…シャーロック」
「何だ」
「あの子の"依頼"を果たしてくれてありがとう。あの子に代わって、心から感謝するよ」
「…あぁ」
淡々と告げられる言葉に感情は乗っていない。
けれど、言葉の内容はとても前向きに感じられる。
「僕は僕自身を生きて良い人間だとは思えない。けれどそれは君が否定してくれた」
「あぁ」
「…正直、今でも死んでしまいたいと思う。そうでなければ、奪ってきたたくさんの命に申し訳が立たないから。…だけど」
「……」
「………やっぱり、ルイスに会いたい…っ…会って、謝って、あの子に恥じない生き方をして、胸を張って、そして…」
「…あぁ」
「……あの子が生きていればそれで良かったのに、僕はどうなっても構わなかったのに…っ…」
「…嘘つくんじゃねぇよ」
ルイスもウィリアムも、自分はどうなっても良いと本心からそう思っているくせに、実際の心の奥底ではそんなことを願ってはいないのだ。
あのとき見たルイスの顔に浮かぶ怯えたような表情の意味は、今のウィリアムときっと同じなのだろう。
「一緒に生きたいんだろ、お前もルイスも」
「っ…」
震えた声を隠すように、ウィリアムは息を呑み込んでは俯いた。
偽りなく相手の命ばかりを優先している兄弟が、その本心ではもっと欲張りなのだと知る人間はシャーロックだけだ。
ささやかに願うそれが叶えば良いと思う。
シャーロック含め、ウィリアムもルイスも幸せになるべきではないのだろうが、ともに生きて罪を償っていくことくらいは許されても良いのではないか。
初めての友人を前にそう考えるシャーロックは、拗れた兄弟仲が早くほぐれていけば良いのにと思いながら、もう冷めてしまったコーヒーを飲み込んだ。
そうしてまずは食べろと、話はそれからだと、とうに冷め切った食事をウィリアムに勧めては食べ終わるまでを見張ることにするのだった。
(昔も今も、あいつら兄弟はそっくりだな。見た目じゃなくて、相手ばかりを大事にしようとする本質がそっくりだ。まるでそれ以上を望むことを知らないみたいに…ったくリアムの野郎、早く来いよな。いつまでルイスに格好付けようと自分探しの旅に出るつもりだっつーの)
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