シェフを呼んでくれるかい?
モリアーティ三兄弟による「美味しい。シェフを呼んでくれ」というお遊び夕食会。
最後の事件前の時空でほのぼのしてる。
モリアーティ家の厨房には白いコック帽がある。
調理に人生を賭けてきた人間が被るような、長くて真っ白いコック帽だ。
それに少しの使用感もないのだが、至って当然のことである。
モリアーティ家における調理の一切を担うルイスには、コック帽など被る習慣がないからだ。
「お帰りなさい、アルバート兄様。長くの出張、お疲れ様でした」
「ただいま、ルイス。あぁ、さすがに少しくたびれたよ」
「夕食の用意は済んでいますが、どうされますか?」
「頂こうかな」
軍人として、短期とはいえ遠くへの出張を余儀なくされていたアルバートは、実に二週間ぶりに屋敷へ帰ってきた。
久々の我が家は温かく、何よりアルバートにとって唯一の家族が居る場所だ。
帰る場所に帰って来られたことを安堵しつつ、無意識に入っていたらしい肩の力が抜けていくのを実感する。
そんな兄を労いつつ、ルイスは彼の持つキャリーを受け取った。
「ウィリアムは?」
「今朝方に論文が完成したようで、今は仮眠を取っています」
「また徹夜をしていたのか」
「えぇ、この三日ほど。…あと少しで完成するから、という言葉を信じて見逃していたのですが、今日完成していなければ無理矢理に寝かしつける予定でした」
「はは、それは残念だったね」
気合いを表すように拳を握るルイスを見やり、アルバートは心から和らいだ気持ちで笑みを浮かべた。
ルイスの寝かしつけは情に訴える方法から始まり力技を行使することもあるのだが、この様子ならば力技でいくつもりだったのは明白だ。
久々の我が家なのだから、ルイスによるウィリアムの寝かしつけも見てみたかった気もするが、それはいつでも見られるだろう。
ルイスにとっては望ましくないだろうが、生憎と間違いのない事実だ。
だから今は兄弟揃っての夕食が叶うことを優先し、喜ぶべきである。
「では、今夜は兄弟水入らずの夕食になるのかな」
「はい。腕によりをかけて用意しました。すぐにウィリアム兄さんを起こしてきますので、先にお部屋でお待ちください」
廊下の途中で別れ、アルバートは手を洗うため洗面所へ、ルイスはウィリアムの寝室へと向かっていく。
夕食が用意されているであろうリビングからは温かな光が漏れていた。
「お帰りなさい、アルバート兄さん。お迎え出来ずすみません」
「ただいま。構わないよ、今朝まで忙しくしていたんだろう。論文は無事完成したのかい?」
「力作が完成しました。後で読まれますか?」
「いや、今夜はやめておこう。明日以降に読ませてくれ」
「お話中すみません。食事の用意をしても良いですか?」
モリアーティ家の当主と次男が席に着きながら雑談をしていると、末弟が鍋の類を乗せたワゴンを押してくる。
それを遮ることなく頷いて返せば、ルイスが鍋の蓋を外してそこからスープを汲んではカップに流す。
白い湯気を立てているスープはとろみが付いており、見るからに温かで体の芯まで熱を与えてくれそうだった。
メインディッシュである若鶏のグリルと付け合わせの卵にも後から熱いソースを掛けていき、温めたばかりであろうパンもふかふかと柔らかそうだ。
唯一冷たい皿に乗っているのは、色鮮やかなトマトときゅうりのサラダだった。
あまり野菜を食べる習慣のなかったアルバートだが、ルイスが調理を担当することになってからは苦も無く食べられている。
むしろ肉や芋や豆だけの食事よりも体調が良くなったのは、きっとルイスが用意してくれている野菜のおかげなのだろうと察しもついていた。
「メインは若鶏のバジルソース掛け、こちらはじゃがいもとコーンのポタージュスープです。パンは今日焼いたばかりなのでまだたくさんあります。いくらでもお出しするので教えてくださいね」
