二人の侵入者
31話後、ウィリアムの授業に紛れこむ兄様とルイスの話。
二人がいることで張り切って授業するウィリアムいいるだろうなーと思うし、頭脳明晰な長男と末弟は容易く理解するんよ。
あのシャーロック・ホームズが、ダラム大学で教鞭を執るウィリアムを訪ねてきたらしい。
試験中の講義室に紛れ込んだだけでなく、あまつさえウィリアムが作った試験問題を解いたという。
解いた試験の結果は散々なものだったらしいが、ルイスにしてみれば、もはやそんなことはどうだっていい。
ウィリアムの職場で、ウィリアムが作った試験を、あのシャーロック・ホームズが解いてみせた。
その事実こそがルイスは許し難くて、端的に言えば憎いのだ。
だってルイスはウィリアムの職場たるダラム大学で教えをもらったことはないし、ウィリアムが作る試験を解いたこともない。
それなのにあの馴れ馴れしいシャーロック・ホームズは、ルイスも経験したことのない事実を経験してしまった。
端的に、どころか率直な感想を言ってしまえば。
「ずるいです!」
ずるいと思いませんか兄様、僕も兄様も兄さんが作った試験を解いたことはないのにシャーロック・ホームズは解いたんですよ、僕だって兄さんの授業を受けてみたいし試験も解きたいです、僕なら絶対に満点を取ってみせるのに。
そう言って不満をぼやいているのは、モリアーティ家での執務全般を担っている末弟のルイスである。
そのルイスの言葉に時折相槌を返しながら聞いているのは、モリアーティ家の当主たるアルバートだ。
ソファに腰掛け新聞を片手にティーカップを持つアルバートの視線は細かい文字に向いていて、けれど的確にルイスの言葉へ返事をしている。
傍で佇むルイスはそんなアルバートに気付きながらもひとしきりに不満を告げた後、ふぅ、と小さな息を吐いた。
それを頃合いにアルバートは新聞とカップを置き、隣へ座るようルイスに手招きをする。
「ウィリアムが今朝話していたこと、ルイスには衝撃だったんだね」
「はい!」
アルバートは朝一番に全ての新聞へと目を通す。
既に朝食を済ませている今の時間帯になれば、彼が真新しい情報のない新聞を読む返すなど絶対にないのだ。
ゆえに先ほどまで新聞を手にしていたのはただの建前だということにルイスは気付いていたし、視線を向けてくれずとも意識は自分に向けてくれていたことを知っていた。
そうでなければ、アルバートの邪魔をするような雑談などルイスは絶対にしない。
己の言葉を要約した発言に思い切りの同意を返してから、ルイスは形の良い唇をムッと尖らせた。
「しかも、シャーロック・ホームズが来たのは昨日一昨日のことではないという話です。兄さんの話から察するに、もう二週間は前のことなんですよ。計画の邪魔になるかもしれない人間について、そんなにも長い時間黙っているなんて」
「ウィリアムの口ぶりからすると、取るに足らない出来事だから話すに値しないと考えていたようだがな。さも偶然思い出したように話していたから」
「えぇ分かっています、兄様。兄さんの話し振りからすれば、シャーロック・ホームズが僕達の正体に近付いているわけではないのでしょう。だからこそ…」
「彼がウィリアムの試験を受けたというのが気に食わない、と」
「はい…!」
素直な限りだと、アルバートは不満を思い切り表情に乗せているルイスを見た。
綺麗に整っている顔立ちは普段であれば冷たいと称されるほどに無表情なのに、今は感情のコントロールが追いついていないのか、誰が見ても「ずるい」と思っていることが知れてしまう表情だ。
とはいえ、ここに他の人間の気配が少しでも感じられた瞬間に、その表情はすぐさま無くなってしまうのだろうけど。
「兄様だって、得体の知れない人間に先を越されて悔しいと思うでしょう?」
「それはまぁ…そうだな」
「やはり!」
アルバートがルイスの求める言葉を返せば、彼は嬉しそうに表情を変えてくれる。
実際は悔しいも何も、アルバートはシャーロック・ホームズについて深くは知らないためにどうも思うことはない。
ウィリアムの心理分析の結果と、ルイスの主観。
あとはフレッドが調べた情報がアルバートにとってのシャーロック・ホームズの全てだ。
そんな輩に悔しさを覚えるほどアルバートは愚かではない。
だがルイスにしてみればウィリアムの初めては何だって自分のものだと思っていたのだろうし、事実、ウィリアムにとって一番最初の生徒はルイスだろう。
そんなルイスでさえウィリアムが作る試験は受けたことがない。
それなのに横から出てきたどこぞの探偵に先を越されたのが悔しいという、あまりにも愚かで可愛い理由に、アルバートはいっそ微笑ましくなった。
二週間前に存在したというウィリアムとシャーロック・ホームズの会敵は脅威にはならない。