丁寧に全ての皿を用意したルイスは満足したようにハキハキとメニューの説明をする。
久々の三兄弟揃っての食事を心待ちにしていたのはアルバートだけではなく、このルイスもであり、ウィリアムもそうだった。
温かな食事は見ているだけでも満たされていくようだ。
出張に出ていたアルバートは勿論のこと、しばらく論文作成で忙しかったウィリアムも、ここ数日は冷たいものばかりを胃に収めていたのである。
熱いお茶を飲むことはあれど、固形物は冷めてから食べることが多かったため、温かい食事というだけでも満足感が高い。
それを見越して温かい状態での夕食を用意したルイスに感謝の言葉を向けつつ、ウィリアムとアルバートはカトラリーを手に取った。
「ほぅ…」
「うん、美味しい」
熱々でありながら適温のスープを口にして、思わずホッと息を吐く。
素材の味を活かして塩で味を整えている、あっさりした風味のスープが胃に染み渡る。
一口、もう一口と飲み進めていき、潤った口のまま温かいパンへと手を伸ばせば、さっくりとした皮の中からふんわりした生地が見えてくる。
小さくちぎって口にすれば、小麦とバターの風味が鼻をよぎった。
「…疲れた体に沁みていくようです」
「同感だな。実に美味しい…」
ウィリアムとアルバートの手が止まらないまま食べていく様子を、ルイスはうんうんと頷いては腕組みをして誇る。
ルイスには最愛の兄達の胃を満足させられるのは自分だけだという自負がある。
疲れた体を癒すのは適度な睡眠と滋養のある食事に他ならないのだ。
美味しいものを作ることでウィリアムとアルバートの癒しとなれるのであれば、ルイスが幼少期から炊事を担当してきた甲斐がある。
よく噛んでは飲み込みながらしみじみ美味しいと呟く兄達の様子は、ルイスにとって大満足だった。
「うん、美味しく出来ました」
兄達に続けてカトラリーに手を伸ばし、自らが作った食事を口にしては太鼓判を押す。
ルイスはさして食に興味はないが、ウィリアムとアルバートには美味しいものを食べてほしいし、二人が美味しいと感じるものをルイスも美味しく感じられることは嬉しいと思う。
何より、美味しい食事を食べたときの幸福感はすきなのだ。
一口を飲み込んでから聞こえる褒め言葉を照れくさく思いながら、ルイスはウィリアムとアルバートの会話を静かに聴いていた。
「とても美味しいですね、今日の夕食は」
「あぁ。さぞ腕の立つ人間が用意したのだろうな」
「…!」
すると、先の展開を予測できる言葉が耳に入ってきた。
ルイスは思わず手を止めて小さく息を潜めて次の会話を待つ。
「こんなに素晴らしいメニューを用意したのは誰なんでしょうね」
「そうだな。ルイス、シェフを呼んでくれるかい?」
「はい、ただいま」
予想通りの言葉に戸惑うことなく、ルイスは席を立つ。
そうして厨房の方へと足を向けて、壁に掛けられている真っ白く長いコック帽を頭に被った。
髪の乱れがないかを簡単に確認してからリビングへと戻り、食事の手を止めてソワソワと待っている二人の元へと近寄っていく。
「お待たせしました。本日の調理を担当した者です」
「あぁ、あなたがシェフですか」
「はい。お口に合いましたでしょうか」
「それはもう、美味しくいただいています。あなたは天才だ」
「恐縮です」
コック帽を被ったルイスはウィリアムとアルバートのそばに立ち、恐れ多いとばかりに深く頭を下げた。
そんなルイス、いやシェフを見やり、ウィリアムとアルバートは控えめながらも音の響く拍手を送った。
「お二人に美味しく食べていただけたのなら私も嬉しい限りです」
顔を上げたルイスは誇らしげに、それでいて自慢げな表情を隠さずズレていない眼鏡を押し上げた。
いわゆるドヤ顔である。
鼻高々に誇るルイスの顔はさも嬉しそうで、兄から見れば微笑ましくも可愛らしい限りだった。
「これだけ見事な料理を作るのだから、今日までにさぞ大変な努力をしたのでしょう。尊敬します」
「いえ、大したことではありませんよ」
「謙虚な方だ。だからこそ、この料理も嫌味なく美味しいのでしょう」
「ありがとうございます」
シェフであるルイスを認めつつ、作られた料理も褒める。
事実、ウィリアムとアルバートにとってルイス自身もその彼から作られた料理も、これ以上ないほど大切なものだ。
突如始まったお客様とシェフごっこに疑問を持つものはここにいない。
他愛もないごっこ遊びに興じながら、客はいかにこの料理が美味しいのかを口説いていき、シェフは今日のこだわりポイントを丁寧に解説していった。
始まりはもう随分と昔のことになる。
三人でこの屋敷に移り住んだ当初、慣れない環境での執務に精を出していたルイスと違い、ウィリアムとアルバートは引っ越しに伴う各種手続き及び近隣住民や貴族家への根回しをこなしていた。
効率とは程遠い、古くからの前例に則った煩雑な行動は着実に二人の疲労を溜めており、引っ越したばかりだというのにそこから一月近く三人でゆっくりした食事を摂ることも叶わなかったのだ。
手早く食べられるものでとりあえず腹を膨らませるだけの日々がようやく落ち着いた日の夕食、ルイスはいつもよりも手の込んだメニューを用意した。
チーズクリームで煮込んだシチューをパイ生地で包んだポットパイは、今のルイスであればむしろ簡単な部類のレシピになる。
だがまだ幼かったルイスにとっては煮込み具合の調整は勿論、パイ生地を焦がさないよう焼くことが難しかったのだ。
こんがり美味しそうな狐色に焼けたパイ生地のポットパイを用意して、良い匂いだね、とウィリアムに誉められたことで、ルイスは既に満足だった。
「美味しい…」
「あぁ…美味しいな」
そうしてパイ生地を割った先で白い湯気を見せるシチューを食べたウィリアムとアルバートは、実にしみじみと感想を述べた。
久々の温かい食事に胃が喜んでいる様を感じさせるように、お腹の底から出された低くじんわりした声だ。
お世辞ではない感想にルイスも嬉しかったのだが、続けられた言葉に思わず目を丸くさせてしまった。
「この美味しい料理を作ったシェフは誰だろうか」
「確かに気になりますね」
「し、しぇふ?」
アルバートの口から聞いたことがあるような、いやないような単語が聞こえてきた。
しかもウィリアムもその単語に乗っかる形で会話が続いている。
ルイスだけが戸惑っている状況の中でつい自らの衣服の裾を握ったところ、ウィリアムは解説するかのように問いかけてきた。
「ルイス、この料理を作ってくれたシェフは誰なのかな?」
「是非とも会っておきたいんだが、呼んでくれるかい?」
なるほど、シェフとは料理を作った人のことを言うのか。
ルイスはそう理解したが、作ったのが自分であることなど二人は知っているだろうに、という疑問を浮かべながら、ひとまず裾から手を離して顔を上げた。
「ぼ、僕が作りました。シェフです」
「この美味しい料理を作ったシェフはルイスなのかい?」
「凄いじゃないか、ルイス。モリアーティ家の自慢のシェフだね」
「美味しいよ、ルイスシェフ」
「え、あの…はい」
優しい笑顔で真正面から誉められてしまうと、どうしたって照れてしまう。
上手く返事をすることが出来ないまま、けれど嬉しさが滲み出るように、ルイスの口元は上擦っている。
ついには耐えきれず、んふふふ、と閉じた唇の隙間から笑い声を上げていた。
要は兄達によるお遊びの一種なのだろう。
ルイスはそう解釈して、勿体無いほどの賞賛を小さな体で受け止めた。