それは安堵に繋がるとして、ルイスの中で次に生じる感情はただただ「悔しい」ということだけなのだ。
これを可愛いと言わずして何を可愛いと言えば良いのだろうか。
全くもって弟らしい限りである。
「ルイスはウィリアムの試験を受けたいんだね」
「試験じゃなくても、大学での兄さんの授業を受けてみたいです」
「では行ってみようか」
「え?」
「これからダラム大学へ行き、ウィリアムの講義を受けてこよう」
「え…」
珍しくも週半ばまでアルバートは休暇中であるため、現在はダラムの屋敷で兄弟三人の時間を過ごしていたところだった。
三人で朝食をとり、その後で仕事へと向かうウィリアムを二人で見送ったばかりなのだ。
粛々とルイスの愚痴を聞いていたアルバートは、さも都合が良いとばかりに立ち上がっては締めていたタイを整えるように指を伸ばしていた。
「こんちはー…です?」
「あぁ、こんにちは」
「前の席、失礼しまーす…んん?」
「どうぞ」
その日、ダラム大学にある講義室では見慣れない人物らが教室の隅を陣取っていた。
大半の学生は名門貴族家の人間かつストレートに入学してくる者ばかりだが、ときに飛び級をして幼さが残る人間もいれば、幾つかの事情のもと年を重ねて学ぶ人間もいる。
もちろんそういった学生は少なく、いたとしても噂を呼ぶことがほとんどだ。
けれど規模の大きい大学だからこそ噂が巡らないこともあるし、多くの人間が集まるだけあって、たまにすれ違う程度の他人にそこまで興味を割かないことも多かった。
そのため、数学の講義が始まる教室に見慣れない二人がいたとしても多くの学生は首を傾げながらも気にしないのである。
「(なぁ、今まであんな奴らいたっけ?)」
「(いや見覚えないけど…でも身なりは普通だし、俺達が気付いてなかっただけなんじゃないか?)」
「(でも金髪の方はともかくあの茶髪の人、俺らより年上じゃねぇか?オーラやばい)」
「(あんな目立つ二人組いたら気付かないはずないし、今回だけのモグリじゃね?)」
「(モグリって、あのモリアーティ先生の授業わざわざ受けるとかあり得んの?)」
そんな声が聞こえてくることに気付いていながらも、ざわつきの原因たる二人は静かに資料を手に取った。
教室の前に置かれていた次の講義に使う予定の資料だ。
モリアーティ教授の文字でいくつかの数式と文字が書かれており、おそらくは教本の補足として活用するのが正しい使用法なのだろう。
生憎とこの二人はその教本を持っていないため、どの部分が捕捉されるのかは分からない。
けれど戸惑うどころか堂々と背筋を伸ばす姿はカケラほどの怪しさもなく、二人を怪しんでいた学生達は首を傾げながらも、じきに始まるだろう講義の準備へと意識を向けることにした。
何せモリアーティ教授の授業は数学科の学生ですら理解が難しいと評判である。
いや、至極分かりやすい講義ではあるのだ。
だが教えられる膨大なその知識に脳が付いていかない、応用するに至るまでの時間が多く必要になる、というのが定説になっていた。
総合して評判の良い講義であるためモリアーティ教授も人気なのだが、単位取得に関しては甘いどころか非常に厳しいため、受講を敢えて避ける学生もいるほどである。
よって、見ず知らずの他人にかまけている余裕などないのだ。
そう気合いを入れ直した数名の学生は、チャイムと同時に入ってきた鮮やかな金髪の教授に目を向けた。
ダラム大学で教鞭を執る数学科教授、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ。
いつも穏やかで優美な笑みを携えていながらも授業や学生達の素行に甘いということはなく、むしろ手を抜くということを知らないほどに愛情持って厳しい限りの人間だ。
他教授で横行する一部学生への嫌がらせや横柄な態度も一切ない。
まさに非の打ちどころのない理想的な教授、それがモリアーティ教授である。
だがそんな彼には厄介な癖というか習性があると、学生達の間では専らの評判だった。
「こんにちは、皆さん。今日は前回の続きから始めていきましょう。…おや?」
講義室に入ってきたモリアーティ教授ことウィリアムは挨拶とともに全体を見回し、ある一点を見てはその緋色の瞳を見開いた。
見覚えがある、どころではない顔が二人分。
一番後ろの机に着席し、素知らぬ顔で並んでいるのだ。
眼鏡をかけた金髪の彼はウィリアムの顔を見た瞬間に肩を上げて期待を表しており、優雅に微笑む茶髪の彼は資料から顔を上げて一層に笑みを深めていた。
なぜ二人がここに、と考えると同時にウィリアムの脳内では答えが弾き出され、元々あったはずのやる気が一気に倍増する。
外から見ていたのでは分からない一瞬の出来事により生じた時間に大半の学生は訝しげは表情を浮かべたが、それを払拭するようにウィリアムは一際高らかに声を張った。
「なんでもありませんよ。ただ今日の僕は機嫌が良くてね、少し張り切っているんだ。さぁ皆さん、今日も一日頑張りましょう!」
学生に評判の良いモリアーティ教授には厄介な習性がある。
機嫌を悪くして誰かに当たるような真似をする愚かな人間ではないのだが、その逆に、機嫌が良いととても素晴らしい授業をする習性があるのだ。
とても素晴らしく分かりやすい、それでいて高難度の授業。
大半の学生は疑問符を浮かべながらも展開される講義に板書すら追いつかず、質問があるか尋ねられても自分の理解が現状どの位置にあるかも把握出来ないほどである。
数字と記号が織りなす魔術のような解説が、滑舌良く耳馴染みの良い美声で届いてくるのだ。
理解よりも心地良さに意識が向いてしまい、結果として何もかもが追いつかない。
機嫌が良いというだけあって記憶に残りやすいだろう小ネタも挟んでくれているのにそれすらも覚えられないのだから、この講義の単位を必要としている学生にとっては死活問題だった。
しかもよりによってこういったときの内容ほど、広範囲にわたって試験に影響してくるのだから。
「(いやいや待て待て、今の先生、何語話してる?)」
「(わ、わかんねぇ。英語じゃないことは確か)」
「(モリアーティ先生って言語学も堪能だったのかよ)」
「(え、数学ってこんなだったっけ?板書意味わかんねぇ、せめて英語で解説してくれよ)」
「ここまでで聞いておきたいことはありますか?」
「「「「あ、英語」」」」
「先生は常に英語を話していますよ」
面白いジョークだね、と笑いながら学生達の言葉を聞き流し、質問は何もないと判断したウィリアムはそのまま講義を続けていく。
端正な文字が書かれた板書を丁寧に消しながら流暢に口を動かし、そうして新しい数式とともにポイントとなる部分を単語として記載する。
振り返りどこか一点を見ては口角を上げ、「ここは試験に出るので覚えておくように」という学生に向けた死刑宣告を告げてから嬉しそうに、いや、張り切った様子で言葉を続けた。
そう、今のウィリアムは言葉の通りに張り切っている。
幼い頃から最愛の弟への授業をこなしており、もう幾度も繰り返したはずの講義であるはずなのに、まるでこれが初めてだと言わんばかりの張り切り様だ。
僅かに語尾が跳ねているように感じられるのは気のせいではない。
そんなウィリアムを見てほとんどの学生は冷や汗を流しながら必死に目と耳と脳を働かせていたが、今日この場においては例外がいた。
「ふむ。なるほど、そういうことか」
「大変ためになりますね」
「ぅえっ!?」
「…何か?」
「あ、なんでもないです」
「モリアーティ先生の授業中です。前を向いてはどうでしょうか」
「…はい」
見慣れない二人組から聞こえてきた言葉に反射的に声を出してしまった学生は、金髪の方に嗜められて静々と前を向く。
機嫌の良いモリアーティ教授の講義、というダラム大学において最高難易度の授業をその場で理解する人間がいるなどあり得ない。
そんな態度が滲み出ていた学生の真意に彼らが気付くはずもなく、それどころか「集中して先生の授業を聞いてください」と言わんばかりの視線を浴びせられた。
何者だこの人達、という思考が周囲の学生に蔓延したかと思えばウィリアムはますます笑い、さも楽しそうに声を出す。
「じゃあサービスとして、先生が今研究中のテーマを簡略化した物理学応用の計算式も教えてあげようか」
多くの学生による声にならない悲鳴に紛れ、わぁ、という期待に満ちた声と、ほう、と興味深げな声が講義室に消えていった。
(今日のモリアーティ先生…鬼だったな…)
(本人は笑って楽しそうにしてるから余計に…)
(いつもなら分かりにくそうな部分は細かく解説してくれんのにそれもなかった…)
(分かりにくいとか分からないとかそうじゃなくて、分かりやすい解説してくれてんのに理解できないってどういうことだよ…)
(前はなんだっけ、一泊だけど家族と旅行行ったから機嫌良かったんだっけ?)
(その前は弟が初めて作ったパイがあまりに美味しかったからって機嫌良かった)
(弟が学校に忘れ物届けに来てくれたときも一日機嫌良かったぜ)
(弟率高いな、今日もそいつ何かしたのかよ)
(知らねー…それより今日のモリアーティ語の講義、マジで一割くらいしか理解出来なかったんだけどどうする?)
(どうするも何も、聞きに行くしかないだろ…今日はまだ機嫌良さそうだから明日行こうぜ)
(賛成)
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