対するウィリアムとアルバートは、あれは精神的な疲労とストレスが溜まった末の奇行から来る茶番だったと、美味しい食事を食べて可愛い末っ子の笑顔を見てぐっすり十時間睡眠を取った翌日に悟っていた。
つまるべくは、癒しが欲しかったのである。
以来、誉められて嬉しそうにするルイスを眺めながら食事を摂るために、疲労が溜まった兄達によるモリアーティ家のシェフごっこというお遊びが定番となった。
三度目の茶番を終えた後には兄達からコック帽をプレゼントされるまでになったのだから、さすがのルイスもある程度は慣れてくる。
今では一人二役、シェフを呼んでくる人間とシェフとしての人格を使い分けるまでにもなっていた。
抑えていた嬉しさを隠すこともなく、自信満々のドヤ顔すら披露するまでになったのである。
「お二人とも、食後のデザートにプティングはいかがでしょうか。新鮮な卵と牛乳を使用した、バニラの風味豊かな自信作です」
「それは良い。是非頂きましょう」
「ではすぐに。カラメルとホイップはかけても宜しいですか?」
「シェフのお勧めでお願いしよう」
「分かりました」
真っ白いコック帽を被ったシェフはその場を離れ、ミルクパンに用意してあったカラメルソースを少しだけ温める。
そうして冷やしてあったプティングにソースをかけ、ホイップクリームを添えたものを三つ用意した。
このデザートを持っていけばシェフの出番はおしまいだ。
美味しく作ることができたプティングは三人一緒に食べなければならない。
ルイスは帽子に軽く触れ、ズレていないのにズレを直すように整えていく。
「お待たせしました。本日のデザート、特製プティングです」
「ありがとう」
「これは美味しそうだね」
カップを配り、カトラリーを揃え、そうしてシェフは自慢のコック帽を脱いだ。
ルイスは自らの席に座り、両手を兄達のプティングに添えるように広げてみせた。
「さぁお召し上がりください。甘みを効かせているのできっとお二人の疲れも癒えるはずです」
今のルイスは癒しを求めてお遊びをするウィリアムとアルバートの意図に気付いている。
疲れをしっかり癒し、明日もまた元気な姿を見せてほしい。
そんな気持ちで甘いデザートを作ったのだが、ルイスの思惑などに左右されずとも二人の疲労はもう癒えていた。
ウィリアムとアルバートにとって、最愛の弟が自信満々な表情を浮かべて賞賛を受け入れる姿はそれだけで癒しになるのだから。
控えめな末弟が自信に満ちた姿を見せてくれることは心の健康に良いのである。
「美味しいプティングだね。明日からも頑張れそうだ」
「浴槽にお湯を張ってあります。今夜はよく体を温めてから寝てくださいね」
「いつもありがとう、ルイス。助かるよ」
ルイスは美味しそうに食べてくれるウィリアムとアルバートに元気をもらい、ウィリアムとアルバートは美味しい料理と嬉しそうなルイスに癒しをもらう。
持ちつ持たれつの三兄弟は、今夜も仲睦まじく過ごしていた。
(む、このリゾットは絶品だな)
(本当ですね、美味しい。さぞ名のある方が作ったのでしょう)
(ルイス、シェフを呼んでくれるかい?)
(はい、すぐに呼んできます)
(お待たせしました、シェフです)
(あなたがそうでしたか。あなたの作った料理、全て美味しくいただいていますよ)
(このリゾット、米の炊き具合が絶品ですね)
(ありがとうございます。こだわった甲斐がありました)
(…お前ら、なんの茶番だ?)
(茶番とは失礼ですね、モランさん)
(美味しいものを作ったのが誰か知りたいのは当然の心理だろう?)
(ルイスは優秀なシェフだからね、きちんと労ってあげないと)
(僕はモリアーティ家のシェフですからね、呼ばれたのなら出て行かないと)
(あ、そう。なんつーか…仲良いのな、お前ら)
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